散財悪女シンディアの真実
「お父様……!」
十歳のシンディアは泣きながら父の手を握った。
シンディアの父、アーデン伯爵は枕に頭を沈め、胸がかすかに上下していた。
「……シンディア……すまぬ……」
その横で、継母がしとやかに微笑んだ。
「どうぞご安心を。
この子のことは、わたくしが母として必ず守ります」
父はその言葉に力なく頷き、静かに息を引き取った。
「嫌……! お父様!!」
シンディアは泣きながら亡骸にすがりついた。
――背後の空気が、わずかに緩んだ。
しかし、その変化にシンディアは気づかなかった。
◆
磨かれたシャンデリアの下、絹のドレスを纏った貴婦人や若い令嬢たちが紅茶を手に囁き合う。
壁際には退屈そうな若い貴公子たちも、耳をそばだてていた。
「ご存じ? アーデン家の娘のこと」
「ええ、伯爵が亡くなってから家を食い潰したそうですわ」
「散財悪女でしょう? 宝飾も馬車も買い漁って」
「まあ、下品な娘だこと」
「でも美しいらしいわ。
漆黒の髪に碧い瞳、男を狂わせるとか」
それを聞いた貴公子の一人がくすりと笑う。
「へえ、俺も散財させてもらいたいな。
お目にかかりたいもんだ」
笑いが広がり、澄んだティーカップの音が響いた。
◆
大広間の片隅で、十八歳のシンディアは煤で黒ずんだエプロンドレス姿のまま膝をつき、床を磨いていた。
髪は煤で黒ずみ、指先は洗いすぎてひび割れていた。
「シンディ! 水が切れてるわよ!」
十九歳の義姉が、母譲りの目つきで命じた。流行のドレスをバサッと翻えす。
「はい……」
シンディアは小さく答え、桶を抱えて黙々と歩く。
継母は上等な椅子に優雅に腰掛け、扇で頬をあおぎながら鼻で笑った。
「まったく、この子は役立たずね。
掃除くらいは、きちんとしてもらわないと」
「ごめんなさい……」
シンディアは小さく答え、俯いたまま力を込める。
義姉が口元を覆い、肩を震わせた。
「ふふっ……煤だらけのエプロン、ほんとによく似合ってるわね」
そして、ふと思い出したように声を弾ませた。
「そういえば、このあいだサロンで聞いたの。
王宮で舞踏会があるんですって!
どうやら、王太子殿下の婚約者探しを兼ねてるらしいわ」
「まあ!
すぐに新しいドレスを仕立てないと」
シンディアは手を止め、ぼそっと呟く。
「……舞踏会が、あるのね」
「でもシンディアは無理よね。
……そんなすぼらしい顔じゃあね」
2人の笑い声が、大広間に響く。
灰よりも、胸に沈む言葉の方が重かった。
掃除を終えたシンディアは煤に汚れた裾を払い、廊下の奥へ向かった。
辿り着いたのは、かつて物置に使われていた狭い部屋。今は彼女の寝所だった。
「部屋の節約になるでしょう?」
継母は涼しい顔でそう言って、彼女をここに押し込んだ。
広い客間は義姉に与えられ、シンディアにはこの吹き溜まりしか残されなかった。
壁紙は剥がれ、窓枠の隙間から夜風が吹き込み、薄いカーテンを揺らしていた。
家具といえば古びた机と小さなベッドだけ。
「あんたばかりずるいのよ!
私はお父様から何もいただいてないの!」
義姉に父や母からの贈り物やドレスは、すべて奪われてしまった。
「無駄に侍女を雇う金なんてないのよ。
自分でやりなさい」
継母の声が頭にこびりついていた。
衣服の修繕も食器の片付けも、すべて自分の手でやらねばならなかった。
机の上には、父が遺した古い帳簿が一冊と、
角の擦り切れた算術書や、領地経営に関する古い書物が数冊、無造作に置かれていた。
「女でも学べば力になる。お前はきっとできる」
シンディアは埃を払い、
ろうそくの明かりで帳簿のページをめくる。
だが、そこに記されていたのは、
数年前で途絶えた記録ばかりだった。
父が亡くなった日から、
領地の帳簿は継母の手に移っている。
「お母様、領地は今どうなっているのですか?」
幼い日の声がよみがえる。
返ってきたのは冷たい叱責と、扇で頬を打たれた痛み。
「生意気を言うな。
この家のことに口を出すんじゃない」
シンディアは震える手で帳簿を閉じ、顔を伏せた。
「……お父様……ごめんなさい……」
わたし、何もできていない――。
しばらく動けなかったが、やがて袖で涙を拭った。
彼女は机の古びた本を開き、煤に汚れた指でページをめくり、読み進めた。
◆
王都の宝飾店で、義姉は鏡の前に立ち、真珠の首飾りを胸に当てた。うっとりと目を細め、その輝きに見入っている。
「お母様、これ素敵でしょう?
