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ep7.


 あの日から本庄先輩は、眼に見えてやつれ始めた。

 何があったのかと聞いたけれど、心配しないでの一点張りで話は前に進まず、青白い肌は萎んだ花のように生気がなく、微笑んでいるのに表情は不安定に揺らいでいた。

 しかし、笑顔の少なくなった彼女を待つ放課後は未だに続いている。そして俺はそれでも繰り返される情事を、まるで拷問のように眺めていた。

 そしてそれを見る事に耐え切れず、一度だけ彼女と大島のいる教室の前まで駆け付けた事があった。ぐったりしている彼女を組み敷いている姿は強姦にしか見えなかったからだ。

 けれど、俺はその扉を開ける事が出来なかった。ドアノブに手を掛けた時、微かに彼女の嬌声を聴いたからだ。

 それは拒むものではなかった。

色に濡れ、情に濡れ、悲しみに満ちたその声を聴いた時、俺は「来ないで」と言われている気がした。私は好きでしていると、虚勢を張る彼女の内側を無暗に暴く程、俺は無責任になれなかった。

 不意に手の中に温めていたスマホが震えた。

「先にいつものカフェに居てください」

 俺はいつもと違う内容に、

「何かありましたか?」

 と返信したけれど、

「大丈夫。すぐに行くね」

 と短く返ってくるだけだった。

 俺は溜息を吐くと、これ以上深く追いかけても仕方ないだろうと諦め、机に置いてある鞄を肩に掛け直し、教室を後にした。

 一年で一番寒いと言われるだけあり、コートを着ていても、身震いが起こる程身体は冷えていた。俺は足早に廊下を渡り、階段を駆け下りる。静まり返った旧校舎には、耳が痛くなるほどの青い静寂が横たわり、人の気配もなく、ただ孤独だけが佇んでいた。

 俺は学校を出ると、足早にいつものカフェへと向かう。一刻も早く温かい場所に避難したかったし、だらだらと学校に居れば、彼女を待ち伏せ、なんて事をしてしまいそうだったからだ。

 本当はあのメッセージを追撃したかった。けれど、それをしたからと言って、きっと何が起こる訳でもないし、何より、今まで保ってきた彼女と俺の境界線が、滲むような気がしたのだ。

 速足で歩いたせいで少し上がった息のままカフェに入ると、俺は二つ並び席の空いている場所に、自分の鞄とコートを置いた。

 ずっとポケットに入れていたスマホを取り出すと、丁度メッセージを受信したところで、

「あと五分ほどで着きます」

 という言葉が浮かんでいた。

 俺は空いているレジで、二人分のコーヒーを注文して席へと戻り、一つは自分の前に、もう一つは彼女の席として確保した席の前に置く。

 店内は高校生もいれば、大学生もいて、皆自分たちの話や、目の前のテキストに夢中で、周りの事等気にしてはいない。俺だけが、ただ辺りを見渡したりと、落ち着かないでした。

 本庄先輩は丁度五分後、時間通りに姿を現した。お互いの姿を見つけて、小さく手を振ると、彼女はかけ寄って来て、すぐに気が付いたテーブルのコーヒーと俺を見比べる。

「偶には逆も良いんじゃないですか。俺だって、こうやって話すの、嫌いじゃないんです」

 そう言うと、彼女は少しだけ笑って、俺の隣に腰を下ろし、

「じゃあいただきます」

 と、会釈をしてきたので、俺もそれに習ってどうぞ、と会釈をした。俺と彼女の間にあった薄い氷の壁がすっと溶けて消えて行くように、俺達は落ちた雫が起こす漣のようなささやかさで笑い合った。

「もうそろそろ期末の準備しなきゃね。あ、そうだ、果歩ちゃんの勉強もちゃんと見たいな」

 本庄先輩の言葉に、俺は「あれ本気だったんですか?」と、思わず聞き返すと、彼女は少し憤慨しながら、

「当たり前じゃない。私は有言実行派なんだから」

 と、少し得意気に笑うので、俺はそんな彼女を見て、少しほっとしながら、

「じゃあ、頼みます」

 と答えた。

 二人同時に呼吸する事で、一瞬の沈黙が下りると、俺達は黙ったまま、それぞれ店内を眺めた。不快ではないけれど、それでも、どこか一枚薄いベールが、お互いの間に降りてきて、微かな疎外感のようなものが漂う。

 さっきは何があったんですか? その言葉が喉元でずっと突っかかっている。今すぐにでも吐き出せるはずなのに、いざ言おうと思うと、一歩踏み出した先の拒絶が頭を過って、踏み出せない。俺は何度も浅く呼吸をすると、その言葉を何度も舌先でなぞった。

 よし、そう意気込んで彼女の方へ振り返ると、

「これ、見て欲しいの」

 彼女が俺の言葉よりも半歩早く言葉を紡いでいた。俺は声に出しそびれたやり場のない言葉を、何とか胃に落とすと、鞄の中を漁る彼女を見守った。彼女は銀行名の掛かれた黄色い封筒を出し、ゆっくりとした手つきで封を開くと、その中から十枚以上は入っているだろう万札を見せて来た。

「え、何の金ですか?」

 俺は何かの冗談を見た後みたいに口元を引きつり上げて、彼女を見た。本庄先輩はすぐに封筒の中にお金を仕舞うと、薄い唇を軽く噛んだ。硝子玉をはめ込んだような、無感情な瞳が、微かに揺らいで、俺は彼女が泣いてしまうんじゃないだろうかと、直感的に感じる。

 俺はまるで条件反射かのように、彼女の封筒を握る手を握った。一瞬見開いた瞳が、重なり合った手に注がれると、ゆっくりとゆっくりと、時間をかけて歪んでいく。こんな時まで、本庄先輩の横顔は綺麗で、俺は静かに波に浚われていく砂の城のような、彼女の横顔を見守った。

 誰かが馬鹿みたいに笑って、名前も知らないクラシックが終わらない回転木馬のように流れ続ける。

「何があったんですか……!」

 その金が何なのか、俺は目を逸らしている。心の底では分かってるはずなのに。けれど、それが何なのか、わかってしまったら、俺は本当に。

「赤ちゃん、堕ろすの」

 彼女の言葉に、心臓の裏側にある何かが弾け崩れ消えて行った。



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