4.4浩樹2
永野に、「気になる子はいた」といった、その言葉に嘘は無い。
町工場の息子、浩樹という小僧がここまで生きてきて、いくらなんでも気になった子すらいなかったといったら、どんな変人だよということになる。
ただ、好きになっていたかといわれると、首を傾げたくなるのが本音だった。
好き、という感情がはっきりと自分の中で育つほど、相手に近づけたことがなかったし、自分から近付こうとしたこともない。近付きたいと強く願ったこともない。
願いたくなるほど強い感情に捉われてみたい、という憧れのような感情はある。恋に恋する、というやつだ。ただ、その程度が、多分僕は薄いのではないかと思う。人より、感情を表に出していくのが苦手なのかもしれない。
そういう自分をいちいち永野に説明するのが嫌だったから、あえて話を逸らした。
「あまり、人が自分をどう見ているかとか、考えないようにしているからかもしれない」
それは嘘じゃないけれど、恋愛の話というより、生き方の話だ。恋愛の話を、あまり永野とはしたくなかった。
自己分析なんか必要ない。
単純な話だ。
永野は、いい女過ぎる。
女として認識したくなかった。してしまえば、僕は口もきけなくなる。
そういうことに、永野は鈍感だった。平気でこっちとの距離感を縮めてくるのがやりきれない。
自意識過剰な自分を、見たり感じたりするのが嫌だった。その感情自体が自意識過剰の結果だという事実も、僕にはプレッシャーだった。永野が無造作に詰めてくる距離感は、そのまま僕にとってはプレッシャーだった。
仕事の場合はいい。仕事のパートナーとしては、自分には無い統率力や実行力を見ているのが小気味良く、それを支えられるのは楽しい。
一歩でも仕事を離れたら、永野のそばにはいたくなかった。視界の中に入れたくなかった。
マイナスな方向にどろどろしている自分が、嫌で仕方が無い。
こんなに情け無い人間だとは、自分でも思ってもいなかった。それに気付かされたおかげで、多分永野には想像も出来ないことだろうが、こっちはもう、ぼろぼろになりつつあった。
それを見せたくないから、僕は徹底的に先輩面を続けることにしていた。余裕を演じ続け、演じきり、やがて終わる生徒会改選を機に、永野から逃げ切ろう。そう決めていた。
ただでさえ、こちらは受験生なのだ。恋愛沙汰など、ご法度に決まっている。まして志望校は国立難関クラス。そもそも生徒会に関わっていること自体、進学校としての立場を重視している教師などからすれば、いい目では見られないことだった。
永野に片想いするなどというぜいたくが、僕に許されるわけもなかった。
だから、永野と二人きりで生徒会室で話し合ったその夜、久しぶりにあの記憶がそのまま夢に出てきたとき、僕はひどく混乱した。
着物姿の永野を見かけ、目を奪われた、あの日の記憶。
夕方の散歩中、お茶の稽古の帰りらしい永野が、桁外れに美しいたたずまいを見せながら、イングランド趣味の紅茶店の軒先で商品を眺めていた。
思わず奪われた視線の先で、永野は不意にこちらを見た。
一瞬絡んだ視線が、永野の方からついと外された、その瞬間に、僕は飛び起きた。
まるで悪夢のようだった。
起きた瞬間、僕は大きく肩で息をしていた。跳ね上げた布団がベッドからずり落ちかかっている。
しばらく、僕は完全には意識が戻らないままに呆然としていた。
やがて意識がはっきりしてくると、なぜそこまで自分が取り乱しているのかがわからず、僕は頭をかきむしり、ぶんぶんと振り、ベッドから出た。
11月も中旬になれば夜は寒い。暖房なんかとっくに落としているから、部屋の夜気は冷たい。にじんだ汗がやけにひんやりと感じられて、僕は着ていた長袖のTシャツを脱ぎ捨てた。
肌を刺すような冷たい夜気、体の内側から沸き上がってくる不快な熱、僕は体から湯気が出ているんじゃないかと想像したけれど、自分の手すらまともに見えない暗闇の中では、それも確認のしようもなかったし、する気にもならなかった。