舞踏会で殿下と踊るには、これくらいでないと!」
継母は満足げに頷き、店主を呼び寄せた。
「ええ、この照りは悪くないわね。
……それから、この首飾りに合わせて、同系色の耳飾りも揃えてちょうだい」
「かしこまりました」
店主は恭しく会釈し、別の宝石箱を差し出す。
「ドレスは、いつもの仕立て屋へ。
この真珠に映える刺繍を入れさせなさい」
店主は頷き、控えの帳面に書き留めた。
やがて領収書が差し出され、継母は扇で軽く押さえながら、何食わぬ顔で署名した。
――屋敷に戻ると、宝石箱や包みの山が机いっぱいに広げられた。
義姉は新しい首飾りを眺め、子どものように声を弾ませる。
「ふふっ、これで絶対に殿下の目に留まるわ!」
継母は紙束を繰り、わずかに眉をひそめた。
「……支払いが、少し嵩みすぎているわね」
その視線が、机の端に置かれた小さな宝石箱に止まる。
それはかつて、夫がシンディアに与えたもの。
『シンディアは可愛いだけでなく、賢いなぁ』
――あの時の、頬を緩めた声が耳によみがえる。
扇の骨がきしむほど指に力がこもった。
「……そうね。
そろそろ、あの子を嫁がせてしまえばいいかもしれないわ」
義姉がぱっと目を輝かせる。
「シンディアを?
ふふっ……いい考えね」
二人の視線が自然と同じ一点に落ち――くすり、と小さな笑いが零れた。
継母はすぐに表情を整え、領収書を伏せて、にこやかに言う。
「じゃあ、私たちのために……
いい嫁ぎ先を、見つけましょう」
◆
ある日、大広間に呼び出されたシンディアは、煤に汚れた裾を気にしながら椅子に座った。
継母は扇を指先で軽く叩きながら言った。
「シンディア。あなたももう十八。
いつまでも屋敷に置いておくわけにはいかないの。
そろそろ嫁ぎ先を決める頃合いだわ」
「……嫁ぎ先?」
シンディアは目を見開いた。
「そうよ。もう決まったの。
あなたは来月、伯爵家へ嫁ぐの」
「そんな……!
私は……この家を離れたくありません……!」
必死に絞り出した声は震え、言葉の最後は掠れて消えた。
「おだまり!
……もう支度金受け取っているの。
今更、断れるわけないでしょう?」
継母は扇を強く鳴らし、冷たい目で睨みつける。
「それともアーデン家を潰したいのかしら?」
「そんな……」
義姉が近づき、口元だけを歪めて笑った。
「よかったじゃない。
あんたみたいなのでも、もらい手があって。
お母様に感謝しなさいよ」
シンディアの耳元に、義姉がすっと顔を寄せる。
「売れ残りの伯爵なんですって。お似合いね」
シンディアが頬が熱くなる。
継母と義姉の笑みが、広間の冷たい空気をさらに重くした。
――数日後。
屋敷の一室で、継母は裁縫係に次々と指示を飛ばしていた。
「この子の支度は、あの子のお古を直せばいいわ」
「装飾は最低限にして。
余計な金をかけないようにしなさい」
義姉は扇で口元を隠し、ドレスを差し出す。
「この青のドレスにしましょう。
私にはもう小さくて着られないし、ちょうどいいわ」
針子たちが裾を広げ、袖を詰めていると、義姉がくすくす笑いながら口を挟んだ。
「ねえお母様、裾は思い切って短めでいいんじゃない?
