ep4.
セックスの後、本庄先輩は必ず俺を一緒に帰ろうと誘ってきた。そして二十分だけ彼女の驕りで珈琲を一杯ずつ飲む。
店内は駅前という事もあり、空いている日というのはなく、常に席がぎりぎり確保できる位の混雑だった。俺は二回目の以降、きっちり砂糖とミルクを入れるようになった。彼女は最初の日のまま、ブラックの珈琲を飲んでいる。
今日は丁度席を立ったカップルの後の、ソファ席を確保することができた。俺は彼女をソファの方へ座らせ、俺は木の椅子に腰かける。
そろそろ期末テストが始まるね、という話から、大学受験の事、冬休みの事、とりとめのない雑談が空白を埋めた。
店内にかかる控えめなジャズのBGMを聞きながら、不意に本庄先輩が顔を上げた。
「ねえ、クリスマスの日、何か予定あるの?」
「妹と一緒に過ごすつもりです」
俺の言葉に少しだけ目を丸くして、
「ご両親は?」
と聞かれたので、
「二人で出かけますよ。俺達はお留守番です」
と笑って返した。
毎年そうだ。両親は二十四、二十五と、家を空ける。俺が一人っ子の時すらも、祖父母に俺達を預けて、二人のクリスマスを楽しんでいたらしいから、今年に限って家族でなんて言うはあり得ない。当たり前だが、プレゼントなんてもらった事もない。
「普通家族で過ごすじゃないの?」
「ちょっと普通じゃないんですよ、俺の親」
そう言うと、彼女はそうなの、と呟いて珈琲を一口飲んだ。
「私もね、クリスマスってあまりいい思い出がなくて。お父さんは死んじゃって居ないし、お母さんは男の人依存症でクリスマスはいつも一人きりだった。今も義理の父親がいるけど、やっぱり他人は他人よね……」
意外な返しと内容に、同族意識が芽生える。本庄先輩の家庭も少し複雑なようだ。俺はそれに踏み込んで良いのか分からず、そうなんですか、と濁すと、同じように珈琲で唇を濡らした。
「どんなご両親なの?」
俺はその言葉に少し戸惑った。
今まで他人に自分の家庭の事情を話す機会もなければ、話したいと思う事もなかったからだ。俺は少し口の中で言葉をあぐねてから、
「お互いしか見えてない人達ですね」
と、言った。割と的確に表現できたと思うと、我ながら感心したけれど、彼女は今一つ掴み切れていないと言う顔をしていた。
「俺の両親は、仲が良いんですよ。それこそ、子供の入る隙が無い程に。だからクリスマスは二人で過ごすし、プレゼントお互いのものしか用意しない。俺や妹は、両親が愛し合った末にできた記念品みたいなものなんです」
俺は両親が嫌いなのだろうな。
意外と自分の放った言葉に棘のようなものが見えて、ふとそんな事を改めて思うと、彼女は俺の言葉を理解したのか、ゆっくりと頷いた。
「なんか、寂しいね」
寂しい、か。
これも的確な表現だと思った。俺は紙コップの中の珈琲を揺らしながら「そうかもしれませんね」と呟く。それ以外に適当な相槌が見つからなかったから。
「もう寂しいとか特にないんですけどね」
そう笑うと、それが強がりに見えてないか少し気になった。
別に同情が欲しい訳でもない。不幸の話を聞かせて、同調や理解なんて欲しいと思った事は一度もない。だから、彼女にも、俺をそんな風に思ったり扱ったりしないで欲しいと、切に思った。
「先輩のご両親はどうです?」
話を変えたくて切り返すと、先輩はやはり少し言葉に詰まってから、
「父親はもう小さい頃に亡くなっていてね、病気で。義理の今の父親も、あんまり話してない よ。他人だし、仕事で忙しい人だし……母親はちょっと厄介なの」
なんてことないの、と言うように、彼女は少し笑って、話す言葉を軽くしようと努めているのが見えた。けれどその笑顔が、何処か彼女の瞳を曇らせて、大島と付き合う切っ掛けになったんじゃないかと俺に思わせる。
