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少し付き合って欲しいという先輩の言葉に、俺達は珈琲を飲み干してから、店を出た。どこに行くのかと聞こうと思ったけれど、半歩前を歩く本庄先輩の横顔が、余りにも真っ直ぐと前を見つめているので、俺は声を掛ける瞬間を掴み損ねた。
ただ一点を見つめるような、真摯な眼差しは脆く、指先で触れるだけでも、崩れてしまいそうな雰囲気を持っていたから。薄い氷の一枚板を支えに、触れたら全てが大きな音を立てて瓦解してしまいそうだったから、俺はそれに触れる事が出来なかった。
俺は彼女の言うままに切符を買い、電車を乗り継ぎながら、彼女だけが知る駅に降り立った。
そこは俺の住む最寄駅から随分離れた場所だった。
疎らに降りて行く人の中に紛れて、本庄先輩の後に続いて電車を降りて、改札口を抜けると、右手に大きな商店街があり、唯一活気づいているように見えたが、左手のバスターミナルは、閑散と静かに見える。
「こっち」
彼女はバスターミナルへと向かい、丁度止まっていたバスに乗り込んだ。誰も居ない車内に、バスのエンジン音が微かに響き、車体が震えている。俺達は一番後ろの席に並んで座った。
窓際に彼女が座り、俺は少し距離を取って隣に腰を下ろした。
「なんで離れてるの?」
不意に本庄先輩の視線が俺へと注がれ、戸惑っていると、腕を引かれて、俺は彼女とぴったりくっついて座る様な形を取らされた。
気持ちに反して、心臓が音を立ててしまう。緊張していると、本庄先輩の細い指先が、俺の膝にある手を握った。
なんだ、どうした、何のつもりだ。
思わず彼女を見ると、双眸は窓の外に投げられたまま虚ろで、手を繋ぐ事に意味なんてないよ、といった、投げやりな雰囲気が漂っていた。
「このバス、何処に行くんですか?」
ようやく質問が喉から転げ落ちた。
「私が小さい頃住んでたところ」
そう言う彼女は俺を見る事はない。ただ、午後の冬の光を顔に受けながら、その白い肌をほんのりと発光させていた。艶やかな黒髪が、さらりと肩に流れる。
「何を考えてますか?」
俺の質問に、ようやく先輩が震える様に瞬きをした。まるで、今目が覚めたのと言いたげな震え方で、瞬きをした。それを見守っていると、彼女の双眸が、冬の陽光に琥珀色に透ける眼差しが、俺を見つめ、捕える。本庄先輩の、俺の手を握る指先に微かに力が入り、肌にゆっくりと沈み食い込むのが分かった。俺はそれより少し弱い力で、握り返す。重なり合った掌の温度が、どちらのものか分からない。けれど、少し熱く感じられた。バスの中の少し湿った冷気の中、生きている証拠のように温かい。
「赤ちゃんのこと」
空気の隙間に滑り込ませるように、小さく本庄先輩が呟いた。俺は彼女と同じ力で手を握り返した。
そろそろ出発なのか、エンジンが一際大きく唸りを上げたけれど、慌ててかけてくる客は誰も居ない。静かな車内は、エンジン音だけが響いていて、それ以外は無音だった。
「君は何を考えてる?」
本庄先輩からの質問に、俺は少し戸惑った。動揺して、胸の内側で脈打っていた心臓が、歯車を折ったように、でたらめな脈の打ち方をする。本庄先輩の双眸は、相変わらず琥珀色に静かな輝きを灯しながら、その奥でひっそりと息を潜めている真っ黒な瞳孔を揺らしていた。
それを見つめている内に、俺の唇は勝手に――いや、勝手ではない。理性がいくら積んでもさらさらと崩れて行くように、
「本庄先輩の事を考えてました」
と、何の偽りも壁もない言葉を零していた。
俺の言葉に、彼女は少し目を丸くしてから、すぐにいつもの微笑みを口元に宿し、
「本当に優しいね、いつき君」
と、初めて俺の名前を呼んだ。
俺は何と言えば良いのか分からず俯くと「発車します」と、車掌のアナウンスが素っ気なく車内に響き、音を立てながらドアが閉まった。本庄先輩はそれきり揺れ動く外の景色を眺め、俺は不規則に揺らぐ吊革を眺めていた。手を繋いだまま。