田舎伯爵、どうせ流行なんて知らないでしょうし」
「ふふ、そうね。それで十分」
シンディアは静かにその様子を見つめ、心の中でつぶやいた。
――これが、わたしの嫁入り衣装なのね。
自分の結婚支度なのに、シンディアに選択権はない。
――わたしは……このまま家から追い出されるの?
お父様が守ったアーデン家を、
わたしは何もできずに捨ててしまうの……?
シンディアは静かに項垂れた。
◆◆◆
同じ頃――伯爵邸の執務室。
窓から差し込む光の中で、背筋を伸ばした男が机に向かっていた。
執事が机に一通の返書を置く。
「旦那様。アーデン家からの縁談、正式にお受けになるので?」
男は手を止めずに答えた。
「受ける」
執事はわざとらしく肩をすくめる。
「とはいえ王都では、あまりよろしくない噂も囁かれておりますよ。
“散財悪女”だとか」
そこでようやく男――レオンハルトは顔を上げ、ペンを置いた。
「噂など確かめればいいだけの話だ」
あの家の娘を迎える――それだけが彼にとって重要だった。
◆
朝靄の立ちこめる中庭。
使用人たちが黙々と荷を積み込み、黒い馬車が待っていた。
シンディアは扉の前に立ち尽くし、震える声で言った。
「……どうか、この家を……
アーデンの領地を、どうか大切にしてくださいませ」
継母は冷ややかに扇を動かしていた。
「口だけは一人前ね。
心配せずとも、私がすべて取り仕切るわ」
義姉は髪を弄りながらシンディアを一瞥した。
「ふふ、安心して行きなさいな。
田舎伯爵には、ぴったりの花嫁だもの」
そのやり取りを、荷を抱えた使用人たちが伏し目がちに見ていた。
シンディアは裾を握りしめ、頭を垂れる。
「今まで……お世話になりました」
かろうじて感謝の言葉を言い残し、馬車へと乗り込む。
扉が閉ざされる瞬間、屋敷の屋根が涙にかすんだ。
――お父様。どうか、この屋敷を見守って。
蹄の音が響き、馬車はゆっくりと動き出した。
――やがて、窓の外に広がる景色が変わっていった。
街道沿いの村々は整い、人々の声は明るく、市場には賑わいが満ちていた。
シンディアは思わず窓に顔を寄せた。
「……こんなに、豊かな領地だなんて……」
馬車は石畳を進み、高い門をくぐった。
広大な庭園の奥に、白い石造りの屋敷がそびえている。
整列した使用人たちが一斉に頭を下げた。
シンディアは思わず息を呑む。
「……なんて立派な……」
裾を見下ろせば、身にまとっているのは義姉のお古を無理やり仕立て直した青いドレス。
裾は不自然に広げられ、装飾も薄い。
荒れた指先とやつれた頬が、華やかな屋敷の景色にひどくそぐわない気がした。
追い返されないかしら――そんな不安がよぎる。
その時、玄関から背の高い男が現れた。
軍人のように鍛えられた広い肩と胸板、陽を受けて光る濃い栗色の髪。
彫りの深い顔立ちは冷ややかに整い、近づきがたい威圧を纏っている。
この人が……?