しばらくの間そうして突っ立っていた僕は、異常に高ぶっていた神経が落ち着き、比例して体が芯まで冷えていく感覚に襲われると、ようやく動けるようになった。
脱ぎ捨てたものをいすの背にかけ、新しい物を出し、頭からかぶって着込む。着た木綿地の冷たさに震え、僕は慌ててベッドにもぐりこんだ。
すぐに眠れるはずもなく、僕は危険な一人想いに沈潜して行った。
夜の一人想いなんて、ろくな結果にはならないものだ。
詳しい経過は省く。思い返したくもないから。
しばらく悶々と、ベッドの中をてんてんとしながら色々と考えた。その結果、僕は認めざるを得なかったことがある。
僕は明らかに永野に惹かれていた。
多分、人生で初めて、恋と呼べるような感情に捉われている。
そしてその感情は、僕にとっては非常に厄介なものだった。不愉快ですらあった。
あの女を自分のものになんかできるはずがない。仮に出来たとして、維持できるはずがない。
自分があの女をどう満足させるというのか。女を楽しませた経験もなければ、そもそも人を楽しませるために何かできるわけでもない。してやれることといえばせいぜい家庭教師くらいか、などと思いつつ、永野がああ見えて成績上位の常連であることを思い出してしまえば、それすら無用のことであると気付く。
そこまでわかっていて、あの女への恋心を認めろというのか。認めた上でどうしろというのか。
玉砕したらいいのか? 永遠に腹の底に秘めたまま墓まで持っていくのか?
馬鹿馬鹿しい。諦めることすら、諦めようと考えることすら馬鹿馬鹿しい。
無かったことにするのが一番だと思った。
僕は生徒会執行部の一員として永野とかいう後輩と組んで仕事をしたが、それだけのこと。仕事が終わればそれで接触する理由も無くなる。
「先輩は大人ですね」
と誰かがいっていた。佐藤だったか、渋谷だったか。
何が大人だ、と僕は夜気に吐き捨てた。
大人ならもっとマシに自分の感情を処理できるはずだ。こんなに劣等感に襲われてのた打ち回ったりしないはずだ。
その永野をふるという、とてつもない大事業を成し遂げた男、佐藤晃彦は、さすがだった。
完全なる寝不足に陥って、めがねの上からでもわかるくまを作って登校してみると、生徒会改選の主要職にはすべて立候補者が決定していて、しかも公約や演説草稿まできっちり仕上がっていた。
永野にそんな芸当が出来るはずがない。話どおり、佐藤と渋谷を口説き落としたのだろうが、それにしても仕事が速い。事前に準備を進めていたに違いなく、決して楽ではないその作業から考えて、わざわざ立候補決定前からそれを準備していたということは、佐藤には近未来に永野に口説き落とされて執行部入りすることがわかりきっていたのだろう。
そして、愚痴をいったりすることもなく、佐藤はのんきな顔でやっているに違いない。あいつは、自分を過小評価したり卑下しすぎたりする性格のくせに、根本的には明るい。
別にやりたくはないけれど、やるからには全力でやる。そんな意気込みを、人には絶対押し付けず、でも仕事にはみんなを巻き込んで、きっちり自分がやりたいことが出来る環境を自分で作りながら仕事を進めていく。
ああいうところは、本当に大人だと思うし、バイトで色々経験しているのも無駄じゃないんだろうな、と感心もする。
高校生で2歳も年下だと、本当に年下に思えるものだ。ところが、僕は佐藤に、年下だという感覚で接したことは無い。知れば知るほど大した奴で、おとなしい渋谷がべたぼれだったり、大人な男を求めていた永野が惹かれたのもうなずける。
あいつは僕をしきりに大人扱いするが、絶対あいつの方が大人だと思う。
その佐藤が、これから演説草稿の仕上げと他のメンバーの練習開始に付き合うために、メンバーを呼び出して生徒会室に向かうというその途中、僕を教室に訪ねてきた。
「文化祭でお役ごめんになると思ってたんですけれどね」
佐藤は苦笑していた。
「先輩達が綾華さんを壇上ではめてくれたおかげで、とばっちりの生徒会入りですよ」
