第009話 アヤメ VS 黒根団
アヤメ過去編〜現在です。
――シオン国、カルフール城の大広間。
格式高い畳の間は、豪奢でありながらも引き締まった空気に包まれていた。
上段の間に威風堂々と座するのは、シオン国現国主――レンサイ・カルフール。
その鋭く冷徹な眼光は、ただそこにいるだけで空間全体を圧迫する。訪れる者すべてを無言で黙らせる、圧倒的な威圧感をまとっていた。
対するは、膝をつき慎ましく座す一人の青年。次期将軍候補と目されるキョウ・スオウである。
漆黒の髪を後ろで一つに結び、節度ある所作で父に向かい合う。無駄のない引き締まった体躯と、真っ直ぐな眼差しは、まさにカルフール家の血を引く者そのものだった。
「父上、アヤメのこと…これで良かったのでしょうか」
普段は泰然自若なキョウも、わずかに眉をひそめて問いかける。その問いに、レンサイは一度目を閉じ、ゆっくりと答えた。
「…あやつは、まだ若い。今はひとつの考えに囚われ、視野を狭めておる。他国を巡ることは、あやつにとって良き薬となろう」
「父上は……アヤメが鎖国派に転じて帰ってくることをお望みなのですか」
レンサイは微動だにせず、静かに首を振った。
「いいや、それは望んではおらぬ。もちろん、私と同じ結論に至るのが理想ではあるが……」
そして、レンサイはゆっくりと目を開くと、真正面からキョウを見据えた。
「――結論など、最早どうでもよいのだ。重要なのは、あやつが己で考え、己で答えを出すこと。それがたとえ、我らとは異なる道であろうともな」
その言葉には、厳しさと共に、深い慈愛が滲んでいた。
「……しかし、危険が多い場所だってあります。本当に大丈夫なのでしょうか…」
心配げに問うキョウに、レンサイはわずかに目を細めた。
「大丈夫だ。あやつのことは心配いらぬ」
短く断言すると、ふっと口角を上げる。
それは、単なる楽観ではない。何かを見越しているかのような、不敵な笑みだった。
―――――
――二週間後、翠嶺国を出てからはひと月が経つ頃、アヤメはタルマ村に着いていた。
ラグネシアではその後もなんとか粘ったが、結局現状は変わらなかった。あの男が話した内容がアヤメの心に深く刺さり、アヤメにもこれ以上どうすることもできなかったのである。
決して諦めたわけではない。しかし今は場所を変えようと、このタルマ村に流れ着いていた。
気づけば食料も底を尽きかけていた。
タルマ村で農作業など手伝い、しばらく拠点にしようという考えもあった。ここで少し整理し、次は他の大地へと渡ることもできる。
当初、村人は歓迎してくれた。なにぶん、若い人自体が珍しい。その上農作業まで手伝ってくれるという。
村人にとっては願ったり叶ったりだ。
「ええ、わたし、シオン国出身で…!」
ふいに口にした一言だった。
ラグネシアの反省から、カルフール家の娘ということは伏せていたものの、”シオン国出身”と口にすることの意味を、この時はまだ本当の意味で理解していなかったのだ。
「あんた、それ本気で言っているのかい?」
タルマ村に着いてからしばらくお世話になっているマレット家のおばさま。
元々貧しい村ではある。食事こそパンとスープという簡素なものだったが、優しい笑顔はアヤメにとってどこか救いとなっていた。このささやかだが温かい暮らしに、小さな幸せを感じていた頃だった。
この一言がすべてを壊してしまった。
「アヤメちゃん、悪いが出ていっておくれ」
有無も言わさず、荷物ごと家の外に出された。
アヤメがシオン国の人間ということは、たちまち村中に広まってしまった。
そこからは地獄だ。
――あの国の人間だ…
――異端者め…
誰からも相手にされない日々が始まる。
分けてもらっていた保存食も、女の子がボロボロの服では――ともらった服も全て取り上げられてしまった。
冷たい雨に打たれ、泥まみれになりながら、アヤメは村の外れに座り込んだ。
――この村にわたしはいるべきではない。もう、出よう…。
そう考えていた時だった。
「アヤメちゃん、こっちへおいで」
声をかけたのは、この村では珍しい青年・バーグマンだった。
彼は、自分のなけなしのパンをアヤメに差し出した。
「こんなことになってすまないね。だけど、この村は異端者には厳しいんだ…僕一人ではどうすることもできない。ごめんよ…この村はもう出たほうがいい……奴らが戻ってきたら君の身が心配だ」
「ありがとう…ございます……」
アヤメはパンを両手で抱え、泣きながら何度も頭を下げた。バーグマンは寂しげに笑うと、ふらりと背を向けた。
バーグマンの言葉にあった”奴ら”が誰のことか気になったものの、その時のアヤメにそれ以上考える余裕はなかった。
夜が明ける前に、アヤメはタルマ村を去った。
―――――
タルマ村を出たアヤメは、それからドワーフの国・グロムハルトへ渡り、セルディス王国の別の都市を回ったりしていた。
けれど――現実はどこも変わらなかった。
訴えは誰にも届かない。シオン国出身と知れた途端、手のひらを返すように拒絶される。冷たい視線に侮蔑の言葉…。
シオン国は、アストレア教を信仰しない異端の国――。
常識として理解していたつもりだったが、アヤメの想像以上に異端者に厳しかった。
国を出て二ヶ月も経つ頃には、体も精神もすり減りボロボロになっていた。
――そうか、わたしはただの世間知らずだったのか。
翠嶺国が開国すれば交易も盛んになり、周辺国も豊かになる――。
そう信じて協力者を募るつもりだった。
しかし、弱者と呼ばれる方々にとって、わたしはどこまでも”強者”の側だった。
わたしの言葉は彼らに決して届かない、机上の空論だ…。
アヤメは自らの無力さを痛感していた。
気づけば、タルマ村付近の森まで戻っていた。どうしてこんなところまで戻ったのかわからない。
仕方なく、疲れ切った足取りで森を抜けようとしたときだった。
「なんだ姉ちゃん、女がこんな山奥で一人でいちゃあぶねえぞ」
アヤメの背後から男が声をかけてきた。
振り向くと、ボロ布をまとった野盗らしき男二人がアヤメの方へと向かってきていた。
普段ならこんな輩に負けるはずもない。だが今のアヤメには、武器もなければ反抗する体力も気力もなかった。
――ここまで歩いて周囲に人はいなかった…。
助けも呼べない……もうここまでなの…?