シンディアは慌てて一礼する。
男は一瞬だけ眉を寄せ、すぐに表情を消す。
「……アーデン伯爵家のご令嬢だな」
シンディアは指先をぎゅっと握りしめ、背筋を正した。
「……はい。シンディア・アーデンでございます」
声は小さく震えていたが、礼だけは守ろうと必死だった。
「――レオンハルト・ヴァイスフェルトだ」
短く名乗り、低く告げた。
「長旅で疲れただろう。
……まずは部屋へ案内しよう」
「あ、ありがとうございます」
長い足取りで歩き出す背を、シンディアは慌てて追った。
大理石の廊下は磨き上げられ、差し込む陽光に白く輝いていた。
靴音だけが二人を包み、沈黙が緊張を増していく。
やがてレオンハルトが足を止め、扉の前に立った。
「ここがお前の部屋だ」
扉が開く。
天蓋つきの寝台と厚い絨毯が目に飛び込み、窓辺には小さな応接机、壁際には本棚まで備えられていた。
整えられた調度と柔らかな香りに満ち、以前とはまるで違った部屋だった。
シンディアは震える声を漏らした。
「……こんな立派なお部屋を、わたくしに……?」
レオンハルトは振り返らずに答える。
「当然だ。お前は、ヴァイスフェルト家の一員だからな」
その言葉に胸が熱くなり、シンディアは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、旦那様」
レオンハルトは一瞬、動きを止めた。わずかに間を置き、低く応じる。
「……ああ」
扉が閉じ、静寂が戻った。
――ほどなく、控えめなノックと落ち着いた声が響いた。
「失礼いたします。
旦那様の命により、奥様のお世話を仰せつかりました――
マリアンと申します」
彼女は深々と一礼し、持参品の包みを一つひとつ机に広げていく。
使い古した化粧品。
擦り切れた本。
わずかな小物ばかり。
「……これが、すべてでございますか」
シンディアは気まずそうに小さく頷く。
「はい……」
「承りました。では、整理いたします」
針のように正確な手つきで衣装を畳む姿に、シンディアは居心地は悪いはずなのに、肩の力が抜けていることに気づく。
マリアンは手を止め、淡々と告げる。
「間もなく夕餉の時刻でございます。
――奥様も、ご準備を」
その声に促され、シンディアははっと身を正した。
◆
長い食卓には、煌びやかな料理が次々と並べられていた。
黄金色のスープ。
香ばしく焼かれた肉。
甘やかな果実の盛り合わせ。
シンディアは思わず手を止め、震える指でフォークを握り直した。
「……いただきます」
小さく呟いて口をつける。
味は美味しい。
けれど、喉を通るたびに胸が詰まるようだった。
皿の上は減らず、食事は進まない。
ふと、低い声が落ちた。
「……食欲がないのか」
「い、いえ……とても美味しいです。ただ……」
言葉が喉で止まり、俯く。
「……いつも、こんなに食べていないので……ですから……
あまり、入らなくて……」
短い沈黙。
空気が凍ったように感じた。
だが、レオンハルトは表情を変えずに言った。
「無理することはない」
その一言に、シンディアの目頭が熱くなる。
「……ありがとうございます」
食事を終え、部屋へ戻ると、マリアンがすでに待っていた。
「まずは湯浴みのご用意を。
その後、お召し物をお替えし、髪も整えましょう」
そう告げられ、シンディアは小さく頷いた。
湯殿には、すでに湯気が満ちていた。
桶を手にした侍女たちが控え、マリアンが静かに指示を出す。
「……あの、自分でできます」
「奥様のお務めではございません。どうぞご安心を」
表情を変えずに促され、シンディアはぎこちなく身を預けた。
温かな湯が肩を包み、旅の埃と疲れが少しずつ流れていく。
――アーデン家では、桶に汲んだ水で身を拭くだけだった。
冬でも火は焚かれず、湯に浸かることなど、ほとんどなかった。
背に流れる湯と、慣れない手つきに、落ち着かず身じろいだ。
シンディアはためらいながら、声を落とした。
「……わたしはこれから、何をすればよろしいのでしょうか?」
「奥様のお務めは、行事に顔を出すこと。
それ以外は、旦那様のご意向に従えば十分でございます」
「……そうですか……」
気づけば支度は終わり、導かれるまま寝台へと身を横たえていた。
