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第5話 そもそも何で南朝正統論?

 そうだった「徳川氏」と「吉良氏」は同じ清和源氏でも先祖が大きく違ったのだ。


 徳川氏は「新田氏」の支流を自称していた。新田氏で一番有名なのは誰か? 新田義貞である。そう、楠木正成と並んで後醍醐天皇に最後まで忠誠を尽くして討死した「南朝の忠臣」なのである。


 俺は今まで、何で『大日本史』が「武家政権の維持」には逆効果の「南朝正統論」を唱えたのか疑問だった。後醍醐天皇は天皇親政を目指した政治家なのである。そちらを正統とし、君主たる天皇を神聖視するのは、どう考えても「武家政権の維持」には逆効果である。それなのに武家政権の棟梁(とうりょう)たる徳川将軍家の重要な一門であった水戸光圀が編纂させた『大日本史』が「南朝正統論」だったのか?


 実に簡単なことだった。徳川氏が新田氏の子孫と自称していたからだ。「南朝の忠臣」の一族なんだから「南朝正統論」を唱えるしかない。


 そして、俺が変えてしまった歴史において『大日本史』が「北朝正統論」になったのも当然だろう。北朝の天皇を擁立したのは誰か?


 足利尊氏である。だからこそ『大日本史』の「南朝正統論」からの尊皇思想が強かった明治から敗戦前の昭和において、足利尊氏は「逆賊」「大悪人」とされた。日本三大悪人のひとりに数えられていたのである。


 だが、俺が変えてしまった歴史における将軍家は「吉良氏」なのである。そう、今まで再三述べてきたように「吉良氏」は「足利氏の支流」なのだ。「御所(足利)が絶えれば吉良が継ぎ」と言われるほど近い分家なのである。


 だから、「吉良」将軍家一門である水戸藩主「吉良光圀」が編纂を命じた『大日本史』においては足利尊氏が作った北朝を正統とするしかないのだ。


 明治以降「水戸黄門」がもてはやされたのは、実は「水戸学」の元となった『大日本史』の編纂を行わせたからだという説もある。だとしたら、北朝正統論の世界線においては、全然人気が出ずに「三田黄門」に取って代わられても不思議じゃない。


 何てこった、「吾輩」は単に「忠臣蔵」=「赤穂事件」を阻止したかっただけなのに、結果的に明治まで大きく変えちまったのだ。


「これ、たぶん大正以降も随分変わってるんだろうなあ。しかも、大正以降は否応なく日本も関わる『世界大戦』が起きるから、きっと世界史も変わっちゃってるぞ……」


 思わずつぶやいて、パソコンの前で途方に暮れる()()なのであった。

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― 新着の感想 ―
面白くなってきたところで更新途絶えてるのが残念... 是非ww2戦後まで見てみたいです。
[良い点] なんという言われてみれば感。なんで南朝?そもそもなんで尊王?という違和感がスッキリしました。楠木正成を持ち上げてた印象があったけど、楠木一族まとめて一巻に書いてるのに、新田義貞は一人で一巻…
[良い点] 完結お疲れ様です 面白かったし、趣旨もよく理解できました 大久保さんのムーブのやりそう感といい 西郷どんの「恩人との約束を破るな」とかの言いそう感といい 描写は少なくとも絶妙な塩梅で 色…
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