わたしがやってきたことは、一体なんだったのだろう……。
悔しい、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい…!!
父上、兄上…こんな身勝手で娘で……。
父に対して、兄に対して、国に対して。
無力感に押し潰され、アヤメはゆっくりと目を閉じた。
その時だった。
「おい、何してるんだ、やめろ!!」
野盗たちの注意を引きつけたのは、一人の青年だった。
「……なんだてめぇ?」
「見ねえ顔だな、あ?」
野盗たちは警戒しながら、青年に向き直った。
そこには、アヤメと同じくらいの青年がいた。
――今しかない!
野盗が目を離した隙をつき、アヤメはなんとかその場を逃げようとした。
しかし、このまま青年を見殺しにはできない。必死に頭を回転させ、打開策を探る。
「こちらです!! 野盗が二人、暴行を加えています!!!」
ハッタリだった。
この辺りは滅多に人も通らない。助けなんて呼べるはずもない。
だが、野盗たちは見事に引っかかり、その場を去っていった。
「あの、大丈夫ですか!?」
駆け寄ったアヤメが見たのは、ボロボロになった青年の姿だった。傷だらけで、顔も腫れ、口元から血を流している。
わたしなんかのために、という罪悪感と、見捨てず助けてくれた感謝の思いで自然と涙が溢れた。
――大丈夫、息はある。今度はわたしがこの方を助ける番だ…!!
アヤメは必死に男を川辺まで運び込み、今着ている服の袖を裂いてタオル代わりにした。
―――――
青年の容態は思わしくなかった。
骨も折れているかもしれない…それくらい、苦しそうにうめき続けていた。
アヤメは荷物の中にあったポーションを取り出す。兄にもらったポーションは、残り一本となっていた。
――ひとまず一口だけ飲ませて応急処置だけ行い、残りは目が覚めたら飲んでもらおう。
蓋を開け、慎重に口元へ運ぶ。
――ゴホッゴホッ
彼は咳をすると、飲ませたポーションを吐き出してしまった。
――飲めないのか…こうなったら…!!
アヤメは自分でポーションを口に含み、口移しで飲ませることにした。
キスはおろか、男性と付き合ったこともない。しかし今はただ、この命を繋ぐことだけが大事だ。そこにためらいも恥じらいもなかった。
わずかな量を飲み込むと、ようやく落ち着いたように見えた。ポーションが効いているのかもしれない。
アヤメは青年の傍らで、祈るように見守った。
―――――
――エミル様。シオン国を出て出会った誰よりもまっすぐにわたしを見てくださった。
そのエミル様が一緒に戦おうとくださった剣…。
殺されてしまったバーグマン様には恩もある。
これはわたしの戦いだ…!!
「デリンジャー、とおっしゃいましたね。あなたは……わたしが相手をいたします」
アヤメは静かに剣を構え、デリンジャーを睨んだ。
「だあくそが…なんなんだてめェらは……クロードに何しやがった…」
怒りに満ちた声とともに、デリンジャーは鎖鎌を振り回す。
「おい女…お前、剣なんて振れるのかあ? 代わりに俺の剣でも振ってくれよ…へへへ」
「本当に…貴方の下衆さは見上げたものですね」
「――ふん、後悔するなよ女ァ!」
鎖鎌が音を立て、デリンジャーが一気に間合いを詰めてくる。
しかし、アヤメの中には、微塵の恐れもなかった。
すべての音が遠ざかり、世界が静まり返る。意識は、ただ一太刀に集中していた。
「――『翠風流・宵陰条章』!!!」
「………ッ!!」
空気が裂ける。
光のごとき閃撃が走り、デリンジャーは声を上げる間もなく膝をついた。
「女性に対しての失礼な振る舞い、改めてくださいね」
アヤメは冷たく突き放すように告げた。即席の剣だったが、十分すぎるほどの威力を誇っていた。
ふとエミルの方に目をやると、どうやらすでに戦いを終えていたようだった。エミルもまた、デュバルを圧倒していたらしい。
「お、アヤメ、すごいじゃん! お前、強いんだな」
エミルが笑いかける。その笑顔に、アヤメも自然と笑みを返した。
「こう見えてわたし、剣の腕前は父に次ぐ実力者ですから!」
「そっか、頑張ってきたんだな」
――エミル様は、わたしの父が剣聖だから剣が出来て当然だとか、アストレア信仰がないから異端だとか、まったくそんな目ではみない。一人の人間として扱ってくれている。
「ふふ、やってやりました!」
アヤメの顔には、心からの笑顔が浮かんでいた。