木曜のさよならバレンタイン(2026.2.12.Thu)
――小春先生、1年の山本先生と結婚して、先生も辞めるらしいよ。
小さなため息がひとつ、廊下に溶けていった。
褪せた扉の覗き窓の奥は、薄らと曇っていて見えない。古びた校舎の、建付けの悪い扉。ヒビに張られたテープの端を、爪で弄る。
扉の向こうで、微かにパソコンの音が響いていた。
中から漂ってくる、コーヒーとストーブの匂い。
――体育教官室。
扉の上に張られたプレートを見上げた。所々剥がれた文字の上を、何度も目が往復する。窓のテープが、ぺり、と小さく剥がれ落ちた。
ちらと、手元の小さな紙袋に視線を落とす。
隙間から覗く、チョコレート。
今日は、木曜日。バレンタインの二日前。
周りの子は、金曜日にチョコを交換する予定だという。だから、私はその一日前に持ってきていた。
……小春先生に渡す人が、私の他にいるかもしれないから。
ため込んだ息をそっと吐く。
これは、感謝のチョコレートだから。
胸元に抱いた紙袋に力を籠める。中のチョコが熱で溶けていきそうだった。
体育館の方から、ホイッスルの音が微かに聞こえてくる。廊下の時計の針は、いつの間にか五時を指していた。先生が、部活に顔を出しに行ってしまうかもしれない。
震える手を握って、そっと扉を叩いた。弱弱しいノックが三回。
中から間延びした声が聞こえてきた。
「あ、あの。失礼します。3年2組の南 奈子です!」
「あ、奈子?いいよ。入ってー」
とくん。
小さく心臓が跳ねる。
がらりと開けた扉。中央に並べられたデスクの一つ、扉に一番近い机に小春先生が座っていた。他の先生はいない。
普段来ている黒のジャージの上から、暖かそうな上着をゆったりと肩に掛けている。耳上で結われたポニーテールが、少し崩れていた。うなじにかかる髪の毛に、息をのむ。
――私は、小春先生が、好き。
運動が苦手な私は、体育の時間がいつも憂鬱だった。ため息と共に、運動が得意な生徒の方に向かう先生ばかり。
「大丈夫。先生がゆっくり見本を見せるから」
ボールを片手に、にっこり笑った小春先生。
上達したら、一緒に喜んでくれた。夕日に照らされた先生の笑顔。服の袖で汗を拭う姿。
何もかもが大好き、だった。
「あれ。奈子、入らないの?」
小春先生が、不思議そうにこちらを見る。ぱっと紙袋を背中に隠すと、慌てて中に駆け込んだ。そろそろと近寄ると、先生が軽く噴き出す。
ふわりと漂うコーヒーの香りに、息が詰まった。
先生がコーヒーに口をつけ、ちらりとこちらを見る。
「どうしたの奈子。なんか用事があったんでしょ」
見上げる先生と視線が一瞬絡む。ぱっと目をそらした。
しゅうしゅうと音を立てるストーブが、やけに煩い。背中に回した紙袋の紐を、ぎゅっと握りしめる。
先生の持つカップの縁を見つめながら、口を開く。吐き出した息は震えていた。
「……山本先生と結婚して、学校、辞めちゃうって聞いて……」
「噂は早いね」
先生は肩をすくめた。コーヒーに息がかかって、水面が軽く揺れる。映った先生の顔がぐにゃりと歪んだ。
小春先生は小さく息をつくと、カップを机の上に置く。
遠ざかるカップの縁。何かに焦点を当てようと、視線が宙を彷徨いだした。
吸い寄せられるように見た、パソコンのデスクトップ。先生の横顔が、薄らと反射している。すらりとした首に、絡む髪。目を逸らすと、ふらふらと視線を上げる。
ぱちり。
頬杖をついて、見上げる先生。緩んだ目元に、頬のえくぼ。色素の薄い茶色の目が、 悪戯っぽくきらめく。目をそらせなかった。
「……なに、奈子。惚気でも聞きに来たの?」
最近多いんだよね、と先生が小さく笑った。やれやれと目を閉じ、ため息をつく。
ふと見下ろした先生の机。軽く置かれた左手の薬指が、一瞬きらりと光る。
銀色の指輪。
息が詰まった。反射した光が、瞳孔を焦がしていく。
苦しい。
コーヒーの苦い匂いが纏わりついた。
緩められた先生の唇が、薄く開く。喉の奥から何かが溢れそうになるのを、ぐっとこらえた。ぎゅっと閉じた瞼が熱い。
「……あのっ」
先生の目の前に紙袋をつきだす。
「え?」
「チョコレート……です。いままでの感謝と……」
喉に溢れた苦い味を、喉の奥に飲み下した。
「ご結婚、おめでとう……ございます」
「いいの?……ありがと、奈子」
そっと手のひらから紙袋が離れていった。
軽く触れた先生の指。優しい香りが鼻をくすぐる。指先からじわりと広がった熱が、胸の奥を震わせていく。
静かに下ろした手を、軽く握りしめた。先生の温もりを、手のひらの中に閉じ込める。
「凄い、手作りチョコだ」
小春先生は、紙袋から取り出したチョコを、まじまじと見つめる。キラキラのホログラムの袋に入った、チョコレート。輝いた瞳が左右に揺れる姿に、小さく笑みがこぼれた。
ふいに、先生がこちらを見る。にやりと笑うと、つうと指先で袋をなぞる。
「これを貰う将来の奈子の彼氏は、幸せだね」
握りしめた手が解けた。指先から冷気が駆け上がる。頭の中で、凍るような水が溢れ始めた。溺れた喉が苦しくて、肺から空気が抜けていく。
「じゃ、じゃあ。私、そろそろ帰りますね!」
勢い良くお辞儀をすると、小さく笑う。チャイムが合わせて鳴り響いた。
午後五時半。下校時刻だった。
「うん。気を付けてね」
チョコ、ありがとう、と小春先生が笑った。
ドアに手をかけて振り返る。手を振る先生に、軽く口角を上げて、会釈した。
夕日に染まった先生の笑顔。あの日、手を差し伸べてくれた先生の姿と重なる。 その左手には、何も光っていなかった。
するすると締まるドアの隙間から覗く光に、胸の奥が焼けていく。先生の薬指が、眩しかった。
ぱたん。
ドアが閉まる。差し込む光は、もう無かった。廊下は薄らとした陰りを見せ、ひやりとした風が肌を撫でた。
破いたテープの隙間から、微かに夕日が漏れている。遠くの方で、パソコンを叩く音が聞こえ始めた。
ドアに背を預け、ぼんやりと天井を仰ぐ。力の抜けた背中が、ふらふらと滑り落ちていく。
ゆっくりと手で目を覆う。焼けた瞳孔が熱かった。
真っ暗な世界で、先生の笑顔が砕けていった。指先からすり抜けた温もりが、夕日の中に溶けていく。
頭の中に溜まった水が、いつしか溢れ出していた。抑えていた蓋が、床に転がって乾いた音を立てる。
くぐもった声が、引き攣った喉から転がり落ちた。
遠くの方ではしゃぐ生徒の声が、近づいては離れていく。被さって響く、下校を告げる音楽の音。喉から漏れた声が、かき消されていった。
コーヒーの苦い匂いが、喉に絡みついて離れなかった。
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