第008話 アヤメ・カルフール
アヤメの過去編に入ります。視点が一人称→三人称へと変わりますが、どうぞお付き合いくださいませ。
ーーシオン国、国主が居する城の大広間で、もはや恒例ともなっている父娘の言い争いが続いていた。
「アヤメ、何度言ったらわかる。お前が私になんと言おうと、シオン国を開国させるつもりはない」
威厳をまとった男――『レンサイ・カルフール』。
銀髪を後ろでひとつにまとめ、鋭い切れ長の双眸には、冷徹な光が宿っていた。緑を基調とした軍服に、シオン国の紋章が刻まれている。年齢は四十代後半。武威と智略で国を支える名将だが、その頑なさもまた、国政を縛っていた。
アヤメは唇を噛み締め、俯く。何度目の直談判か、もはや数えきれない。レンサイの側近たちが静かにため息をつく中、アヤメは拳を握りしめ、大広間を飛び出した。
廊下に出ると、そこには一人の青年が待っていた。
真っ直ぐな黒髪を後ろで結び、鋭い目元に知性を宿した青年――アヤメの兄、『キョウ・カルフール』である。
彼は涼やかな顔立ちをしており、軍服の下からも端正な体格が窺えた。
「なんだアヤメ、また父上に話を聞いてもらえなかったのか。お前は何度も懲りないな…」
「そ、それでもわたしは……兄上も今のシオン国はおかしいと思いませんか! こんな状況、放っておくわけには…」
「確かに今が最善とは思ってはおらぬ。しかし、それは私の代で変えれば良いこと。いま父上に真っ向から反発して良いことなんて何もないぞ」
必死に食い下がるアヤメを冷静に諭すと、そのままアヤメの横を通り奥へと向かっていった。
――兄上の意見は真っ当なように思える…。しかし、兄上が継ぐのはまだまだ先。
現在のシオン国はそんな予断を許すような状況ではない。父上も兄上も、まったく現状が見えていない…!
カルフール家の娘としてシオン国の開国を目指すアヤメに対し、レンサイは頑なに鎖国政策を守ろうとしていた。
幼い頃から世継ぎとしての英才教育を施されていた兄に対し、アヤメは活発に外に出かけていた。特に城下町で同じ年頃の子どもたちに混ざるのが好きで、よく宰相である『セイセイ・ホッタ』や国主直下の精鋭部隊である五天衛に怒られていた。
その甲斐もあり、いつしかアヤメは国内の様々な事情に精通するようになった。
多少他国の交易はあるものの、基本的には鎖国を貫いており、国民は自給自足の生活を続けている。加えて、カルフール家の家訓『国を発展させるべからず』に従っており、生活水準は貧しい、とまでは言わないまでも、最低限生活できる程度である。
これまでも、国では対応しきれない天災や飢饉は起きていた。その度に乗り越えてきたが、次も乗り切れる保証はどこにもない。
また、”五天衛”という強力な戦力が存在するからこそ、他国の侵攻を許していない。しかし、ひとたびそのバランスが崩壊してしまえば、自衛手段は存在しなくなってしまう。
今では、国民全員ではないが、一部では国主が“圧政”を敷いているという噂も耐えない。現に、今のシオン国に嫌気が指し、国外へと渡る有能な若者だっている。
このままでは、国力は衰える一方だ。
―――――
――数日後。
「またかアヤメ…いい加減しつこいぞ! お前が何度言おうと方針は変えぬ。シオン国は開国させない」
広間にレンサイの怒声が響く。その額には深い皺が寄り、怒りを露わにしていた。周囲に控える家臣たちも、緊張に息を呑んだ。
「どうしてですか父上…!! そんなに家訓が大事なんですか? 今の国の状況わかってるんですか?」
アヤメはなおも訴えかける。その声は震えていた。
「お前はまだ若い。もっと全体観に立て…!! お前は一部の側面しか見ていない」
「一部しか見ていないのはどちらですか! わたしは父上や兄上よりも国民の声をわかっているつもりです…!!!」
「――お前はしばらくここに入るのは禁止だ。頭を冷やしなさい。おいガルド、アヤメを下がらせなさい」
「はっ…!」
『ガルド・サンザ』――五天衛の長。
この国には珍しいオーガ族である。背は二メートルを超えるほどの高さで、黒髪に深緑の瞳。オーガ族の象徴として、頭には角が二本生えている。タレ目で鼻は高く、顔立ちも整っており、城下町では密かにファンクラブができているほどだ。
「アヤメ様、申し訳ございませんが命令です。オレもご一緒しますので、一旦この部屋を…」
ガルドは困惑した表情を隠せずにいた。彼はアヤメが小さい頃から面倒を見てきた、二人目の兄のような存在だ。
「ガルドは黙って…!! わかったわ、父上…そこまで言うんだったら中途半端なことはいたしません。わたしはこの国をしばらく出ていきます…!!」
アヤメの突然の宣言に、広間は一瞬凍りついた。
「アヤメ様、こんな時にワガママを言いなさるな…!!」
ガルドが慌てて制止しようとするが、レンサイは静かに手を上げて止めた。
「わかった…だったらほとぼりが冷めるまで戻ってこなくて良い。頭を冷やしてこい」
バンッ――!!
アヤメは大広間の扉を勢いよく開け、駆け出していった。その瞳には涙が浮かんでいる。
廊下の先には、またキョウが立っていた。
「――お前、正気か?」
「冗談でこんなこと言うものですか。しばし国を出ます」
涙を拭いながら、アヤメは真っすぐキョウを見た。
「外は危ない、お前一人に何ができるんだ。父上に謝ろう、私も付き合う」
「謝ったら父上は考え方を変えてくれるんですか? 兄上が継ぐ頃には、この国はもう修復不可能な状況になっているかもしれないのに…!!」
――パンッ
静かな音が、廊下に響いた。キョウがアヤメの頬を叩いたのだ。
「……。兄上、お世話になりました」
アヤメは俯いたまま、いつも使っている荷物袋を手に取り、その足で出口へと向かった。
――もう後戻りはできない…こうなったら、協力者を探し出し、父上を説得できるだけの材料を持って帰ってきてやる…!
