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今は使われていない旧校舎は、学校の倉庫のような状態で、年中埃が舞っていて、誰も寄り付かない。
ここは俺にとって、学校内でのただ一つの居場所でもあった。特に四階の一番階段から離れた角にある旧化学準備室は、定番でもある学校のホラースポットであり、薬品の匂いが染み付いて、その独特の香りが特に人を寄せ付けない。
しかも丁度鍵が壊れてそのままになっており、侵入するにも苦労がないのがまた良い。
俺にとっては好条件のみが並べられた楽園だ。
そんな旧校舎に通うようになったのは、高校に入学してから間もない五月頃だった。友達作りも得意ではなく、ただ俯いて本を読んでいるだけにも退屈して、学校内をうろうろと徘徊したのが最初だった。
友人を作らないのはクラスのせいではない。俺の意欲の問題だ。友人なんて必要ない、なんてとんがった思いはない。ただ何となく、作ろうと思わなかっただけだ。実際俺はいじめられているわけでもない。話し掛けて嫌な顔をされた事も一度もない。
ただ、笑って昨日のテレビや噂話をする相手を作りたいと、思わなかっただけの事である。もしそれが尖がっているというなら、俺は青春尖がり過ぎた男子高校生なのだろうけれど。
孤立も浮きもしていないが、居ようが居まいが、どうでもいいのだ。クラスにとっても、自分自身にとっても。
そんな理由で通い始めた旧化学準備室は、学校での唯一の居場所となった。声で溢れる人ごみの中より、ずっと落ち着く。
俺は壊れたまま鍵の掛からないドアを開いて、部屋に忍び入る。今まで誰かに遭遇した事はないけれど、毎回一応は気にしている。この学校の中に、誰も居ない場所を求めている人間は、きっと俺だけではないだろうし、思春期は尖がりやすいものだ。譲れる時は譲って、そっと退散したい。
耳を欹て、物音を確認してから身体を細い隙間から滑り込ませて静かに締める。息を止めてもう一度中の気配を確認した。
名前のラベルが剥がれ掛けた薬品棚、裸のままの人体模型。顕微鏡に、埃を被った試験管やフラスコが山積みの籠。黄ばんだカーテン。
全てがいつも通り正しく、埃と年季を纏って沈殿している。
俺はゆっくりと息を吐いた。
ようやく安心して気を緩めると、ブレザーのポケットに入れていた文庫本を取り出す。フランツ・カフカの「変身」だ。
妹から借りる際に「お兄ちゃん、メンヘラっぽくなってきたね」と言われたので、この本のどこにそれっぽさがあるのかを知りたいが為だけに読んでいる。
今のところ、妹の真意はまだ理解できていない。
俺は栞代わりに挟んでいる昨日のレシートを引き抜いて、本を開いた。
行く場所を失って投げ込まれたように、窓際にある一脚だけの椅子と、放置された机。俺は椅子に腰を下ろすと、三百四十二円のレシートを机に置いた。
昼休みは四十五分。後四十分はここに居られる。そう思うと心が幾分和らいだ。
すると、
「貴方、名前なんて言うの?」
何の前触れもなく背後から声が聞こえた。
まるで落雷がすぐそばに落ちたような衝撃に、俺は椅子から滑り落ちそうになるのを堪えて、飛び退き振り返った。反動で手放した文庫本が床に落ちて、小さな悲鳴を上げた。
「驚かせて、ごめんなさい。どうしても貴方と話したい事があるの」
目の前に現れたのは女だった。彼女は俺の手元から落ちた本をゆっくりと持ち上げて、指先で埃を払うと、それを椅子の上に置いた。
すらりとした長身は、未発達の俺の身長とさほど変わりはせず、けれど細く長い足に、くびれがあるだろうウエスト、なだらかな胸の曲線には、はっきりとした女らしさがあった。
「覚えてる? 三日前の事」
大きな瞳が俺を見つめる。化粧っ気のなさそうな瞳を縁取るまつ毛は長く濃い。俺は見れば見る程彼女が綺麗な女の子だと自覚した。
