十七話:護衛任務 VS 犬
依頼を受けて外へ出たのは、昼前のことだった。
ラントアの街道沿いは、昼下がりの陽射しに照らされて埃っぽくもあたたかい。道の端には雑草がぼうぼうと生え、時折、トカゲのような小動物がカサカサと横切るのが見えた。
「……のどかですねぇ……」
荷馬車の横を歩きながら、航平はふぅと肩の力を抜いて呟いた。
護衛対象は、商会所属の小型荷馬車一台。運ぶのは薬草と保存食、そしてカゴいっぱいのリンゴ。
馬車の御者席にはおじさん──いや、たぶん初老の男性が座っており、アレクがちゃっかり助手席に収まって世間話をしている。航平とヴァイスは馬車の左右について警戒、という簡易的な布陣だ。
荷馬車は特に狙われやすいわけでもない。山賊も魔物もめったに出ない街道で、ただ街から街へと荷を運ぶだけ。
とはいえ、何もないのが一番難しいのはどこの世界も同じだ。
「……それにしても」
横目にちらりと視線を向けると、黙って隣を歩く黒衣の青年──ヴァイスの姿が目に入る。
背筋はぴんと伸び、歩調も乱れない。荷馬車の死角をさりげなくフォローするように移動しているあたり、体に染みついているんだなと思う。
こういうの、軍人経験ある人の動きだよなあ……と内心感心しつつも、なんとなく口を開いてみた。
「ヴァイスさん、大丈夫です? ……て、そっちじゃなくて、ほら。暑くないのかなって」
黒尽くめの服装を見ながら尋ねると、ヴァイスは少しだけ首を傾げた。
「……別に」
「そっかぁ……暑いの平気なタイプかぁ……」
地味にこの世界、日差しが強い。特に装備を脱げない戦闘職は体温管理が重要になるんじゃないかと思っていたが、どうやらヴァイスにその心配は無用だったようだ。
「お前こそ暑そうだぞ。変な布かぶってるし」
御者席から顔を出したアレクが、口端を上げて言った。
変な布というのは、航平が日差し避けにかぶっていたスカーフのことだ。
「日よけ! あとちょっとした防塵! 文明の知恵ってやつ!」
「へぇ、じゃあそれで顔面真っ赤にしてたら世話ねぇな」
「いやもうあっつくて……」
ツッコミながらもスカーフをぐいと引き上げる航平。その横で、ヴァイスがほんの少しだけ、口元を緩めたように見えた。
気のせいかもしれない。でも、それでもいいと思えた。
(こうやって、自然に笑ってくれたらいいなぁ)
旅路はまだ続く。トラブルもあるだろうし、荷物も重いし、馬も急に止まったりするし──
「……って、おわああ!?」
ちょうどその時、馬が道端の石につまずいて、荷馬車がぐらりと大きく揺れた。
「リンゴおおおおおおおおおおお!!?」
見事に、カゴから転がり落ちる赤い球体たち。慌てて飛び出す航平。御者が頭を抱える中、アレクはなぜか爆笑しながら言った。
「おいヴァイス、拾え。お前もパーティーメンバーだろ?」
「……了解」
黙ってリンゴを拾い始めるヴァイス。
こうして航平たちの、なんとも平和な荷運び護衛が始まった。
◆
リンゴを拾い終えたあとも、道は特に変わりなく続いた。
周囲には森というほどでもないが、やや背の高い木々が道を挟むように生い茂っている。日差しはそのおかげで少し和らぎ、航平の赤くなった頬もようやく落ち着いてきた。
「リンゴってこの季節、そんなに需要あるんですか?」
拾い終えたあと、カゴをのぞきこみながら航平がぽつりと尋ねた。
御者のおじさんが、笑いながら答える。
「いやぁ、次の街に娘がいてね。孫が好きなんだよ、ここのリンゴ」
「あ、私用でしたか……!」
「まぁ、薬草と保存食のついでだろ。荷馬車にスペースがあるならその分使わねぇともったいねぇしな」
助手席のアレクがにやにやしながら言い、航平は「まぁその通りか」と納得する。
そのやり取りを横目に、ヴァイスは黙って周囲の森に目を向けていた。
──風の流れがおかしい。
耳にかすかに届いた、風切り音。直感が警鐘を鳴らす。
「止まれ。前方、何かいる」
その言葉と同時に、馬が鼻を鳴らして立ち止まった。
御者もアレクもすぐに察し、馬車を止める。航平は一瞬遅れて首を傾げ──そして気づいた。
道の真ん中、木陰からぬるりと這い出てきた、黒い影。
「……なんか出た……!」
体長は中型犬ほど。だがその体表はぬめりを帯びており、何より──目がない。
蠢く感覚器のようなものがぶるぶると震え、こちらの気配を探っている。
「マッドスライムか。……この辺でも出るんだな」
アレクが立ち上がりながらぼやく。
航平はそれを聞いて「そんなちょっと珍しい植物みたいな扱いなんだ……」と思っていた。
ちなみにスライムは頑張れば普通の村人や子供でも殺せると聞いたのは昨日のことだ。それにすら負ける俺って……と航平は少しだけ凹んだ。
「三体。……左、俺が取る」
ヴァイスの声とともに、魔力が揺れる。
氷の魔弾が形を成すより早く──一体が氷の杭に串刺しにされた。
「速……」
航平が目を見張っている間に、アレクが飛び出し、剣で残る一体を両断。
最後の一体が航平側へ寄ってくるが──
「──っ、ええいっ!」
即席で拾った木の枝を構えた航平を庇うように、ヴァイスがすっと前に出て、淡い氷壁を展開した。
スライムがぶつかると同時に凍りつき、ぽとりと崩れ落ちる。
「……守るの、慣れてない」
航平の背後から声がした。