―――――
アヤメは城を出てしばらくして、荷物袋の重みに気づいた。
――なんだか荷物がいつもより重い。わたし、そんなに中身いれてたっけ…。
少し離れた森の中で袋を開けると、保存食に数本のポーション、そして一通の手紙が入っていた。
――手紙……、これ、兄上から!?
おそるおそる手紙を広げる。
アヤメへ。
お前はいつかこういう決断をするんじゃないかと思っていた。
父に賛同している私だが、お前の信念を否定する気はない。
お前はお前なりの答えを探してくるといい。
しばらくはこれでなんとかなるだろうが、あとは自己責任だ。大切に使え。
キョウ・カルフール
文字は硬く、飾り気のないキョウらしい筆跡だった。
――兄上、わたしが出ていくことを見抜いていたのか…。
うぐっ、ひくっ…
アヤメの目からはポロポロと涙が流れてくる。袋の底には数枚の金貨も入っていた。
―――――
アヤメが国を出て二週間が経った。
旅の最初に訪れたのは、セルディス王国の首都・ラグネシア。
石造りの大通りには活気があふれ、豪奢な馬車が走り抜ける一方で、路地裏では浮浪者たちが膝を抱えて座り込んでいた。
「この国でも……苦しんでいる人たちがいるんだ」
アヤメは裏通りに足を運び、浮浪者たちに声をかけた。
「この状況を一緒に変えましょう!! シオン国を開国させれば、他国との交易も進んで、今の生活も変わるはずです!!! いえ、わたしが変えさせます」
しかし、誰も耳を貸そうとはしなかった。浮浪者たちは一瞬アヤメを見るだけで、すぐに目を逸らしてしまう。アヤメの声は裏路地に虚しく響いた。
――今日ダメでも、明日がある…!!
アヤメはその翌日、またその翌日も裏路地を訪ねては浮浪者たちとの対話に臨んだ。
しかし、状況は一向に変わらなかった。三日目、四日目と過ぎ、アヤメの声は次第に力を失っていった。
――まだ、まだだ…。こんな状況、父上に比べたらましだ…諦めないぞ…
「嬢ちゃん、最近よくここに来ているが、あんたシオン国の人間かい?」
一週間が過ぎたころ、ようやく一人の浮浪者がアヤメに声をかけた。
男は四十代半ばで、薄い髪と痩せこけた体つきをしていた。目はくぼみ、かつては丸かったであろう顔は痩せて骨張っていた。
――やった…! ラグネシアに来て初めて言葉を交わせた…!!
「はい! わたし、シオン国国主の娘です。国を変えたく、協力者を探す旅に出ています。ぜひあなたも――」
アヤメは言葉を早口に紡ぐも、男は死んだような目で首を振った。
「あのな嬢ちゃん。俺達はな、別に現状を変えようだなんて、誰一人として思っちゃいねえのさ」
「え…?」
男の言葉は、アヤメの期待を一瞬で打ち砕いた。
「もちろん、貴族達には恨みだってあるよ。生まれでそんなに差がつくのかってな」
「だったら…」
「だけどな、もう半ば諦めているんだ。俺達がどうしてここにいるのか、知ってるかい?」
「それは…」
アヤメは言葉に詰まった。
「職を失った者…難民…生きる希望を失った元商人や職人…ここにいる者達にはそれぞれの物語があるんだ。決して一括りにはできないんだよ」
「で…ではあなたは……あなたはどうしてここにいるんですか…?」
「俺は元行商人さ。自分の店を持ちたくてな、挑戦に心を燃やした時もあったが、商売敵に騙され、すべてを失った。そこから借金をした相手が悪かった。実に性格の曲がった貴族だったよ。俺が返せないとわかるや、散々いたぶられた。ほれ、俺の手、見るかい」
男はアヤメに自分の両手を見せた。
「――!!??」
十本すべての指の、第二関節より先がなかった。
男の話によれば、貴族の道楽で指を切り落とされたらしい。何本失えば気絶するか…貴族同士の賭け事で、まずは左手親指の第一関節、次は第二関節…その次は左手人差し指の第一関節…と順番に切断されていったとのことだった。
「付け根まで切られなかったのはせめてもの情けなんだろうな。お陰で少しは動かせるし、飯も糞尿の処理も自分でできる。だがな、今更もうどうこうしようなんて思っちゃいねえのさ。ここはそんな連中の吹き溜まりだよ」
――甘かった。
ここにいる人達の背景なんて全く知らなかった。
いや、知ろうとしなかったのかもしれない。
これじゃあただの正義の押しつけだ。ただの自己満足じゃないか…!!
色んな想いが一気にアヤメの中でわいてきた。
「なあ、嬢ちゃん…わかったかい。アストレア教は俺達を救いなんてしねえんだ。交易を始めたら暮らしがよくなる? そんなもん、ただの幻想さ。そんな簡単に良くなるんだったら、ここには今頃誰もいねえよ……カルフール家の娘であるあんたには、わからねえだろうけどな…」
「お話、ありがとうございます……失礼、しました…」
なんとか絞り出した言葉。それが精一杯の返答だった。しばらくアヤメはその場で立ち尽くしてしまった。
”話せばきっとわかってくれる”
――そんなアヤメの想いは、呆気なく崩されてしまった。