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 よく停学二週間で済んだな。

 教師から手渡された書面を見て、俺はぼんやりとそんな事を考えていた。停学に関する紙切れと一緒に渡された、大島への反省文用の原稿用紙十枚。全てにお前が死ねと書き詰め込んだら、今度は停学何日を食らうだろうか。

 俺は駅前のバス停で、朝食代わりの紙パック野菜ジュースのストローを噛みながら、死ね、と、膝に乗せた原稿用紙三枚目の一文字目に書き込んだ。

 あの後進路指導室に連れ込まれ、厳しい叱責と一緒に理由を問い質された。生活指導の数学教師の飛んでくる唾を避けるように顔を逸らしている先に、青い顔をした大島が、頬を赤く腫らせて立っているのが滑稽で、俺は何度笑いそうになったか知れない。大島は俺と目を合わせないように、天井や地面や外を眺め、時折話を振られると、曖昧な相槌と共に「思春期ですから」と俺を擁護した。

 大島の太い首から汗が滲み、垂れているのが心底不快で、擁護される事も、それと同じくらい不快だ。

 死ね、と書き綴っていると、エンジン音を響かせながら、排気ガスを吐き出すバスが目の前に留まった。俺は原稿用紙小さく折り畳むと、ペンと一緒にポケットにねじ込んだ。

 ICカードを翳し乗車すると、彼女と座った一番後ろの席の隅っこに腰を下ろす。エンジンで身体を温めるように身震いをしているバスは、空腹を訴える獣のように低く唸っている。

 汚れて乳白色のガラス窓から、小さな駅のロータリーを眺めた。平日の午前中という事もあり、人は疎らで、俺を見て咎めるような視線は一切ない。いるのに、いない、そんな浮遊感が心地良くて、俺はずずっと最後の野菜ジュースを飲み干してから、一昨日事を思い出していた。

 停学処分は無論、親や妹にも知られた。知られないというのは、やはり無理だった。教師から親に直接連絡が行ったようだ。

 学校に父親が来て、一緒に頭を下げて学校を出ると、俺はまだ一人では生きていけない子供なのだと落胆した。あれだけの事を言い放ち、今更頭を下げさせた事に、ただ罪悪感しかなく、帰り道は父親の三歩後ろを歩いていた。

 冬晴れの、皮肉な程温かい午前中だった。駅前で仕事に戻るからと言う父親に頭を下げると、後頭部をぽん、と撫でられた。

 頭を上げる事も出来ず、固まっていると、

「何があったか分からないけれど、何かあったんだろう。お前が殴る位だ、ただの思春期で片付けられないことだと思う」

 父親はそう言った。

 俺は虚を突かれ、息を止めた。

「亡くなった女生徒とは友達だったのか? もしくは……付き合っていた、とか」

 言い難そうに声を籠らせる。俺はそんな父親を、あの時どう思ったのか、自分でも理解できないけれど、

「好きな人だった」

 と答えていた。

「色々あったのか?」

「……色々あった。迷惑かけて悪かったと思うけど、言えない」

 我儘で身勝手で、子供みたいな発言で、大人の父親には理解できないと思う。けれど、かなえさんの死を憶測で穢したくなかった。事実を言って、それが公になれば、大島は真っ先に社会から責められる。けれど、かなえさんはそれを望んでいるようには思えなかったから。

 誰かを罰したり、悲しませたり、不安がらせたり、そういう事を彼女はしたがらなかった。流されると言いながら、己を悲しみに追いやって、それが良いと笑う人だった。

 そして、話したこともない、あった事もない、小さない命に泣く、愛を知らないと言い張る人だった。

 本当は知っている全てをぶちまけて、大島を社会的に抹殺してやりたい。

でもそれは、俺の単なる身勝手な欲求だ。

 かなえさんが本当にしたかった事は分からない。

 だから、分からないまま、そのままにさせたかった。

 だって俺は、彼女に依頼されただけの、ただの「傍観者」だから。公言しないのは、彼女との約束だったから。ただ見ていて欲しい、というかなえさんとの約束は、破りたくない。

 いつの間にかきつく目を閉じていると、そっと頭から手が離れた。離れたそこがすっと冷えて顔を上げると、

「分かった。なら、きちんとその背負ったものの責任は取らないとな」

 そう言って父親は笑っていた。その笑顔はどことなく孤独が潜んでいる気がしたけれど、俺はそれを見ない振りして、謝った。そうする以外に思い浮かばなかったからだ。

 駅前で別れ、先に改札へと入って行く父親の背中は、直ぐに人波に紛れて消えてしまったけれど、触れられた後頭部の感触はいつまでも消えなくて、心の中でただその背中に向かって「ごめんなさい」としか言えなかった。

