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真夏の夜が終わるまで

作者: おこのみミックス

 気づいたら、タツヤのマンションの前に立っていた。何を考えていたんだろう、私。いや、たぶん何も考えてなかったんだよね。今日も一日蒸し暑くて、仕事の疲れもあって、なんだかもう色々ぐちゃぐちゃ。気づいたらここに来てた。


 たぶんタツヤの顔が見たかったんだ、彼の声が聞きたくて、無意識に足が動いちゃったんだろうな。


 タツヤは、私にとって大きなクマのぬいぐるみみたいな存在だ。抱きしめると安心できる、でもぬいぐるみと違って、ちゃんと人の温もりがあるのがずるい。タツヤも「サオリといると心地いい」なんて言ってくれる。けれども、私たちの関係はけして性的なものじゃない。


 つまり、私はただ誰かと一緒に過ごしたいだけなのだ。


 それなのに、インターフォンに手を伸ばしたら、指先はボタンに触れる寸前で止まってしまう。こんな夜中に一人暮らしの独身男性の家を訪ねるなんて、まるでデリヘル嬢みたいじゃないか。いや、実際のところ、そんな勇気もないだけなんだけど。


 なんだか自分でもおかしくなって笑えてくる。何やってるんだろう、私。こんなことを考える時点で、もう私の負けだ。でも、負けるならせめてスマートに負けたい。だから、インターフォンを押すのはやめてスマホを取り出し、タツヤの番号をタップした。


 耳にあてた瞬間、心の中がすっと静かになるのが分かる。タツヤの声が聞こえたら、きっといつもの私に戻れる。


「もしもし、タツヤ? 今からちょっとお茶しない?」


 出歩くのもイヤなほど蒸し暑い夜の十時過ぎに、アポなしで突撃して「お茶しよう」と言い出す私。相当アタマおかしいよな、と内心で思う。


「いいよ。コンビニで待ってて」


 いつものように彼の返事が軽やかに返ってくる。ほっとするけど、なんだかこんな自分を見透かされているような気もする。


 ***


 コンビニに着いて、雑誌コーナーに足を向ける。冷房の効いた店内に入ると少しだけホッとする。いつものように、女性ファッション誌を手に取って、何気なくページをめくる。季節ごとのトレンドや新作コスメの特集を眺めながら、頭の片隅でタツヤが来るのを待っている。


 ページをめくる音とコンビニのBGMが、静かな夏の夜の背景に溶け込んでいく。時間がゆっくりと流れているように感じるけど、心の中はどこか落ち着かない。こんな夜にファッション誌を立ち読みしている自分が、何となく浮いているような気もするけど、やることが他にないから仕方ない。


 ふと目の端にタツヤの姿が映った。背が高く、肩幅が広い彼のシルエットは一目でわかる。マッチョ系のイケメンで、黒のジャケットにジーンズ姿がやけに決まっている。彫りの深い顔立ちに、短めの髪が清潔感を与えていて、どこか気高い雰囲気さえ漂わせる。


「お待たせ」


 タツヤが微笑みながら近づいてくる。私は自然と笑みを返す。


「ごめんね!こんな夜中に」


「気にするなよ。いつものことだし」


「ほんとに?こんな時間に呼び出して迷惑じゃない?」


「全然。けど、こんな時間に空いてる喫茶店もないし、ウチでお茶することにしようか?」


「え、でも…」


「いいって。サオリがイヤじゃないなら、気楽でいいと思うよ」


「……ええと。じゃあ、それで……」


「いつものホットレモンでいいかな?」


「うん、それで。」


 飲み物を持ってレジに向かい、それぞれで支払いを済ませると、私たちは並んで店を出た。


 ***


 暑い夏の夜、外の空気は重く、肌にまとわりつくような感じがする。タツヤの家に着くと、まず彼がリモコンで冷房をガンガンに効かせる。そして、二人で一つのタオルケットを引っ張り出し、それにくるまってソファに座る。


「何見る?」とタツヤが聞いてくる。


「何でもいいよ。眠くならないやつがいいかな」と私が答える。


 タツヤはリモコンで映画を選び始める。画面が光り、映画が始まる頃には、タオルケットの心地よさと、肩で感じるタツヤの体温が、外の世界を忘れさせてくれる。


 こんな夜には、ただこうして一緒にいるだけで十分。夏の暑さとは関係ないところで、疲れた心が少しずつ溶けていく感じがする。タツヤと私の距離感も、これくらいがちょうどいい。互いの存在を感じながら、でもそれ以上にはならない。それが、私たちにとって安心できる居場所なんだ。


 映画を見ているうちに眠ってしまったみたいで、気づくと真っ暗な中で目が覚めた。私、タツヤのベッドで寝てる…? 頭がぼんやりする中で、どうしてここにいるのか一瞬わからなくなる。タツヤはどこか別のところで寝ているらしい。部屋は静まり返っていて、時計の針の音だけが耳に響く。