「男の人なしじゃ生きられない人なの。だから、女に育った私が好きじゃないみたい。だから小さい頃からクリスマスも誕生日も何もなかった」
少し似てるね。と、本庄先輩が笑った。
「だからかな、私もお母さんに似ててさ、愛される事に弱いの。愛されると、もうそれだけで満たされちゃって……抜け出せないの」
二人でふと視線の先に戸惑うと、示し合わせた様にソファ席からは少し離れている通りの窓を眺めた。店内もそうだが、通りはクリスマス一色に電飾が飾られて、街は赤や緑などの色鮮やかな電飾に包まれていた。
「クリスマス、大島に誘われてないんですか?」
俺はなんてことないように聞いた。
実際、その疑問は疑問以外の何物でもなかったから、俺の声音は自分が思うよりも素っ気なかったかもしれない。本庄先輩は俯いてから、曖昧に「うん」と頷き、顔の横に流れる長い髪を耳に掛けた。形の良い真っ白な耳朶が現れる。
「誘われてるんだけど……」
そう口ごもると、本庄先輩は珍しく視線を泳がせるような、戸惑いを見せた。
「なんか、今少し行きたくないって思う。いつもなら、何にも思わず、行くって笑うのに」
自分でも自分の感情が分からないと言いたげに、それはまるで他人事のように、先輩が呟く。
俺は本庄先輩がクリスマスについて尋ねてきた理由が少しわかった気がした。
「一晩中……。ほら、クリスマスイブ、土曜日だから」
「発情期の動物も驚きですね」
そう吐き捨ててカップの中の冷めかけている珈琲を口に含むと、彼女は自嘲気味に笑った。
自分を笑っているのか、大島を笑っているのか。二人を笑っているのか、俺の皮肉が面白かったのか。本庄先輩の笑顔はどれもしっくりするようで的外れな気がする。
けれど、そんな鈍い俺でも、分かる事はあった。
俺はクリスマスイブの予定を素早く頭の中で整理していく。
「じゃあその誘い断って、どこか行きます? それで、夜はうちで三人で飯でも食いませんか? そうしたら、丸一日潰れますよね」
先輩はぱっと顔を上げて、少し信じられないと言う様に目を丸くしてから、
「いいの?」
と、身を乗り出して聞いてきた。
まるで何かすごいものを発見した時のような目の輝きに、俺は少しだけ笑ってしまった。
自分の事には疎い人だと思っていたけれど、それは思った以上かもしれない。普段は凛として頼れそうな顔をしているというのに。
俺は頷き返して、先輩が良かったら、と付け加えた。それで本庄先輩の気を揉むネタがなくなるならそれでいいし、妹も二人きりのクリスマスよりも、誰かが居た方が新鮮で喜ぶかもしれない。
お金の心配も、どうせないだろう。
両親は気休めのように、こういったイベント事の時は、いつもよりも多めのお金を置いて行ってくれる。俺達に愛情が全くない訳ではないのか、それともただの良心の呵責への対価なのかは定かではないけれど。
「妹に聞いてみます。豪勢なクリスマス料理とかはないですよ。毎年好きなものの出来あい買ってくるだけなんで」
そう言うと本庄先輩は少し照れたように笑った。感情の乏しい彼女の表情が、暖炉の火に手を翳したように柔らかく解けると、俺の胸の奥にある、正しく動いていた物が、かつん、と何かに躓いた気がした。
「ありがとう、嬉しい。分かったら連絡して」
「分かりました」
俺達はカップの底に残っている一口分の珈琲を、名残惜しく飲み干すと、席を立った。店を出ると、冬らしい冷たい空気が風に吹かれて、肌を刺す。街のネオンが眩しい。
「クリスマス……」
現実を確かめる様に、舌に乗せた言葉の形を象る本庄先輩の声が、周りのネオンに溶けていく。
「明日中にメッセージ送ります」
そう告げて、俺達は駅の改札口へ歩き出した。