「いってただろう、お前みたいなのが生徒会に入るべきだって。苦労性な奴が必要なんだよ」
僕がいうと、佐藤は頭をかいていた。
「見事にはめられましたね、俺も。結局先輩の思い通りだ」
「みんなが思っていたことさ。お前がいなきゃ、生徒会は回らない。少なくとも文化祭のお前を見ていたら、お前に永野と渋谷の三人組がいない来期の生徒会なんか、想像がつかない」
「ま、当選すれば、ですけれど」
「落選する気か? 当選するよりよほど難しいぞ?」
「そこまで身を張ってネタをかます気はありませんよ」
「語り継がれる伝説にはなるだろうけどな」
「んな伝説残したってねえ」
対立候補など、永野にこいつが相手では、出てくるはずが無い。仮に学校側に反永野的な動きがあり、対立候補を擁立する流れになったとしても、肝心な生徒の側にそれに乗ってくるバカがいるとも思えない。
だから、選挙で落ちるのはきわめて難しい。それがわかっていての会話だ。
「もう色々と伝説は残している身だしな。そんな伝説は必要ないか」
「何ですか、伝説って」
「あるだろう。文化祭でクーデター起こした奴も初めてなら、あのクソ忙しい状況の中で永野と渋谷の行方不明事件を乗り越えて運営しきった事だって、立派な伝説だ」
伝説だ。少なくとも、あの状況に少しでも関わっていた奴なら、みんな佐藤晃彦という男に凄みを感じている。のほほんとした顔で時々毒を吐きつつ、あの永野を適当にあしらいながら仕事を猛スピードで処理していく。それも、自分が以前からやっていたならともかく、参加するも初めてな文化祭の中枢で。
「しかも渋谷との恋愛まできっちりやってのけているんだからな。大したもんだよ」
僕がからかい半分にそう締めくくると、そもそも褒められることに慣れていない佐藤は、困ったような顔をしている。
「恋愛は……あっちが積極的だから助かってるというか……いや、好きですよ? 俺だって好きだし、色々頑張ろうとは思うんですけれどね、恋愛ってやっぱ女のものなんだなあ、とか思ったり」
「そうなのか?」
思わず食いついてしまい、食いついてから「しまった」と思ったが、佐藤にはこっちの微妙な感情の動きを捉える余裕はなかったらしい。
「そうですよ」
と、ぼりぼりと後頭部をかきながら答える。
「男なんて恋愛の場面じゃ全然弱いっすよね。自分最高な奴ならともかく、おれなんて由紀の顔色うかがいながら生きてるようなものなんで」
うそこけ、と思ったが何もいわない。佐藤としてはそれが本音なのだろう。僕には渋谷が最大限佐藤のことを立てているようにしか見えないのだが。
「俺も大概自信無しなんで、由紀が俺のこと必要としてくれてるんだなあって思うと、それだけで力が出てくるっていうか、やる気が出てくるっていうか。生徒会の事だって、綾華さんがなんといおうと、由紀が期待してくれてなかったらやりゃしませんよ」
永野が聞いたら「あきちゃんいじめは楽しいなあ」などと凄惨な光景が繰り広げられかねないセリフだが、まあ、本心なんだろう。
「なんていうか……由紀が俺のことを高く買ってくれるなら、俺も捨てたもんじゃないのかなあ、なんて思ったりするんですよ。先輩とか綾華さんに褒められるのも嬉しいんですけどね、やっぱり好きな女の子に褒められたり評価されたりすると、頑張んなきゃなって思うし、なんか自分がすごく高められる気がするんですよね」
よくもまあ照れもせずにいえるな、と思うくらい、佐藤ははっきりといった。
「わかる気はするよ」
うんうんとうなずいてはみたものの、僕には、理解はできても、経験が無いだけに納得がいくものではなかった。そういうものなんだろうな、と想像がついただけだ。
ただ、うらやましいな、とは思った。
恋愛がどうこうじゃない。自分が高められる、とまで思えるような相手と一緒にいられる、そのことがうらやましい。
自分にそんな恋愛が出来る瞬間が来たりするのだろうか。
志望校合格より、よほど難題な気がした。