「え?」
「誰かを」
そうぼそりと呟くと、ヴァイスはすぐにまた距離を取った。
それは謝罪でも、弁解でもなく──ただの「事実」として口にした言葉のようだった。
航平はきょとんとしながら、口を動かす。
「それって、どういう……」
「ほら、片付いたから行くぞ」
アレクの声に遮られて、問いかけは風に流されていった。
◆
再び動き出した荷馬車は、のどかな景色のなかをゆっくりと進んでいた。
気配はもうない。先ほどのスライムは、どうやら偶然に道を横切っただけだったようだ。
魔物というよりは害獣に近い存在なのだろう。アレクも特に緊張感を見せず、御者のおじさんも「参ったなぁ」と苦笑いで済ませている。
しかし、ヴァイスのあの一言だけは航平の中に淀のようになって残っていた。
まるで、自分の手が他人に向けられることなどなかったとでも言うような、乾いた響き。
けれど、それを否定するように彼はとっさに動いた。航平を庇って、氷壁を張った。
だからこそ、たぶんあれは──自己申告というより、呟きに近かったのかもしれない。
(あんなの、慣れてなくても充分すぎるくらい助かったけどなぁ……)
ちら、と荷馬車の反対側を歩くヴァイスを見やると、彼はもういつも通りに無言で警戒を続けていた。
あれが彼なりの普通なんだと思うと、それ以上なにも言えなくなってしまう。
ふと、御者席のアレクが後ろを振り返った。
「ヴァイス、お前護衛なんて初めてだろ」
「……そうだな」
「上出来じゃねぇか」
「……随分と安い評価だ」
「かわいげねぇなぁ。もうちょい照れたりしろよ」
「必要ない」
アレクとヴァイスのやり取りに、御者のおじさんが「仲良いねぇ」と笑う。
そしてそれに、アレクがひょいと顎をしゃくって返した。
「まぁな。こいつ、俺の犬だから」
「……またそれ言う」
航平が呆れたように呟いた。
思わずヴァイスの方を見たが、本人は特に否定するでもなく、かといって嬉しそうでもなく、ただ淡々と受け流していた。
──飼い主と飼い犬。
その関係に、きっと彼らなりの意味があるんだろう。
軽口に見えて、そこにだけは妙な誠実さがあった。
(うーん、なんだろうな……家族とも、友達とも違う。もっと、こう……獣医と犬j? いや違うな、てか結局それだと動物だし……)
言葉にするにはちょっと難しくて、航平はひとまずリンゴのカゴをのぞきこんで気を紛らわせた。
「……そろそろ着きそうですかね?」
そう問いかけた航平に、御者が「あと2時間ってとこかな」と答える。
長閑な景色の向こう、遠くの森の切れ目に、小さな村の屋根がちらりと見えた。
そのとき、アレクがぽつりと言った。
「なぁヴァイス。飼い主変わっても、やること変わんねぇよ」
「……どうだろうな」
その言葉の応酬には、たぶんもっと深い意味があったのだろうけど──
航平には、それが彼らなりの冗談に聞こえた。
そしてたぶん、きっとそれでいいのだろう。
◆
村への到着は、予想より少し早かった。
広場の片隅に馬車を停めると、御者のおじさんが「ありがとう」と言って小さく頭を下げた。リンゴのカゴを丁寧に抱えて、にこにこと村の家並みに消えていく姿に、航平もなんだかほっとしたような気持ちになる。
「……平和に終わってよかったですねぇ」
「荷物の方がよっぽど重かったな」
アレクが肩をぐるぐると回しながら呟くと、ヴァイスもそれに続いて無言で小さく頷いた。
日差しはやや傾き始めていて、風も少し涼しくなってきた。
村の中心には小さな井戸があり、子どもたちが声を上げて遊んでいる。
──何気ない、でも確かな日常の風景だった。
「なぁ、ヴァイス」
ふと、アレクが隣に立つヴァイスへ声をかけた。
その呼びかけに、ヴァイスは無言のまま視線を向ける。
アレクは、井戸の方を見ながら軽く言った。
「んな大げさに考えんなよ。飼い主が変わるだけ。……そう言ったろ」
一瞬、風が吹いた。
ヴァイスの銀の髪がさらりと揺れて、彼は目を細める。
「……それで、お前はいいのか」
「いいから言ってんだよ。……つか、お前もいいと思ってるから来たんだろうが」
それは、アレクなりの、誤魔化しでも説得でもない肯定だった。
ヴァイスが今までどう生きてきたのか、どう考えてきたのか、アレクは理解している。
そして、わざわざ変えなくていい。変えたいなら変えればいい。
そういう、自分なりの生き方で構わない──という、遠回しな受け入れ。
航平はそれを見ながら、なんとも言えない気持ちになっていた。
何気ない会話に見えて、たぶんこれが、彼らにとっての大事な一歩なんだと思う。
「つぅかお前はともかくとして、ヴァイスにはもっと護衛任務をこなして慣れてもらわねぇとな」
「え?」
そうなの? と思っている航平を横目に、ヴァイスも肯定するように深く頷いた。
「わかってると思うが、ただ戦うのと誰かを守りながら戦うのとじゃ全然違ぇ。俺一人じゃそこまで見きれなかったから、今までは護衛任務はあえて避けてた。けど、今はお前がいる」
「……そうだな」
ヴァイスがぽつりと、けれどはっきりと応じる。その声には、ためらいはなかった。
変わることに、まだ慣れてはいない。でも、それでも。変わっていくための一歩なら、もう踏み出しているのだと思う。
村の空は、少しだけ茜色に染まり始めていた。