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二月に入ると、一層寒さが深く体の芯まで沁み込んでくるようになった。昼間でも曇りの日はまるで、夜と地続きのようにどんよりと暗く世界を包み込んでいた。
けれど、先輩と帰りに過ごすカフェでの時間は相変わらず一定の温もりを宿し、真冬に見る暖炉のような温かさをもって、俺達を迎えてくれる。
あの日以降、何か変わった事があったかと言うと、何もない。
俺は相変わらずクラスの隅っこにいるし、家族の心はばらばらだし、本庄先輩と大島のセックスは続いている。あの時微かに胸の内側に開きかけた何かは、生まれようとする前に枯れてしまった。
それは惜しいような、元より必要がないような。何かを感じ取る前に消えてしまったものに、俺は寂しさ以外の何かを感じる事はできなかった。
「私ね」
カウンターの並び席で、窓の外を眺めながら、本庄先輩が不意に呟いた。既に夕方と言えども空は真っ暗になり、街頭が等間隔に温かい明かりを灯し始めていた。
「母親になりたくなくて」
彼女の横顔には、これからいう事は冗談だからね、と言いたげな苦笑いが浮かんでいた。俺はそれを見ない振りして、コーヒーに口を付けた。舌先に熱い液体が触れ、香りだけが口内に充満する。
「前に少し話したと思うけど、私のお母さん男なしじゃ生きられない人でね。私も散々振り回されたの、今もだけど」
俺は彼女が以前に話していた事を思い出した。確か父親がおらず、母親は彼女の言うように、男に依存してしまうと言っていた。
俺は彼女が何を言いたいのか、先を促すように頷くと、本庄先輩の唇に集中した。店内に流れるクラシックと、人の騒めきが遠退いていく。
彼女のカップを包む指先が、戸惑う様に紙のスリーブを擦る音が聞こえた。
「……最近、本当は抜け出せるんじゃないかって思ってたの。大島と別れられるかもしれないって思ったの」
意外な言葉が零れて、思わず彼女の横顔を見る。けれど本庄先輩は、一度首を横に振ると、
「でもなんでだろう、だめなんだよね」
と呟いた。
「大島が好きだってことですか?」
俺がそう聞くと、彼女は違うと首を振った。
「私も、お母さんと一緒なんだなあって、すごく実感しちゃったの」
そう言った彼女の笑顔は、孤独だった。
本庄先輩は眼に涙を浮かべる訳でもなく、悔しさを滲ませる事も、ましてや自分や誰かに怒りをぶつける事も、きっとそのつもりもないままに、ほっそりと微笑んでいた。先輩が初めて雪虫を見つけた時の横顔が、ふと脳裏に思い浮かび、群青色と灰色に沈む校舎に重なり溶けて行く。
彼女はあの時よりも辟易している。
彼女の眼差しの中で、街灯の灯りがくるくると回っては、花火のように跡形もなく闇に飲まれて消えて行くのを見つけて、俺はコーヒーに視線を落とした。
今この瞬間に、一緒に逃げようと、映画みたいな事が言えたのならどれほど楽だろうか。不安や恐怖をバネに、羽ばたける人間だったら、俺は彼女の手を握って、大島を殴りつけて怒鳴り飛ばして、現実から逃げ出していた。逃げる事で戦っていたかもしれない。
俺の指先が、無意識に震えて、力なくテーブルの上に横たわった。まるで、死ぬ最後の痙攣のような、雪虫がする、微かな呼吸のような反応だった。
街頭の下を、恋人同士が、友達同士が、親子が身を寄せ合って流れて行く。それなのに、俺と彼女の距離はあの校舎で出会った時から何も変わない気がした。
「ねえ、私……」
彼女の声に顔を上げると、本庄先輩はしっかりと俺を見つめていた。その互いに薄く揺れる眼差しは、きっと弱々しいものだったに違いない。けれど、遠慮がちに交わしたそれは、透けるように、溶け込むように、心へと沈んでいく気がした。
俺は唇よりも饒舌に感情を吐露する彼女の双眸に、訳もなく涙が出そうになった。俺は思わず「本庄先輩」と言いかけると、それに被せる様にして、彼女は俺の言葉を遮った。
「私、あなたが居てくれて良かったって思う」
本庄先輩はそう呟くと、紙カップを握る俺の手を握った。初めて触れる彼女の体温に、心臓が怯える様に音を立てた。けれど、俺以上に怯えていたのは彼女だろう。
俺はゆっくりとその細くて白い指を絡めとり、握り締めた。テーブルの上にころりと転がるように、繋がった俺と彼女の手は、生まれたばかりの双子の胎児のようだった。