温度差
もう戻らないとわかっている。
通知は、来ないとわかっている。
飲み会の帰り道ほど辛いことはない。
それでも親指は勝手に画面を更新する。
トーク画面を閉じては開き、閉じては開く。
最後のやり取りは三日前。「おつかれさま」のスタンプで止まったまま、会話は凍っている。
いけない関係を終わりにしたいと向こうは思っていた。
曖昧な言葉で、でも十分に決定的な距離を置いて。
なのに、無視して連絡してしまおうかと考える。
「今からゲームでもやりに行っていい?」
文字にすると、あまりに幼い。
家に行くきっかけになったゲームを使おうとしている卑怯者だ。
三十五にもなって、夜の22時前に送るセリフじゃない。
酒の勢いを借りないと打てないくせに、送信ボタンの前で震えるほどの勇気もない。
向こうはきっと、楽しく過ごしている。
友達と笑っているかもしれないし、もう別の誰かと映画を観ているかもしれない。
自分の存在なんて、今日一度も思い出していないかもしれない。
画面を伏せる。
ポケットに入れても、数歩歩けばまた取り出してしまう。
結局、自宅の最寄り駅まで我慢して帰る。
改札を抜けたところで、急に空腹とは違う何かが込み上げる。
腹はいっぱいのはずなのに、締めのラーメンが食べたくなる。
温かいものを、無理やり体に流し込みたかった。
適当に入った店は、蛍光灯がやけに白い。
カウンターの隅に座ると、店主は無言でラーメンを置いた。
一口すすって、すぐに後悔する。
ぬるい。
驚くほど、ぬるい。
ああ、と心の中で笑う。
こんな夜にふさわしい温度だと思った。
さっさと帰ればよかった。
こどもがいる家に。
まだ22時。
もしかしたら、まだ起きているかもしれない。
「おかえり」と、少し眠そうな顔で言ってくれるかもしれない。
自分には帰る場所があるのに。
それでも、帰りたくなかった。
ぬるいスープをすする。
味もよくわからないまま、後悔だけが積み重なる。
あのとき連絡しなければよかった。
あのとき優しくしすぎなければよかった。
あのとき本気にならなければよかった。
後悔はいつも、食べたくもないラーメンみたいに胃に残る。
スマホが震えた気がして、慌てて取り出す。
通知はニュースアプリだけ。
わかっている。
来ない。
それでも、期待する自分をやめられない。
丼の底が見えても、何も変わらない。
スープの温度も、気持ちの行き場も。
会計を済ませ、夜風に当たる。
酔いが少し引く。
家の灯りが遠くに見える。
あそこには、確かな生活がある。
自分が守るべき、揺らいではいけないものがある。
スマホをポケットの奥に押し込み、電源を落とす。
もう戻らないとわかっている。
もう来ないとわかっている。
それでも、画面を気にする自分ごと引き連れて、
ドアノブに手をかける。
「ただいま」
小さな声が、やけに大きく夜に響いた。