ねえ、と声をかけるように、彼女の細い指に力が入ると、それに返事するように握り返した。視線を本庄先輩へと向けると、窓の外の流れる景色に向けられていた眼差しが、一瞬だけ俺に注がれる。先輩は何を言うでも、訴えるでもなく、再び視線を外に戻してしまった。信号機、横断歩道、マンション、コインランドリー、コンビニ、様々な風景が流れていた。学校帰りだろう赤や黒、ピンクや茶色のランドセルを背負った子供の集団もいた。
本庄先輩は何を考えているのだろう。赤ちゃんを今も想っているのだろうか。それとも、別の事を考えているのだろうか。
俺はそんな事を思いながら、ただ揺れの大きなバスに座って、吊革を眺めていた。
不意に、ブザーの音が響いて「次、停車します」と音声案内が小さな車内に響く。
「私が小さい頃に住んでた団地なの」
彼女はそう言った。
俺達はバスが停車すると、すぐに立ち上がり、降車して、誰も乗せる事もないまま去って行く大きな車体を見送った。俺達の手は、バスを降りると離れていた。
「こっち」と言って歩き出す彼女に置いて行かれぬように、慌てて隣に並ぶ。
彼女はまるで何年も前から、今も住んでいるような足取りで歩いていた。主婦らしい人や配送会社の車とすれ違う以外、ひと気のない住宅街を迷いなく歩いて行くと、築年数の古そうな集合団地が見えて来た。入り口には柵があり、コンクリートの蛇行した道が作られ、両脇には裸の木々が佇んでいた。
「ここ。小学校の四年生くらいまで住んでたの」
彼女はそう説明するだけに留めて、歩き続ける。彼女のヒールが冷たい空気の中で、こつんこつんと響いていた。それ程高くないヒールには似合わない冷たい音が、鼓膜に突き刺さる。俺も本庄先輩も、悴む手をコートのポケットの中に突っ込んで分かれ道などない道を、進んでいく。
見えて来たクリーム色の五階建て集合住宅マンションは年季が入り、灰色にくすんでいた。光を当ててもその汚れは、輝きもせず、老築の静寂を湛えてそこに無言で居るだけだった。マンションの側面には黒いペンキで番号が振り分けられており、右から五棟が等間隔に乱れなく佇んでいる。棟の間には簡素な駐輪場があり、そこは大人から子供まで幅広い自転車が、隙間なく押し込められていた。
彼女は二と三のコンクリートの道へと、迷いなく進んでいく。そこに何があるのだろう、白い息がほんのりと視界を湿らせ、俺は彼女に続いた。
歩いて行くと、マンションの棟を通り過ぎた先に、木々に囲まれた小さな公園があった。滑り台とブランコだけが用意された、簡易的な公園ではあるが、きちんと柵で仕切られており、団地を囲むフェンスが裸の木々の奥に見える。
「あそこ、良く遊んでたなあ」
そう嬉しそうに微かに声を弾ませると、彼女は駆け寄るようにその公園へと向かった。俺はそんな背中を見つめながら、彼女の後に続いて公園へと入る。
本庄先輩は早速ブランコに腰を下ろして、漕ぎ始めた。足を伸ばして折り曲げ、振れ幅が大きくなる程、彼女の長い髪がさらさらと冷たい空気の中を踊る。俺はマフラーを口元まで引き上げ、ブランコの低い柵に腰を下ろした。
一頻りブランコを堪能すると、ゆっくりと速度を落としていく。
「満足ですか?」
俺が聞くと、本庄先輩は頷いて笑った。
「ここに、ずぅっと居たの。お母さんが男の人を連れ込んでいる間」
昨日のテレビ見た? なんて言う声音で、本庄先輩が呟いた。その表情は温かく優しい思いでも語り出すような穏やかさを宿していて、俺はその地面に注がれる双眸を見つめた。彼女のブーツのつま先が、地面の砂をじゃりっと詰る。
「昼間とか夜中とか関係なくて……。外にいるのも部屋の中に居るのも嫌で、ずっとあの辺に隠れてたの」
そう言って指差したのはフェンス手前の草むらだった。俺は今もそこに小学生の女の子が息を殺して隠れてるんじゃないかと感じて、じっと見つめた。けれど、偶に拭く風に、葉音がさざめく程度、勿論そこには誰も居ない。
落ち葉と暗い陰影が落ちているだけだった。
「今のお義父さんと再婚するまで、そんな暮らしだったの」
「良い思い出には聞こえませんけど」
俺は膝に肘を当て、前屈みになりながら彼女に視線を戻した。本庄先輩はそうだよね、と頷いて沈黙した。