 都合良く親を演じさせた自分が、それでも俺の意志を汲む父親が、胸にただ痛かった。酷い言葉が今更自分に向かって飛んできた気分だった。

 汚れた窓ガラスを指先で擦ると、ぼやけた視界が、そこだけはっきりと浮かび上がる。俺は野菜ジュースのストローを齧った。

父親との関係が、それで和解ではない。けれど、少しだけ靄の掛かった視界が、微かに開けた気がした。

 不意に「発車します」というアナウンスが流れ、はっと顔を上げると、ブザー音と共に開いていた扉が閉まり、いつの間にか乗り込んでいた他の数名の疎らな乗客を乗せて、バスが発車した。

 背凭れから離した身体を、再度深く椅子に沈めて、俺はポケットからスマホを取り出すと、かなえさんとのメッセージのやり取りを見返した。

 頑なに七文字を越えないメッセージ。可愛い兎や熊の躍動感あふれる、似合わないスタンプ。砕けていく文体と会話。

 何を思う訳でもなく、目の前をするすると流れていく文字の羅列。小さな言葉の一つ一つが、ただきちんと重さのある小石のように、こつん、こつんと胸の底に落ちて、積もって行く。車体が激しく揺れるたび、身体が跳ねて、窓の外の景色を揺らした。バス停の名前を告げる、女性のアナウンスだけが、めちゃくちゃに揺れる視界の中で、唯一の一本筋のようにバス車内に流れた。一人が下りて、二人が乗って、少数の入れ替えをしながら、バスはあの日見た景色を辿って行く。信号機、横断歩道、マンション、コインランドリー、コンビニ……冬の日差し。

あの日と寸分の狂いもなく似ているというのに。

俺は目を細めて、冬の薄い雲に隠れている太陽を睨みつけ、ゆっくりと左手の指の関節を動かした。いくら握ってもそこには空気しかなくて、あの日握った細い指先はどこにもなく、あの顔の横で揺れていた艶やかな髪も、ない。吊革が不規則に揺れて、鼓膜の奥で声がする。

「本当にやさしいね、いつき君」

 かなえさんの冬の午後に漂う白い吐息のような、温かく、刹那的な声が蘇っては、湿って消えていく。

 不意に身体の奥が熱くなり、喉に何かが詰まる。息を奪うような何かは、俺をゆっくりと締め上げると、目の奥を熱くさせた。身体のいたるところで、ちりちりと身を焦がすような微かな痛みが生まれる。俺は前の座席の背もたれに額を押し付け、きつく目を閉じた。

 泣きたくない。

 それなのに。

きつく閉じた瞼から、滲むようにして水滴が溢れ、目を開くと大粒の雫が黒いスニーカーの上に落ちた。ぼたぼた、と零れて、滲み、俺は慌てて着ていたコートの袖で、乱暴に顔を擦った。

 俺は大げさに大きく息を吸いながら顔を上げると、何度か瞬きをして、喉の奥に残る鈍痛を嚥下した。運良く隣には誰もおらず、見える背中や後頭部は振り返ろうとしていない。

 俺は大きく仰け反るようにして背凭れに寄りかかると、低い天井を見上げた。年季の入ったクリーム色の低い天井を見つめて、頭の中を空っぽにしようと努める。

 空白だけで一杯にしたかった。真空で無音で、誰もいない。

 暫くすると、聞き覚えのある停留所のアナウンスが流れ、慌てて降車ボタンを押すと、バスは路肩へと近づき、ゆっくりと停車した。俺は小走りで出口へと向かい、バスを降りると、一度だけ見た事のあるその景色に、懐かしさを感じる。背後で気の抜けるような発信音を鳴らして、バスが風を立てながら走り出すのを感じた。

 蛇行した住宅街をまっすぐと見詰めてから、俺はゆっくりと冬の冷たい空気の中を、一歩踏み出す。凍った空気の狭間で、俺の呼吸が白く浮き上がっては消えていく。

 どこからか、子供の声はするのに、何処にも姿はない。冬の一人きりの道は、一年の中で一番の孤独を教えてくれる。足元にある小石を蹴り飛ばすと、道路わきの雑草の茂みに、冷たい木枯らしと一緒に逃げられた。

