ep8.
「本庄先輩、自殺だったらしいぜ」
目の前のクラスメイトが、今朝湧いたばかりの話題を口にした。俺は机に伏せていた上半身をゆっくりと起こすと、窓の外を眺める。
相変わらず窓の外は低く重苦しい雲が立ち込めて、世界を圧迫していた。視界は全く何も変わらないのに、かなえさんはもう会うことはできないのだ、そう思うと信じられない気持ちで、朝から何度もメッセージを送っているけれど、返事は一向に還ってくる気配はなかった。あの不似合いな絵柄のスタンプも、俺の送ったメッセージも、既読になんてならない。
胸やけする物なんて食べてないのに、身体の内側が重い。
「あんなハイスペックで何があったんだ?」
「さあ……恋愛絡み?」
下世話な囁きが延々と続く。
そんなんじゃないと言ってやりたいのに、身体の底から力が抜けたように、起き上がる事すら億劫だった。
「全校集会だから体育館だって」
教室で誰かが叫んだ。ガタガタと椅子や机が地面を揺らし、人の騒めきが一層強くなった。
俺は両手を机について、ゆっくりと上半身を起こすと、既に疎らになっている教室を後にした。踵を踏んだ上履きを履き直し、何人もの人が俺を抜いて、足早に体育館へと向かう。けれど、俺はどうしても急ぐ気にはなれなくて、できる限り、のろのろと歩を進めた。
体育館に入り、きっと校長が「痛ましい事件が起きました」みたいな言い回しで、何にも知らないかなえさんの事を「良くできた生徒で、人望も厚く」なんて語り始めるのだと思うと、吐き気がして堪らない。きっと生徒も誰かも知らない相手に、何の思いもなく、目を閉じるだけの黙祷をするのだ。
自分がどれほどかなえさんの事を知っているのかなんて自慢できる程、俺は彼女の事を何も理解できていないし、誇れる何かを知っているわけでもない。けれど、言葉も景色も何もない、真っ白な頭の中で、皆が悲しむ事を俺は拒絶していた。
ようやく辿り着いた体育館を前に、抵抗するようにぼんやり立っていると、名前も忘れた教師に腕を引かれ「早くしろ」と一喝された。仕方なくクラスの並びに向かい、人の中に紛れる。踏みしめているはずの体育館のつるりとした、でこぼこのない地面が、ゴムの上履きにくっついて、ぺたぺたと間抜けな鳴き声を上げていた。
「皆さん静かに、全校集会を始めます」
そんな在り来たりなアナウンスが響いて顔を上げると、うっすらと覚えている、背の低い白髪頭の校長が上段へと、階段を一歩一歩踏みしめるように上がっていた。マイクの前まで来ると、騒めきがその言葉を待つように、一気に静まり、視線が一つの標的へと向かう。
俺はその中で、生徒の並びの隙間から見える大島を見ていた。相変わらず、変わり映えのない見慣れたジャージは、袖口が草臥れており波打っている。真摯的な眼差しで、校長を見ているように見えるけれど、浮いた額の脂汗を、しきりにハンカチで拭っている。
時折きーん、とハウリングを交え、頭に入って来ないスピーチを聞きながら、俺は改めて足のつま先から頭のてっぺんまで、しっかりと太田を見つめた。
あれが、かなえさんを抱き潰し、妊娠させ、最後には死の縁へと突き落とした男。涙を見せる事も、顔を歪めることもせず、まるで彼女が死んだ事で、自分が何か言われるのではないか、自分に辿り着く何かが発見されてしまうのではないかという保身が、ありありと見て取れるのは、俺の妄想だろうか。
「それでは亡くなられた本庄かなえさんに、黙祷」
校長が最後の言葉をはっきりと発音すると、静寂が息を潜めて一層深くなる。俺は誰もが疑いの余地なく目を瞑るのを見渡す。大島もそれに習うようにゆっくり目を閉じると、まるでその瞼の動きが俺のどこかのスイッチを、思い切り叩き潰すような勢いで押された気がした。
――なんだそれ、目を瞑っただけで許されると思うなよ!
俺は人波をかき分け、大島の元へと走り出した。心臓が壊れそうな程脈を打ち、それによって急かされ駆け巡る血流が、身体の中で荒れ狂うのを感じた。
ふざけるな!
ふざけるな!
「きゃ!」
「ちょっとなに!」
「いってえ!」
鼓膜よりずっと遠い場所で、誰かが叫んでいる気がした。俺は整列された人混みから飛び出すと、ゆっくりと目を開きかけた大島の左頬を目がけて右手の拳を、渾身の力を持って叩き入れた。
人を殴るという初めての感覚。指の骨が軋み、痛みが滲む。こんなに自分も痛いのかと、頭の片隅で、冷静な自分が呟いた。
俺の拳によってバランスを崩した大島は、不意を突かれた勢いで、そのまま横倒れになると、俺はその上に跨って、拳を振り上げた。
見下ろした大島の表情は、現実を未だに理解できてないような驚きで染められていた。
俺は彼の胸倉を引き寄せ、
「お前が死ねばよかったんだろうが……っ!」
そう腹奥から憎しみを込めて叫んだ。どす黒い汚泥と共に。言葉を口にすると最後、知らぬ間に抑えていた何かが、頭の片隅で、小さく弾け飛ぶのを感じた。
俺は彼の胸倉を押し倒して床に叩きつけると、再度腕を振り上げた。しかし、振り下ろす直前、誰かが俺の手を掴んだ。今度は胴を抑え込まれ、俺は引きずるようにして、大島の腹から降ろされた。離せと叫んだところで、止めなさいと叱責され、何も知らない大人や他人が俺を押さえつける。
あいつが告白しなければ、あいつが勘違いしなければ、あいつが彼女を抱かなければ、俺が彼女を見つけなければ、深く関わらなければ、何も知らなければ、他人事であれば、クリスマスがなければ……かなえさんなんて、呼ばなければ。
後悔に似た物が、憎しみに似た物が溢れてくる。俺はその名前を知らないけれど、どうしても手放せないものだと、体中のどこかで確信している。
「かなえさん……」
俺は何をどう言えば良いのか、項垂れながら、周りの雑音の隙間を縫うように、彼女の名前を呟いた。




