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水族館内は、意外と空いていた。
大きなビルの中腹に設置されている水族館は、小規模であるものの、新しい水族館であるという事もあり、展示しているイベント内容や設置方法には随所に工夫が細かく施されていた。暗く大きな通路の足元をほんのりと照らすライト、壁や天井には色鮮やかな花のプロジェクトマッピングが輝いている。俺達は暫くその迫力に圧倒されながら、無言で巨大な硝子の水槽を眺めて歩く。名前も知らない魚が悠然と尾びれを翻し、一番巨大な円柱型の水槽では、ライトに薄っすらと照らされた群青色の中を、小型の鮫が飛ぶように頭上を泳いでいた。
「きれい……」
誰に呟くわけでもない風に、彼女がぽつりと零した。俺はそれを隣で拾い聞きながら、あえて頷くに留めると、再び水槽へと視線を向けた。
何一つとして名前は分からない。けれど、それでいい気がしたし、名前を知りたいとも思えなかった。
「いいなあ」
「何がです?」
「ずっと水の中に潜ってるの。気持ち良さそう」
一定の温度と明るさに保たれた水槽の中、変化が起こりようのない世界を、先輩は、
「なんか、優しい世界じゃない?」
そう呟いた。
「優しいですか? 本当は海が良いのかも」
水を差すようではあったけれど、なんとなく言ってみたくて。先輩がどう返すか知りたくて、そう隣で水の中を覗き込む。視線を上げれば、人工ライトがゆらゆらと揺れる、白い水面が見えた。
「きっとここの子たちは海を知らないよ」
知らなければ、望まないもの。
そう呟いた先輩の少し持ち上がった口角の小さな影に、羨望と微かな残虐さが潜んでいた。
音もなく、尾びれを翻しながら、小さな青い魚が俺と先輩の目の前を横切っていく。
「先輩は知らない方がいいと思いますか?」
先輩は少し考えるように俯いてから、再び顔を上げると、
「ううん、知った方がいいような気がする」
そう迷いなく言い切った。言葉に清々しさが宿っているのは、どこか、自分を重ねているからだろうか。
俺はそんな余計なことを考えてから、
「そうですね、俺もそう思います」
と答えて、水槽の奥にある、岩場の影で身体を縮こませているウツボを見つめる。ぼんやりと開いたその口の奥の闇には、何も見えない。