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雲と空の境目が見当たらない。風は強いのに、空の雲は動いている気配すらなく、静かなものだった。
俺はダイニングテーブルで、賞味期限が明日のヨーグルトを、やっつけ仕事のように口に運び、どうやって俺の身体のエネルギーになるのかも理解しないまま、飲み下していく。
今日、本庄先輩は学校を休んで、子供を堕しに行くと言っていた。未成年で中絶するというのは何か親の同意書が必要なのではないか、色々と尋ねては失礼かと思い、
「俺も行きましょうか?」
と聞いたら、案の定、
「一人で大丈夫」
と、言われてしまった。
けれど、
「もしかしたら連絡するかも」
と、彼女は恐る恐る、俺の機嫌を伺うかのように呟いた。俺はそれに大きく頷いて、いつでもいい、必ず返事をすると約束した。
そして今は午前十時三十二分。
本庄先輩から連絡があったらすぐに返事がしたくて、俺は結局学校をさぼってしまった。
風邪を引いたと妹に嘘を吐いて笑顔で見送り、両親には何も告げずに部屋に引きこもって身を隠していた。
食べ終えたカップとプラスチックのスプーンを纏めて捨てると、俺はテーブルの上に伏せて置いてあるスマホを手に取った。
誰からも連絡は来ていない。
微かにため息が零れると、俺はそれをポケットにねじ込みリビングを後にした。短い廊下を渡り、玄関横にある自室に入る時、カチャンと音がして心臓がどくりと動いた。思わず顔を上げて玄関を見ると、扉が開かれ、そこには何故か父親が立っていた。
思いがけない登場に、一瞬ぽかんとしていると、彼は一重の眼差しで俺を観察するように、足の先から頭のてっぺんまでを満遍なく視線を這わせてくる。居心地の悪い視線だが、今はそれよりも、何故父親がここにいるのかが、分からず、彼の存在の理由を探していた。
「熱はないのか?」
驚いているところにまた、予想外の言葉を投げかけられ、呆けるしかなく、ただ言葉も出ずに、見つめていると、
「飯は何か食えたか? 色々買って来てみたんだが」
そう言いながら革靴を脱いで、背広のまま俺の肩をすり抜けリビングに向かう。俺は父親の背中を穴が開くほど見つめた。
何のつもりだ。おままごとごっこする為に帰ってきたのか。
真意が読めずに心の中で悪態吐くと、それを聞いていたぞ、というようなタイミングで振り返るので、俺は慌てて視線を逸らした。
「お前が起きてこないから、果歩に聞いたんだ。お前が風邪だと」
だから?
今まで風邪だからって仕事中に帰ってくる事なんて一度もなかったくせに、今更恩着せがましい。
かさりとコンビニのビニール袋が鳴いて、俺はそれに溜息を吐いた。溜息と一緒に、腹の底で煮えてくる苛立ちを吐き出していた。そうでもしないと、今にでも何かが爆発しそうだった。
「仕事、休み?」
「いや、そうではないが」
「だったら俺に構ってないで行けよ。今よりガキの頃だって一人やって来たんだ。心配なんて今更だろ」
俺の正論が、父親にも正論に聞こえたのだろう、開きかけた口が閉じると、持ち上げたコンビニの袋もだらりと父親の身体の横に垂れ下がる。萎れて首を下げた花のように。
「いってらっしゃい」
俺はそう言い残すと自室に入り鍵を閉めた。
ドアに背中を押し当てて、何とかその場をやり過ごせた事に、安堵のため息が零れる。背中にまだ感じる父親の気配に、心の表面にある瘡蓋が引き攣れるような痛みを発していた。何故罪悪感を感じているのか、自分自身が分からないし、何よりもそんな事を感じてしまっている自分自身に苛立った。
俺は大股でベッドへ向かい倒れ込むと、なるべく身体が小さくなるように関節を織り込み、蛹のように蹲る。
「いつき」
その声に、心臓がびくりと大きく痙攣した。名前を呼ばれる事が久しぶりだったのもあり、俺は戸惑い返事すらもできずに、ただ息を押し殺した。
「お前たちの事を大事に思ってる。伝えて来なくて、見て見ぬふりしてすまなかった」
その言葉に、全ての音が遠退いて行った。
――は?
手風琴のような高音がきーん、と鼓膜の奥で響き、俺は真っ白な真空の彼方へと放り出されたように、何も考えられなくなる。
なんだって?
俺の思考回路と父親の言葉が折り合わない、繋がり合わない、火花を散らしてぶつかり合う導線のように、目の奥がちかちかする。
俺は立ち上がると部屋のドアを開けた。
父親は突然開いた扉の前、俺を驚いたように見下ろし、見つめてくる。
何言ってんだ、どの面下げて。
「ふざけんじゃねえよ!」
喉から力の限りに吐き出した声が、何もない廊下に木霊する。ずっと喉に引っ掛かっていた「ふざけんじゃねえよ」が、爆弾のように、喉で、声で、俺の中で破裂した。
「お前の言葉を信じれる絆なんか、あるはずねえだろ! 頭おかしいんじゃねえの、お前は俺達に何をしたんだよ!」
金、金、かねかねかね。全ては金が解決してきた。それを今更目に見えないものがあると言うなんて、傲慢過ぎる。
俺は肩で呼吸しながら、初めて叫んだことで滲む、生理的な涙を親指で拭い払った。俺は父親のどういう表情をしたらいいの変わらないという、困惑した顔を睨みつけ、部屋のドアを叩き締めた。
沈黙が重くのしかかり、暫くすると、そこにあった父親の気配は、微かな足音と一緒に遠退いて行った。俺はその場に座り込むと、真っ白になる頭の中で、何かを考えなくてはと焦っていた。
気が紛れる事ならば、何でもいい。
けれど、そう思えば思う程、先程の父親の言葉が頭の中をぐるぐると巡り離れない。壁に落書きされた油性ペンの跡を落とすみたいに、擦っても何しても消えてくれない。
俺は何を思い、何を考えればいいのだろう。今まで当たり前だったものが、実は違います、本当は……そんな風に語られても、どうやって受け入れればいいのだ。
そんな時、ポケットに入っているスマホが震えた。俺はそれを取り出すと、画面に表示された名前と言葉を見て、慌てて立ち上がり、机の上に転がる財布を片手に部屋を飛び出した。
玄関を飛び出す際、名前を呼ばれた気がしたけれど、そんな事はどうでも良かった。
俺はマンションの階段を駆け下り、いつも本庄先輩と寄るカフェへと向かった。




