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「私服で会うと、少しだけ緊張するよね」
彼女は硬い言葉を吐き出すように言いながら、人ごみの中から浮き立つように現れた。どこの水族館に行こうかと話した結果、あまり遠くない、都内の小さな水族館に決めた。
土曜日のクリスマス・イブという事もあり、改札口は人で溢れ(主に男女のカップルや、家族連れで)その中人を待つというのは、思った以上に照れるものだ――と思っているところに、本庄先輩は現れた。彼女は俺の服装を頭のてっぺんからつま先までを吟味するように眺めると、
「かっこいいよ」
と褒めてくれた。社交辞令らしい言葉に少し安心しながら、俺も「本庄先輩も可愛いです」と褒めてみると、彼女は意外にも少し驚いたように瞠目してから、解けるように笑った。冬のせいで微かに赤く火照る目元が、憎たらしい程に初心で、不覚にも胸に刺さる。
それはずるい、社交辞令だろ。
外見をよく見もせずに放ってしまった言葉を少しだけ後悔しながら、空気に冷やされ白くなった息を吐くと、俺達は人で賑わう改札口から水族館へと向かった。
悴む掌をジャケットのポケットの中で握ったり開いたりしながら、俺は「寒いですね」と呟いた。彼女は通りに流れるクリスマスソングを口遊みながら「そうだね」と頷いた。
「混んでますかね」
「たぶん。でも私ペンギン観るって決めて来たから、それを果たすまで、私も君も帰れないよ」
確固たる決意のもとに呟く声は、しっかりと芯があり、デートと言う言葉には似合わない。
「それ決定事項なんですか?」
「最重要任務みたいなやつ」
「マジっすか。ちょっとHP足りないかもしれないです」
そう言うと、彼女は少し得意気に俺を見上げて、小さな斜め掛けの茶色い鞄から、
「回復呪文持ってきた」
チョコレートのパッケージをこっそりと覗かせる。呪文なのに食べ物だなんて意外だ。
「じゃあ、その時は頼みます」
「安心してクリアしよ!」
「……何スか、この会話」
下らない会話に思わず笑ってしまうと、彼女もわかんない、と笑ってくれた。それから俺達の間にあった微かな緊張のような糸は弛み、やはり気の抜けるようないつも通りの、当たり障りのない会話が始まった。学校、勉強、今日の夕飯のメニュー。彼女のふわふわした柔らかい声音が、冷たい空気の中に浮かんでは消えていく。白い息の靄越しに、彼の赤い鼻先が滲んでいた。
彼女は今、幸せだろうか。
大島と居るよりは、断然マシ、位には思えているだろうか。
不意にそんな事が頭を過る。俺は、彼女の保護者でもないし先輩でもない。言ってしまえば無関係な後輩だ――いや、彼女の裸体と痴態を十分見ているので、無関係とは言い難いかもしれないが――それでもやはり、あの最初の出会いがなければ、俺と本庄先輩の間に通じるものなんて一つもなかった。
そう思うと。
俺は視線だけを右隣に居る彼女に注いだ。彼女は先日昼休みに、友達と話していた内容を面白おかしく反芻しながら喋っている。闇なんて一つもない、真っ白な純白のレースが良く似合う笑顔で。
この関係は不思議でしかない。
「それでね、その子のお母さんが言ったの」
半分も頭に入って来ない会話に、相槌を打ちながら、俺はそれでも考える事を止められない。この奇妙な関係は、一体どうやって、どんな結末を迎えるのだろう。
俺が彼女を好きになる?
彼女が俺を好きになる?
そこまで考えて、あり得ないと、自嘲した。
俺達の間に、それだけはないし、あってはならない、それこそ禁忌のような事だ。俺は彼女の隣を歩きながら白い息を吐いて、もう止めようと自分に言い聞かせた。考えるだけ無駄な事もある。特に俺と本庄先輩のような今にも切れそうな、蜘蛛の糸のような関係については、考え過ぎる事こそ危ないものだ。
受け入れ、受け流し、去って行く足音を聞くだけで振り返らない。そんな関係がふさわしいに決まっている。
「どうしたの?」
「何でもないです。それで?」
「うん、それでね」
彼女が俺の傍にいる間は、真冬でも身体の内側が温かくなる位の笑顔で居てくれれば、俺はそれでいい。