「わたしに……役目は、ないのかな……」
旅の疲れに引きずられるように、シンディアは静かな眠りへ落ちていった。
◆◆◆
夜の執務室。
机の上に広がる書類の影を見つめながら、レオンハルトは黙々とペンを走らせていた。
眉間には深い皺が刻まれ、昼間に耳にした報告が頭を離れなかった。
「いやぁ旦那様」
扉脇に控えていた執事が、苦笑まじりに声をかける。
「てっきり“散財悪女”がお越しになるのかと思いましたが……
見事に肩透かしでございましたな」
「……そうだな」
「むしろ気の毒なくらい痩せておられる。
贅沢どころか、ろくに食べていなかったのでは?」
レオンハルトは椅子にもたれ、低い声で応じた。
「噂は所詮、噂にすぎん。大事なのは実際にどうかだ」
「ならば噂の方を探れば早いでしょう。
――出所さえ押さえれば、何が虚で何が実かも見えてまいります」
レオンハルトはペンを置き、真っ直ぐに執事を見据えた。
「……裏を取れ。
王都で広まっている“散財悪女”の噂がどこから出たのか、探れる範囲でいい」
執事はにやりと笑みを浮かべ、軽口を添える。
「承知しました。とはいえ旦那様、
もう少し社交の場にお顔を出されていれば、
こんな妙な噂に振り回されずに済んだでしょうに」
「……耳が痛いな」
レオンハルトは苦く笑い、再び書類へ視線を落とした。
◆
翌日の朝。
マリアンの指が櫛をすべらせる。朝の光に映る自分の姿が、まだどこか落ち着かない。
「奥様。この衣服では、人前にお出になるのは少々厳しゅうございます。
新しく仕立てられた方がよろしいでしょう」
シンディアは思わず首を振る。
「……ですが、まだ着られます」
頭に、すぐ言葉が浮かぶ。
――来て早々に贅沢なんて、とんでもない。
マリアンはわずかに目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
手際よく髪を結い上げ、姿見を整えた。
その後、屋敷の見学のためマリアンに導かれて長い廊下を歩く。
すれ違う使用人たちの目が、そっと彼女に集まった。探るような視線だった。
やっぱり……このドレス、駄目なのかしら。
不安を抱えたまま歩いていたそのとき、窓辺のカーテンに小さなほつれを見つける。
思わず裾をつまみ、指で糸を確かめた。
「……針と糸をいただけますか? 直しておきます」
マリアンが驚いたように瞬きをする。
「奥様が、ですか?」
「……アーデン家では侍女が少なくて。
だから、わたしがやるのが当たり前で……」
短い沈黙ののち、マリアンは静かに頷いた。
背後から落ち着いた足音が響く。
振り返ると、レオンハルトが静かに立っていた。
「……旦那様」
シンディアは裾を整え、小さく頭を下げる。
レオンハルトは一瞥し、口を開いた。
「少し話そう」
◆
シンディアは椅子の端に座り、緊張で指先を重ねていた。
レオンハルトが視線を上げる。
「……近日中に茶会を開く。君にも同席してもらう」
「……わ、わたくしが?」
驚きに目を見開き、頬が熱を帯びる。
「そのような場は……初めてで」
「まだ出たことがないのか」
シンディアは恥ずかしそうに俯き、小さく頷いた。
「ならばマリアンに指導を受けろ。それと、ドレスも新調する」
「え……で、でも……」
「伯爵家の者として人前に立つのだ。
……相応しい装いを整えるのは、私の務めでもある」
返す言葉が見つからず、シンディアは頭を下げた。
「……はい。ありがとうございます」
レオンハルトはそれ以上言葉を重ねず、再び書類へ視線を落とした。
◆◆◆
その日の夜の執務室。
レオンハルトの前に、マリアンと執事が並んでいた。
「本日の奥様についてご報告いたします」
マリアンは無表情のまま告げる。
「職人には丁寧に礼を述べられ、布地も控えめなものをお選びでした。
作法に大きな乱れはありませんが、所作はやはり不慣れでございます」
レオンハルトの眉がわずかに動く。
続いて執事が、数枚の書き付けを机に置いた。
「“散財悪女”の噂を探りましたが、実際にご令嬢を見た者はおりません。
宝飾や馬車を買い漁ったなどと吹聴されておりますが、出所は曖昧で“幽霊令嬢”と呼ばれる始末です」
青の瞳が鋭く光る。
「……根も葉もない可能性が高いということか」
