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大島との逢瀬の一部始終を観察し終え、一つ思った事がある。
たまたま見てしまったという偶然と違い、これが義務となると、疲れるという事である。元々覗きの趣味がある訳ではない。
気が向いたら、とは言ったものの、律儀に見続けるというのは、何とも言い難いものがある。男としてはラッキーなのかもしれない。しかし、そう思えないのは、俺が可笑しいのだろうか。
一ページも進まなかった文庫本を鞄の中に仕舞って、鞄と共に疲労を担ぐと、俺は教室を出て旧校舎から玄関口のある新館へと向かった。
不意にブレザーの中にあるスマホが震えて確認すると、本庄先輩から連絡が来ていた。
『玄関口で待ってて』
相変わらずの簡素な文だが、七文字じゃない。
そんなどうでも良い事を思いながら、俺は彼女の指定する玄関口まで足早に移動した。
先輩は俺が靴を履いて、五分程すると、今まで激しいセックスをしていたとは思わせない程の、爽やかな笑顔で現れた。
この表裏は女性特有のものなのだろうか。俺は少しだけ彼女を恐ろしく思いながら、何と声をかけるべきか分からず、
「お疲れ様です」
なんて言ってしまった。
彼女は俺の言葉に一瞬きょとりとしてから、やがて少し笑うと、行こうか、と上履きから、形に崩れのないローファーへと履き替え、歩き出した。俺はそれを追いかけるような形で歩き出すと、彼女の隣に並ぶ。
彼女の存在はほんの少し前まで、誰かに抱かれていたと思えない程清々しい。俺は視線だけを動かし、彼女の冬が似合う横顔を盗み見る。その瞳の光彩の中に、濃紺色の夜空に白い星の輝きが滲んで見えた気がした。小粒のダイヤが水底で揺らぐ様な淡い光が、一つ二つと見える。
「私の顔に何かついてる?」
「いや……」
気付かれて俺は彼女から視線を逸らすと、真っ直ぐと前だけを見つめた。彼女の清冽な空気に、性的なものが感じられない。それが不思議だった。
脳裏に思い浮かぶ白い肢体と今の彼女が、イコールで結ばれない。俺はそのもどかしさに隣にいる本庄先輩に対して、何を思えば良いのかと戸惑った。
そうこうしている内に駅前まで来ると、彼女は当たり前のように、先日と同じカフェに俺を促した。自分で払えるという俺の背中を、半ば強引に押し退けて「席取って来て」と。
店内に追いやられると、俺は諦めて窓際のカウンター席二つを確保した。ほどなくして先輩が温かい珈琲を運んできてくれると、俺は頭を深々と下げて、それを受け取った。紙のスリーブ越しに温かさが滲んで、氷のように悴んでいた手を解いて行く。
「私がしたくてしてるんだから良いの」
「でも、奢られる理由がないです」
「理由ならあるじゃない」
「先輩の頼みを聴いてるってことですか?」
そう言うと、彼女は紙コップの蓋を外して、ほわっと立つ湯気に、ふうっと息を吹きかけ頷いた。俺はなるべく頭の隅に、情事の映像を放り投げると、
「別に礼をされる程の事じゃないです」
と、努めて無感情に言い捨てた。
「傍から見て、どう見える?」
「それ聞きます?」
真顔で聞き返すと、彼女はこくりと頷いて、その大きな眼差しを俺に向けて来た。
「どって言われても……」
「滑稽に見える?」
「いえ」
「じゃあどう?」
背後で高校生の集団がゲラゲラと笑い出す。俺達はちらりと視線を動かしてから、再び視線を重ね、俺は言葉に詰まり、本庄先輩は好奇心旺盛な眼差しで見つめてくる。
見つめられるほど、頭の隅に追いやったはずの記憶がまざまざと蘇ってくる。当人が居る目の前で。
「マジで意味分かんない状況です」
心境を素直に吐露すると、本庄先輩は少し驚いたように目を丸くしてから、小さく笑った。
「確かに、意味分からない状況だったよね」
「ちなみに今も意味分からないですからね」
念を押すと、彼女は「そう?」と言いたげに首を傾げた。どうやら彼女と俺の神経回路には、大きなずれがあるようだ。
「じゃあ、本庄先輩はどうなんですか。俺に見られて」
やられっぱなしではと、意地悪半分の気持ちで聞き返して見ると、彼女は少し視線を宙に泳がせてから、店内にかかるクラシックの指揮でも取るように、少し頭を揺らしてから、
「ああ、いるなあって、ちょっと安心しちゃった」
予想外の答えを、予想にしない表情で答えられて、俺は逆に戸惑ってしまう。
「大島が怖かった、ってことですか……?」
やはり、無理やりなのだろうか。
そんな思いが胸を掠めて、慎重に声を強張らせると、彼女はあっさりと首を横に振った。
「違うよ、何にもない。何もなかったのに、君がいるなあって思うようになった」
ただそれだけ。
俺はその答えに何と答えるべきなのだろう。
愛されていて嬉しいも、快楽を得て気持ちが良いもない。何もない。その無空間の中に、俺と言う異質がぽっと顔を出した。
「良い事ですか?」
「たぶん、良い事かな」
たぶんね。
そう言うと、彼女は珈琲を一口啜った。俺も同じようにブラックのままの珈琲を啜った。
苦い。
けれど、横目で盗み見た彼女の表情は、ミルクを混ぜた珈琲のように、微かに甘やかだったので、俺は少し内心ほっとして、息を吐いたのだった。