「ここで何したかったんですか?」
俺はずっと聞きそびれていた事を、ようやく口にする事ができた。本庄先輩は、ブランコから立ち上がると、俺の前に立ち、ポケットからあの写真を取り出した。
「お墓がないから、一緒に埋めて欲しいの」
俺は二つ折りの写真を見下ろしてから、ゆっくりと視線を持ち上げて、彼女を見上げた。遊園地に一人置き去りにされ、誰もが笑顔を咲かせる中、泣き出す寸前の子供のような顔をした女の子がそこにいた。
笑顔を作って、身体の中から溢れ出てしまいそうな涙を、懸命に堪えている笑顔は、俺の心を何故か深く傷つけた。
俺は立ち上がると、一緒に彼女が隠れていたという草むらに入り、地面に転がっていた石で土を削った。湿った腐葉土を含む土は思ったりも柔らかく、容易く削れていく。彼女も小さな小石で土を削り、指先を汚して、それでもなお、堀り進めた。
掘り起こされないように、手首が埋まる程まで掘り返すと、本庄先輩はポケットの中からそっと写真を取り出した。
じっとそれを見つめる一瞬、彼女は生きていた白い点にキスをした。それを愛おしむような眼差しが、土の中に横たわるそれに注がれる。本庄先輩はゆっくりと写真の上に、土を重ねた。ゆっくりと埋まり、沈み、消えて行くそれを、俺達は見送り、静かに埋葬した。
土を固めるように、赤ちゃんをあやすように、本庄先輩は、微かに盛り上がる土を撫でた。俺は彼女の少し汚れた爪の先を見つめながら、同じように、土の上をできるだけ優しく撫でた。
仄暗い土と青い影が重なって、彼女の白い肌が生気を失っているように見えた。
頼りなく、それでも全てを抱え込んでいるその細い指先が、不意に堪らなく愛おしく感じる。まるでこつん、と小石で突いた土から、突然湧き水が滲み、溢れ出すような感情だった。
あんなに曖昧だった、本庄先輩の手を握るそれに、意味が見える気がして、俺は慌てて目を伏せる。すると、土の上にぽと、ぽたりと雨が降り出す。一粒、二粒、三粒四粒……落ちては滲み消えて行く。
俺はゆっくりと顔を上げる。
微かに冬の冷たい風が頬を切るように撫でて、他人のように過ぎて行った。
本庄先輩の白い頬には、幾筋もの涙が流れていた。あの綺麗な顔を歪め、唇を噛みながら引き結び、声を殺していた。
俺は声もなく、泣いている彼女の音のない涙に胸も喉も、締め付けられるような痛みに襲われた。
どうして、なんで。
ただそんな単純な言葉だけが胸の中で、答えを求めて荒れ狂う。
俺は咄嗟に彼女の手首を掴み、乱暴に抱き寄せた。
崩れるようにして俺の胸の中に倒れ込んできた身体は細く、軽過ぎた。まるで、このままばらばらに崩れて、土の中に還ってしまいそうだった。
俺は彼女の細い身体を掻き抱いて、ただ母親に縋る子供のように、本庄先輩がどこにもいかないように、強い力で抱き締めた。
本庄先輩の喉で潰れていた声が、絡まる糸を一つ一つ丁寧に解く様に鼓膜に聞こえてくる。その声は俺の心を抉り、初めて目に見えない傷の痛みを俺に感じさせた。幼い頃、初めて転んだ時よりも痛い。初めて両親に置いて行かれた事よりも、怒りのやり場がない。
彼女の細い手が、辿るように俺の背中に回ってくると、そのたどたどしさを、崩れてしまう彼女の身体を、俺はただ受け止めたくて、彼女の全てに応えたくて抱き締めた。
「わたし……」
呼吸の狭間で、喘ぐ胸で、彼女が呟く。
俺はうん、と頷き応えて抱き締める腕に力を込めた。薄暮のような木の下で、彼女の黒い髪に、顔を埋める。
「あの白い一点をね、愛してたの」
ほんとうに、あいしていたの。
本当なの。
私が一方的に、わたしだけが、あいしてた。
俺はその言葉に何度も頷いた。
いつの間にか胸から喉元までせり上がっていた痛みが、視界を滲ませた。
「知ってます。俺は、知ってます」
「私、会ってないけど、会う事はできなかったけど、本当に、愛してるって思ったの」
「はい、俺は……知ってますから」
俺達は暫くその場で、冬の片隅で、どうしようもなく泣いていた。
初めて地上に舞い降りた雪のような、白い一点を想いながら。