「ええ。悪意の戯言か、退屈しのぎの与太話でしょうな」
レオンハルトは静かにペンを置き、言い放つ。
「アーデン伯爵には恩がある。
その娘を迎えながら、“散財悪女”と囁かれていては家も領地も傷つく。
――裏を取れ。虚か実か、必ず確かめろ」
「承知いたしました、旦那様。……まったく、旦那様も疑り深いことで」
執事はにやりと笑い、深く一礼した。
◆
数日が過ぎ、シンディアはようやく食事も喉を通るようになっていた。
その傍らで、マリアンの指導を続けている。
「奥様、まずはご挨拶から。上位の方へは深く、視線は伏せすぎず」
「こ、こうでしょうか?」
「ええ。ただ、肩の力を少し抜いて」
会話の練習に入ると、シンディアは困ったように眉を寄せた。
「お天気のお話ばかりでは……すぐ尽きてしまいます」
「そのときは、お相手の衣や装飾に触れるのです。
誉め言葉は最も安全でございます」
「そ、そうなのですね……」
ぎこちなさは残っていたが、屋敷の使用人に「おはようございます」と声をかければ、彼らも柔らかく微笑み返してくれるようになった。
シンディアは少しずつ、居場所を見つけていった。
その日、仕立て部屋に並べられた布地の中から、一着の深紅のドレスが彼女の前に差し出された。
「奥様、茶会にはこちらをお召しくださいませ」
マリアンの声に導かれ、鏡に映る自分を見つめる。
義姉のお古ではない――初めて自分のために仕立てられた衣装だった。
「……素敵……」
針子が柔らかく微笑む。
「お気に召しましたら幸いです、奥様」
シンディアは慌てて背筋を正し、頭を下げた。
「ありがとうございます」
マリアンはその様子を静かに見守りながら、耳元で囁く。
「胸を張ってくださいませ。今日は奥様が、この屋敷の顔となるのです」
シンディアは頬を赤らめ、鏡越しにぎこちなく頷いた。
――茶会当日。
廊下を進むシンディアの前に、黒衣のレオンハルトが現れた。
シンディアの姿を一瞥し、彼はわずかに顎を引く。
「怯えるな。ただ座っていればいい」
「……はい」
扉が開いた瞬間、夫人と令嬢たちの視線が一斉に注がれた。
「まあ、こちらがアーデン令嬢?」
「思っていたより……」
言葉は途切れ、測るような視線が集まる。
必死に背筋を伸ばし歩み出ると、レオンハルトが椅子を引いた。
「座れ」
短い響きに、わずかに肩の力が抜ける。
震える指でカップを持ち上げ、紅茶を口にした。
香りが広がり、喉を通る。
「……とても香り高く、心がほどけるようです」
近くの席の夫人が目を瞬かせ、やがて微笑んだ。
「まあ、丁寧なお答えですこと」
空気がわずかに和らぐ。
別の夫人が笑みを浮かべて声をかけた。
「本当にご結婚なさったのね。
これまで“お忙しい”と紹介の場も避けておられて」
隣の旦那も軽く頷く。
「通りがかりに領地を拝見しましたけれど、
相変わらず活気がありますね。
……よく、ここまで立て直されたものです」
シンディアは思わずカップを強く握った。
返す言葉を探す間もなく、別の囁きが耳に届いた。
「……あの方が、噂の“散財悪女”?」
「でも想像と違うわ。もっと派手で贅沢三昧かと……」
シンディアの動きが止まった。
“散財悪女”……?
尋ねたかったが、誰の口から出た言葉かはわからなかった。
結局、そのまま茶会は終わってしまった。
ざわめきを抱えたまま歩くシンディアに、レオンハルトが並んだ。
「よくやり遂げたな」
「……ありがとうございます」
言葉が喉でつかえたが、微笑みを浮かべた。
部屋に戻り扉を閉めると、暗がりに身を預けて小さく呟く。
「……私が? まさかね……」
そう言い聞かせても、眠りはなかなか訪れなかった。
◆
夜の政務室。
レオンハルトは書類に目を通しながら、茶会の光景を思い返していた。
扉が叩かれ、執事が入室する。
「旦那様、茶会はいかがでございましたか」
「……ぎこちなさはあったが、虚飾はない。不慣れなりに誠実に応じていた」
執事は頷き、懐から数枚の紙を差し出した。
「“散財悪女”の噂について、調べてまいりました」
「……そうか」
紙面に視線を落とし、レオンハルトは青の瞳を細めた。
そして翌朝――
「……入れ」
低い声に促され、シンディアはおずおずと足を踏み入れる。
裾を揃えて礼をし、恐る恐る視線を上げると、レオンハルトが椅子を示した。