 反射的に着ている服の乱れを確かめてしまう自分がそこにいた。何も変わっていないことを確認して、自己嫌悪に陥る。タツヤがそんなことをするはずがないのに、どうしてこんなことを考えてしまったんだろう。


 そのまま眠れそうになくて、ベッドからそっと抜け出してトイレに行くことにした。暗闇の中、静かに立ち上がり、足音を立てないように歩く。トイレに着いて用を足して、ついでに服を少し緩めてみる。これでもう少し楽に眠れるかもしれない。


 そのままベッドに戻ろうとしたけど、何かが気になって、リビングの方に足が向いてしまった。


 リビングに入ると、やっぱりタツヤがソファで寝ていた。さっきまで二人でくるまっていた薄いタオルケットを体にかけて、静かに息を立てている。その姿を見た瞬間、思わず声をかけてしまった。


「タツヤ、寝てるの?」


 声をかけた瞬間、少しだけ後悔が湧く。起こしてしまったかな。でも、彼を見ているとそんな気持ちもどこかに吹き飛んでいく。タツヤがゆっくりと目を開け、私を見上げた。


「サオリ、どうしたの?」と、眠たげな声で聞いてくる。


「ごめん、起こしちゃった?ベッドに戻ってもらおうと思って……」


「いや、僕はここでいいよ。サオリがベッドで寝なよ」


「でも、私がベッドで寝ると、なんか悪い気がして」


 タツヤは、そんな私の気持ちを察したのか、ソファの端に少しだけ体を寄せて、


「なら、ここに座って話でもしようか」


 と言ってくれた。私はホッとしながら、彼の隣に腰を下ろす。


 リビングの静寂が、二人の間に漂う。冷房の冷たさと、タツヤの温かさを感じながら、私は何も言わずにその場に座り続けた。この夜が終わるまで、ただこのままでいい。そう思いながら、私は彼の隣にいた。


 他愛もない世間話を続けるうちに、たぶん冷房が効きすぎていたせいで、私たちはいつの間にかくっついて座っていた。彼の分厚い胸板に少しだけ肩を預けると、タツヤは大きくてゴツゴツした手を私の頭の上に優しく乗せてくる。そして彼はゆっくりと話し始める。


「僕さ、サオリとこうして一緒に過ごす時間が好きだよ」


 私は黙って彼の声に耳を傾ける。こんな時、どう答えるのが正解なのだろう。


「サオリは、僕のことどう思ってる?」


 私は少し考えてから答える。


「私もタツヤと過ごす時間が好きよ」


 彼は微笑んで私の頭を優しく撫でてくれる。気がつけば私もタツヤの太ももに手を置いて、ゆっくりと撫でていた。彼の筋肉は固くてあったかい。


「僕たちみたいな関係を、世の中の人はどう呼ぶんだろうね」


「さあ。私は、男に夜這いする淫乱女かしら?それとも、寝込みを襲うストーカー女?」


「あはは。じゃあ僕は、寂しがり屋の女を騙して自宅に連れ込むプレイボーイかな?」


「ふふ。あなたのそういう最低なところ、嫌いじゃないわよ」


 私の答えに彼は笑って、そして私を優しく抱き寄せてくれた。彼の胸に顔を埋めると、彼の鼓動が聞こえてくる。それはとても心地よくて安心する音だった。私は目を閉じて彼を感じる。


 これが普通の関係じゃないことは二人とも良くわかっている。けれども、一度でもキスしてしまったら、それでもう…………


 私たちは長い間、こうしてきた。恋人でもない、ただの友達でもない不思議な存在。だけど今、タツヤの鼓動を感じながら、彼の温もりに包まれていると、私の中で何かが変わり始めているのを感じる。自分の内側の凝り固まった何かが、少しずつ溶かされていくような感覚。もしここで一歩踏み出したら、私たちの関係はどうなるんだろう?


「サオリ……」タツヤの声が静かに耳元で響く。「もし、僕たちがこのままじゃなくなったら……どうなるんだろうね?」


 タツヤも同じことを考えている。だけど、それを言葉にすると全てが終わる。


「たぶん……」私は慎重に言葉を選んだ。「一度でもその境界を越えてしまったら、元には戻れないんじゃないかしら? ……でも、それが悪いこととは限らないかもしれない」


 タツヤは少しだけ驚いたような顔をして、それからゆっくりと頷いた。そして言った。

「うん……そうだね」


 私は彼の胸に顔を埋めた。私たちはしばらく黙って抱き合っていた。互いの体温を感じながら、ただ時間だけが過ぎていった。


「……そろそろ寝ようか?」

「……うん」


「おやすみ」と言って彼は私の頭をもういちど優しく撫でた。その優しい感触に浸りながら、私も小さな声で「おやすみなさい」と答えたのだった。

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