 俺はコートのポケットに悴んだ両手を突っ込んで、ただ頭の中にある記憶を辿るように、脚を進めていく。

脚は正確に記憶を辿り、気が付けば、彼女が昔住んで居たという団地の群れが見えて来た。くすんだ青空にぼんやりと背中を丸めて蹲る胎児のような存在に、息が止まる。

団地の出入り口の前まで来ると、彼女の履いていたブーツのヒールが鳴らす足音が聞こえてくる気がした。

冬らしい冷たく乾いた音だった。

俺は出入り口で止まった脚を一歩進めて、彼女が教えてくれた公園を目指す。時間帯のせいもあり、団地の中に人は疎らで、年寄り一人とすれ違う以外、人は居ない。通り道に寄り添う木々はまだ裸で、時折上空で吹く風に小枝を震わせていた。

俺のスニーカーでは足音は鳴らない。けれど、鼓膜に残る彼女の足音を追いかけると、俺の脚は勝手にあの公園へと導いてくれた。俺はあのブランコと滑り台だけの簡易的な公園を前に、脚が竦むのを感じた。

相変わらずどこか誰も近づけようとしない孤独が潜んでいる。でもだからこそきっと、かなえさんはここに居たのかもしれない。

孤独は、孤独を知る人にしか癒せない何かがある。醜い事も、綺麗事も、全部知って嘘を吐く様な孤独が、凍えた心を温かく包み込んで寄り添ってくれる。

俺は公園の湿った土に足を乗せて、ブランコを通り過ぎ、滑り台を過ぎて、公園の奥にある草むらへと向かった。

かなえさんと一緒に隠れた草むらは、冬の乾燥など感じさせない程湿っていた。俺は彼女と一緒にしゃがみ込んだ場所に、今は一人で腰を下ろす。柔らかい腐葉土が足の裏を柔らかく包み込む。

手近な石を探して握り込むと、いつかのあの場所を俺は乱暴に殴って掘り起こす。その下に眠っている胎児を揺り起こすように、少しずつ丁寧に土を削って行く。

石の襞に何かが当たって、俺は手からそれを放り投げると、指の腹を使って、丁寧に土をかき分けていく。ちらりと見えて来た白いそれに、心臓が大きく脈打った。

出て来たそれは、冷えた胎児の鼓動の記録。

俺はそれを指先で取り持ち上げる。ぽろぽろと土が落ちて、かなえさんが教えてくれた命の白い点を探す。

乾いた風が深い緑の葉を揺らして、俺の頬にかかる髪を撫でた。俺は見つけたその命の燃え殻を見つめ、裏を捲り瞠目した。

「愛してる」

 写真裏の真っ白な中に、ぽつりと走り書きが残されていた。乱れた、綺麗とは言い難い、右斜めに上がった「愛してる」。

 俺は大きく息を吸って、吐き出すと同時に、嗚咽を漏らしてただ泣いた。

溢れかえる涙が呼吸を奪い、痛くない場所なんてない程、体中が締め付けられ、心臓が締め上げられる。

 短い時間で書き残された言葉は、きっと彼女の偽りない本当の愛なのだろう。どこにも行き場所のないたった一つの魂への祈りにも似た、彼女の最初で最期の愛してるなのだろう。

 彼女との思い出が、バスに揺られている時よりも、鮮明に蘇ってくる。優しい彼女の笑顔が痛い。痛くて、でも逃げ出したくない。

 ――俺はたぶん、きっと、彼女を愛していたのだ。

 そう思うと情けない程に涙が出た。

 彼女のそばに居られたこと、彼女の支えになれた事、彼女の心からの愛してるを聞けたこと、それら全てが愛おしくて、涙が出た。

 愛なんて知らない。

 俺はもうそんな事は言えない。

 彼女という存在を知ってしまったから。

 嘘みたいな喪失感が胸に春の匂いを宿した、冷たい風を吹かせる。俺は彼女の残した最後の短い愛してるを抱き締めて、胎児のように背中を丸めて暫くその場から動けずにいた。

冬の暖かな日差しが背中を摩り、それはまるで、かなえさんの掌のように、優しく、愛おしい光で満ちていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] 読み終えました。 かなえさんについて、こういう形になってしまったことに驚かされると同時にとても切なくなりました。 違った形で2人が出会っていれば、違う未来もあったのかもしれませんね。
2024/05/30 16:04 退会済み
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