「……“散財悪女”という噂を耳にしたか」
茶会の囁きがよみがえる。
「……はい。先日……偶然、耳にしました」
「……噂は“お前が領地の金を散財し、家を傾けた”という形で広まっている」
シンディアは言葉を失った。
「わ、わたくしが……? そんな……!」
「帳簿の名義も領収書も、お前の名だ。
事実を知らぬ者から見れば――“真実”に見えるだろう」
床が揺れたように感じ、指先がさらに震える。
レオンハルトは机に指を置き、低く言った。
「だが、私は信じていない。
……裏を取っている。近いうちにすべて明らかになる」
力が抜けたはずなのに、指先がまだ震えていた。
「……ありがとうございます。でも……もし、すべてが……」
「心配するな。
お前に罪を着せようとした者がいるだけだ。
――必ず暴く」
◆
数日後の執務室。
マリアンが、銀の盆を捧げて入室する。
盆の上には、深紅の封蝋で封じられた一通の手紙。
「王宮より、舞踏会の招待状が届きました」
レオンハルトは受け取り、封を割った。
――王太子殿下主催の舞踏会。婚約者候補としての披露を兼ねた夜会。
机越しにシンディアへ視線を向ける。
「……来月、王宮で舞踏会が開かれる。お前も出席することになる」
その言葉に、シンディアの心臓が高鳴った。
「……わ、わたくしが……王宮の、舞踏会に……」
膝の上で手を落ち着きなく動かした。
――だけど。
……旦那様に迷惑をかけてしまう。
目を伏せ、俯いたそのとき。
「怯えるな。お前は、ただ胸を張って立てばいい」
シンディアははっと顔を上げる。
彼は言葉を継いだ。
「この家の者として、人前に立つ覚悟を持て」
「……はい」
指先はまだ震えていたが、背筋は真っ直ぐに伸びていた。
◆◆◆
昼間の執務室。
紙を繰る手を止め、レオンハルトはふと視線を外へやる。
書庫の一角で、シンディアが机に向かっていた。
レオンハルトが用意させた教材を解いている。
――ろくな教育を受けていないと聞いていた。
だが、机に向かわせれば、何時間でも集中する。
さすがはアーデン家の娘……か。
やがて陽が傾いた頃、廊下に楽の音が漏れた。
覗けば、シンディアが一人で必死に舞を練習していた。
裾を踏んでは止まり、頬を紅潮させながら繰り返す。
「……相手がいなければ、舞は成り立たん」
広間に歩み入り、掌を差し出す。
戸惑いながらも、彼女は手を重ねた。
「……軽く握れ。力を抜け」
「は、はい……」
導くと、恐る恐る足を運ぶ。
「足を見すぎるな。前を見ろ」
「で、でも……転んでしまいそうで」
「転びそうになったら、支える」
シンディアは唇を噛みしめ、再び足を踏み出した。
「……こ、こうですか?」
「悪くない」
その一言に、シンディアの瞳がぱっと揺れた。
さらに真剣さを増す。
汗をにじませながらも食らいつこうとする眼差しが、真っ直ぐにこちらを映す。
――その目に、離れられなくった。
仕立て部屋の扉を開くと、布地の匂いが押し寄せた。
鏡の前には、青のドレスを纏ったシンディア。
肩をこわばらせ、所在なげに目を伏せている。
一瞬、青の瞳を細めて見つめた。
飾り立てずとも、その立ち姿だけで映えていた。
「……似合っている」
シンディアの頬が朱に染まる。
控えめで、けれど柔らかに咲いた笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
その表情に、思わず視線を逸らした。
「……準備を整えておけ」
背を向け扉を閉ざすまで、あの微笑が焼きついて離れなかった。
◇
鏡に映る自分の姿に、私は笑みを深めた。
流行色の新しいドレスに宝石を散りばめ、艶やかな黒髪が映える。
「お母様、やっぱり私が一番ですわよね?」
「ええ。他の娘なんて比べるまでもないでしょう」
舞踏会の大広間に足を踏み入れて、確信はさらに強まった。
「周りの娘たちはどれも地味で冴えないわね」
「……あんた、見られてるわよ」
「え! やっぱり!?」
母の囁きに心が躍った。
――その時、侍従の張り上げた声が大広間に響いた。
「ヴァイスフェルト伯爵、並びに――アーデン家ご令嬢シンディア!」
その名に思わず目を見開く。
「シンディア!? なんであの娘が!?」
