ep3.
「今日は帰りが遅くなるから」
「別にいいよ、そんな連絡、今更……」
うんざりしてそう吐き捨てると、電話越しの父親は沈黙した。
「どうせ金は置いてるんだろ」
「ああ、それで好きなも」
「勝手にするから、あんたらも勝手にしろ」
相手の言葉に言葉を重ねて通話を切ると、俺はささくれの立つ心を鎮める様に、浅い息を吐き出した。
マンションのエントランスを抜けて、部屋のある七階へと誰もいないエレベーターに乗り込む。一瞬和らいだ寒さにマフラーを緩めながら、辿り着いた階数に降りると、いつもより少し遅く自宅の扉を開いた。短い廊下を抜け、リビングに入ると、ソファでカップ焼きそばを食べている妹がいた。
「父さんたち遅いってさ」
「知ってる。お母さんが今朝、恋人になった記念とか何とか言ってた」
俺はダイニングテーブルに置かれた五千円札と、妹の果歩が見ているバラエティー番組を見比べ、ため息を吐いた。
「お前それだけ? なんか作ろうか?」
「ほんと?」
嬉しそうに振り返った果歩は、片手に箸とカップ焼きそばを持ったまま駆け寄ってくる。俺は冷蔵庫の中を確かめてから、
「かきたまスープ、サラダ……お前焼きそば食ってるならチルドの餃子焼くか?」
「お兄ちゃん好き!」
果歩はそう言うと、再びソファーへと戻って行き、テレビの真ん前を陣取った。何か怒っている芸人を、周りがゲラゲラと爆笑しているのが見えた。
俺は制服のブレザーを脱ぐと、シャツの袖を捲って、鍋に湯を沸かし、サラダの為のレタスやきゅうり、トマトを取り出し水洗いをした。
俺の親は、俺達子どもに興味がない。
俺はテーブルに置かれたまま、誰一人として手を付けていない五千円札を眺めた。
父さんと母さんは、お互いの事しか目に入っておらず、二人お互いを中心に生きている。そこに俺達子どもの入る隙は一切なく、俺達は彼らが愛し合ってしまった末の「記念品」みたいに家の中に存在していた。
彼等には記念日が多く、そのたびに二人だけで外食に出かけ、俺達は留守番。学校行事も、その日はデートだからとすっぽかす事も多かった。そしてそれらに彼等は悪気と言うものが一切なく、当たり前のように振り舞うのだ。
愛情が一切ない訳でもなく、会えば親子なりの会話はするが、両親の一番はお互いであり、一番以下は存在しないようにも思えた。
「ねえ、お兄ちゃん。来週三者面談なんだけどさ、お母さん来てくれるかなあ」
無感情を装う果歩の声が聞こえた。顔を上げると、果歩は背中を向けたまま、大笑いしているテレビの中とは反対に、静かにテレビを見ている。無関心を装っているような声音が、小さな背中に哀愁を漂わせている。
「それは俺が念入りに言っておくよ」
「それなら安心かな。ありがと!」
彼女は幾分声音を明るくさせると、残りの焼きそばを掻き込んだ。中学三年生の彼女は、男までとはいかないが、食欲旺盛だ。
「お前そろそろ料理覚えろよ」
「お兄ちゃんが居るから覚えないでいいんだよ」
どういう理屈だ、そりゃ。
俺は溜息を吐いた。
しかし、果歩に寂しい思いをさせているのだし、食事位はまともに作ってやりたいという自己満足もあった。母親の味というのは難しいが「誰かに作ってもらっていた」という事実は、生きていく上で大きいような気がする。
「まあ、食事位はいいか」
俺は独り言を呟きながら、レタスやトマト、きゅうりに包丁を入れていく。
それから餃子を焼いて、かきたまスープを作り、サラダを盛りつけ、冷凍ご飯でチャーハンを作ると、果歩が半分欲しいとごね出した。
「だから作れるようになれって言ってるのに」
「はいはいはーい」
彼女は俺の言葉を遮るように、被せて適当な返事をすると、焼き立ての餃子を頬張った。
「お前、そういうとこだぞ」
指摘しながら椅子に掛けていたブレザーからスマホを取り出すと、メッセージが二件届いていた。一件は父親から、遅れての「今日遅くなります」という言葉と、もう一通は本庄先輩からだった。
『今日はありがとう』
簡素には変わりはないが、やっと八文字になったと、俺は少しだけ笑ってしまった。