そしてそれと同時に、三日前という単語に、彼女が誰なのかも、はっきりと確信していく。落ち着きを取り戻そうとしていた心臓が、再びどくどくと脈打ち始める。
「窓に居た……」
そう呟くと、彼女は一度だけ小さく頷いた。
肩より少し長いくらいの髪が、さらりと揺れると、俺が慌てた事で舞い上がった埃が、彼女の髪にまとわりついた。
「あれ、私だったの。見てたよね」
確認されると、素直に「はい」と言うのも気が引けてまごついてしまう。彼女はそんな俺をどう思ったのか「いいの。見てくれても」と言った。
「え? 良いって何が?」
そういう趣味だと打ち明けられたのか、それとも別の意図があるのか分からず、俺は思わず聞き返してしまう。
「誰にも言わないでくれれば」
ああ、交換条件と言うやつか。
見せてやる代わりに言うなという事か。
俺は何故か、自分のプライドが傷つけられたような気がして、
「別に誰にも言わない。でもバレたくないって言うなら色々考えた方が良いんじゃないですか?」
と、初対面に放つ声にしては、温度のない冷たい声音で言い放った。事故で見た事を、覗いて見たという風に言われた気がして、それは我慢ならなかった。
「言葉の使い方を間違っていて、不快にさせたならごめんなさい」
彼女が随分と察しの良い性分なのか、それとも俺があからさまだったのか、頭を深く下げる彼女を前にして、俺はそれ以上責める気持ちもなければ、逆に言い過ぎたかもしれないなんて思ってしまう。
「でも、できれば、あのことは言わないで」
「だから言わないって」
「そして見ていて欲しいの」
「は?」
やはりそう言う趣味なのだろうか。
真剣に見つめてくる双眸に嘘の色はなく、冗談にしては沈黙も重く、こちらが疑いを掛ける事が間違っているように思えてくる。しかし、男女の絡みを覗いてくれと、初対面の相手に普通言うであろうか。
「その、あなたがどういう趣味か知りませんけど、他にもそういうのが好きな人いると思うので、そちらにお願いして下さい」
そう断ると、彼女は視線をさ迷わせてから、もう一度確かめるように俺を見つめ、
「……もしかして、私の事痴女だと思ってます?」
と、問いかけて来た。
痴女以外の何なんだよ、覗いてくれって。
思ず声にせずに突っ込んでしまうと、彼女は心外だと言わんばかりに眉を寄せたが、不服に思われる筋合いはない気がする。
「そう言う趣味でもないなら、どうして覗いて欲しいなんて言うんですか?」
半ば苛立ちながらそう真っ直ぐに疑問を突きつけると、彼女はやっと何かに気付いたかのように目を少しだけ丸くさせる。しかしそれも一瞬のことだった。彼女はすぐに目を細めて視線を落とすと、膝よりも少しだけ上に巻き上げられたスカートのプリーツを指先で弄った。答えをあぐねているその仕草に、根気よく待っていると、
「醜いって思って欲しいの。誰かに」
彼女は、か細く呟いた。
彼女の右側に、どこから入り込んできたのか、小さな雪虫が、ふわりと舞い降り、頼りない小さな羽根で、空気の中を漂う。定まらない浮遊に視線を奪われながら、俺は彼女の声に耳を奪われた。
「貴方と目が合ったあの時、ああ、これならって思ったの」
彼女の痛切な思いの中で揺れているだろう、声の波間を揺蕩うように、雪虫が俺と彼女の間を漂う。俺は視線を落として、彼女の指先を見た。スカートを掴む指先の先に、白い真昼の三日月が浮かんでいた。
「雪虫……」
気付いた彼女が呟くと、指先が薄紅色に戻る。
青い冬の沈黙が、静かに俺と彼女の間に横たると、俺達はお互いに静かに息を吐いた。
俺には彼女の考えている事が分からないし、一方的に巻き込まれているような気がしないでもない。彼女の言葉の一つ一つは、何一つとして俺の心にも響かない。彼女が俺との間に何を勝手に見つけたのかも、検討が付かない。
けれど、
「いいよ。気が向いた時でいいなら」
俺は何故か頷いていた。
彼女は俺の言葉に大きく頷くと、初めて笑顔を見せてくれた。まるで、何か人助けをしたような気になる、笑顔だった。