重厚な扉が開く。
現れたのは背の高い男と、その腕に導かれた義妹――シンディア。
けれど煤にまみれ下女同然だった姿はどこにもなく、青のドレスを纏い、シャンデリアの光を散らす髪は金糸に輝いていた。
「……ブロンド?」
「でも噂では黒髪のはず……」
囁きが一斉に広がる。
「嘘……どうして……あれがシンディアだなんて!」
王太子殿下の視線はシンディアへと伸び、彼は彼女に手を差し出した。
音楽が弾け、二人が舞い始める。
人々の視線と称賛の声が渦を巻いた。
「まあ、なんてお似合い」
「まるで絵のようだわ」
震える手で扇を持ち上げ、顔を隠した。
「お母様……なんでシンディアが……殿下の隣に」
母も顔を引きつらせていたが、すぐに笑い声を響かせた。
「まあまあ、見違えましたわねえ、シンディア!」
私も同じ様に続ける。
「でもねえ、お母様。立派なドレスに身を包んでも、中身は変わらないのでは?」
周囲へ聴こえるように声を上げた。
「だってあの子、昔から散財ばかりで。伯爵家に嫁いでからも浪費しているんでしょう?」
無数の視線がシンディアに突き刺さった。
だが、彼女は一歩前へ出て、言い放った。
「……わたくしは散財などしておりません」
毅然とした眼差しに、空気が揺れる。
だが――母の甲高い声が遮った。
「ほらご覧なさい! 本人はそう言うに決まっているでしょう!」
その時。
「……くだらぬ戯言を」
レオンハルトの冷たい声が広間に響いた。
青の瞳に射抜かれ、私の背筋が震える。
「証拠もなく己の娘を貶める――無礼を働いているのは誰だ?」
母は青ざめ、声を搾り出す。
「こ、この娘は……浪費ばかりで……!」
冷笑を浮かべ、伯爵は執事へ合図した。
署名の並ぶ帳簿が掲げられる。
「記録にはシンディアの名。しかし署名は――継母とその娘のものだ。
店主も証言している。来ていたのは――お前たちだと」
全身の血が引いた。
「……黒髪の娘を見た、という噂でしたわね」
「では――」
その囁きが、耳に痛い。
「ち、違う! 私は……!」
「噂を吹聴し、虚像を作ったのは――お前たちだ」
「わ、私は……王太子殿下の妃になるのよ!」
護衛に腕をつかまれ、扉へと引きずられる。
悔しさに滲む視界の隙間で見た。
殿下がシンディアの肩に手を添える姿を。
「……っ」
こらえていたものが、内側で弾けた。
「いやああああっ! 私の席よ! 殿下の隣は私のものなのに!!」
口元を歪める者、視線を逸らす者、
ひそひそと囁き合う声が、背後で重なった。
私はもがきながら、腕を引かれていく。
最後に映ったのは――
王太子の隣に立つシンディアと、その前に立つレオンハルトだった。
◆◆◆
ざわめく広間の只中。
王太子はシンディアの肩に手を添えていた。
人々の視線は一斉にそこへ集まり、拍手と囁きが波のように広がっていく。
王太子の隣に並ぶその姿に、
誰もが目を離せずにいた。
視界の奥が、わずかに滲んだ。
だが、表情に出すことは許されない。
観衆の熱狂を背に、レオンハルトは静かに踵を返した。
王太子の隣に立つシンディアの姿が、まぶたに焼きついて離れない。
「……俺の役目は、終わった……」
冷たい夜気に包まれながら、外門前の石段を降りる。
守るために離れる――そう決めたはずだった。
用意された馬車の扉が静かに開かれた、その時――
「……旦那様!」
振り返ると、青の裾を翻しながら、シンディアが必死に駆け寄ってきた。
肩で息をし、紅潮した頬のまま、レオンハルトの前に立つ。
「……どうして、追ってくる」
彼女ははっきりと告げた。
「……わたくしは、あなたの妻です」
夜風が二人の間をすり抜ける。
胸の奥で、押し殺していた熱が疼いた。
――気づいてしまう。
この娘を、女として想っていると。
だが、それを口にすることはできなかった。
レオンハルトは目を伏せ、短く応じる。
「……そうか」
灯火に揺れる馬車の影で、彼は背を向けた。
「戻れ。お前の立つ場所は――」
言葉は、最後まで続かなかった。
馬車に乗り込み、扉が閉じる。
青いドレスの姿が、夜の向こうへ遠ざかっていく。
それ以上、言葉は要らなかった。
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