3.浩樹の事情
ちょっと長くなりすぎました。3回分くらいありますが、分けるのも面倒なのでそのまま載せます。
永野家のお嬢様といえば、浩樹にとってはまったく別世界の住人だった。
自分が真面目以外に取り立てて特徴がない人間だなどということは、高校生になって二年目を迎える今となっては冷厳すぎるほどの事実として理解できていたし、それ以外の自分になりたいとも思わなかった。
「でもすげえ美人だぜ」
小学校の頃からの腐れ縁、和馬はいう。
「へえ」
浩樹の口からはひどく愛想のない返事しか出てこない。
「興味ないか」
「ないな」
「あっさりしてるねえ」
昔から目立ちたがりで、それに見合うだけの行動力がある友人に、浩樹もうらやましさを感じないではなかったけれど、だからといって彼になれるわけでもない。
「まあ、社会人の彼氏がいるとかいうし、俺たちに目を向けるこたないだろうけどさ」
「へえ」
「お前ほんとに情熱が薄いね。女に興味がないのか?」
「永野家のお嬢様とやらに興味がないだけだ。心配しなくても女に興味くらいはある」
「ほんとかねえ」
そういう和馬にはしっかり彼女がいる。残念ながら浩樹には彼女がいたためしがないから、反論にさして説得力がないのは仕方がない。
「そうそう、今度、東の女子と合コン設定してんだけど、人数合わないんだよ。来ないか」
と、和馬がさして珍しくもない誘いをかけてきた。これが珍しくもないというあたりが和馬の真骨頂なのだけれど、それを受ける浩樹の答えも、いつもの調子だった。
「僕が出ても仕方ないだろう。場が白けるだけだ。やめとくよ」
「んなこといってるから彼女も出来ないんだぞ。ちっとは自覚しろよ」
「してるよ。してるけど、白けさせたら他の連中に迷惑だろう」
「そりゃそうだけどさ」
「それに金もないしな。貧乏人の子せがれに合コンは敷居が高すぎるよ」
浩樹の家は町工場を経営している。父も母も、高校生になった息子に高い小遣いを与えるくらいなら、働いて汗した報酬の意味を教える方に熱心な教育方針で、進学組の浩樹としては、安い小遣いに我慢しながら受験勉強に励んでいた方が気が楽だった。
両親が働く姿を蔑んだ事はないし、ああはなりたくない、と思ったこともない。ただ、浩樹には浩樹なりの夢がある。
「彼女は夢が叶ってからでも遅くはない、か」
「そういうわけじゃないけど、それはそれでいいとも思ってるよ」
「ほんと、変わってるな、お前」
「それといつまでもつるんでるお前も、結構変り者だと思うけどな」
「お互い様か」
和馬は笑っている。
あまりにも性格が違うからか、お互いの領分を侵す必要がないからか、和馬と浩樹は、これでかなり仲がいい。
お互いがいなければいないで別に構わないのだが、いたらいたで何となく隣にいたりする。そういう仲だ。
浩樹は別に女嫌いというほどのことはなく、彼女が欲しいと思わないでもない。ただ、和馬のように自分から積極的に行く気にはならない。
お高く止まっている気はないが、自分がもてないという自覚もあるし、女と一緒にいても何をしたらいいのか見当がつかない。めがね男子人気の風が瞬間的に吹く時期があり、そういう時にわずかに注目を浴びたことはあるが、浩樹自身の魅力に女子が注目してくれたことなど、おそらく有史以来無いに違いない。
そもそも自分に魅力があるとも思わないし、それに絶望できるほどの情熱もない。
その内、自分がどうかしてしまうほどの恋をすることもあるかもしれないし、無いかもしれない。無ければ無いで「淋しい奴だなあ」と自嘲するだけだし、あるならそれを楽しみに待っていればいい、という程度にしか思っていなかった。
醒めた高校生である。
4月最後の日曜日は、ゴールデンウィークにかかって休日真っ只中になった。部活に所属せず、バイトをしているわけでもない上に、彼女もいない浩樹としては、ただひたすらに退屈な連休になっていても良さそうなものだが、そうはいかなかった。
世にいう「貧乏暇なし」という箴言は、浩樹の家では何の慰めにもならない事実そのものである。
大手家電メーカーの下請工場からもらっていた仕事のうち、連休中に仕上げて納品しないと納期割れする製品があった。どうも、工場の発注担当者が見込みを間違えていたらしく、その数が当初発注数より大幅に増えてしまった。
もっとも、仕事があるだけましでもある。近所の町工場もすっかり数が減ってしまい、これからも減っていくだろう。他人事ではなく浩樹の家もいつ潰れてしまうか、首をすくめながら日を過ごしているというのが実情だ。
町工場経営の家だから、経営者一族がまずその犠牲になる。
浩樹の役割は製造ではない。職人じゃあるまいし、いくら工場育ちだからといって、機械を任されるはずもない。その他、仕事をするのに必要な面を整えていくのが仕事になる。具体的には、昼ご飯の準備だったり、水分補給の準備だったり、使いっ走りの域を少しも出ないものだ。
バイト代が出るわけでもないから、その程度のことをだらだらとやっている分には誰からも文句は出ないのだが、なにしろ浩樹は頭がいい。ただ成績がいいだけの頭の良さではなく、使いでがある頭の良さだという事は家族が一番よく知っている。
そこで近頃、彼が任されているのは、データ管理の仕事だ。
大昔の製造業ならともかく、現代の町工場にはパソコンが不可欠になっている。品質管理や環境保護関連の書類を提出するにも、データの形で提出するように求められる時代になっていたから、情報処理ってなんだそれ食えるのか、という世代の父も、テキストファイルを添付してメールを送るくらいのことは出来るようになっている。
ただ、父も叔父も、その面では非常に効率が悪い。少しイレギュラーなことが発生するとパニックになった挙句、授業中の浩樹に助けを求めてきたりする。携帯に電話がかかってきたって出られるはずも無く、留守電を盗み聞いてはメールで返信するという不思議な作業を強いられたりしていた。
この連休中に、トラブルを少しでも減らすための作業をまとめてやってしまおう、と浩樹は考えていた。
ある程度のデータベースは日々の手伝いの中で作ってある。データベースの取り扱いまで父達に求めるのは酷というもので、「クエリ」という単語ひとつ理解させるのも難しいだろうと睨んでいたから、最初からそれは考えていない。
要は、仕事で提出する書類の見てくれが良く、かつデータが正確であれば良いわけで、データベースと文書の間で綺麗にリンクが張られて、しかもそれが素人では変更不可能な形になっていればいい。
素人が一番怖いのは、せっかく出来上がっている文書を壊した挙句、壊れたままで保存して修復不可能にしてくれたり、壊れたままにしておけばいいものを中途半端な知識でいじくり回して余計な被害を増やしてしまうところにある。
浩樹は、父や叔父に色々教えるより、そういう被害を少なくする方が、結局自分の労力が減るということに気が付いた。なので、今回の休みは、父たちがいじる文書のあちこちにロックをかけたり、リンクを再チェックしたり必要ならデータベースを分割して使いやすくしたりすることに使うことにしていた。
そういうデータを扱っていると、当然ことながら、コスト管理や出納のデータも目の当たりにすることになる。
見るでも無しに見ていると、経理の知識がない浩樹にも、色々と見えてくることがある。
自分の家がどのような財務状況にあるか、発注主の下請けいじめはどの程度まで進んでいるか、あるいはこれからどのようになっていくか、歩留まりに関する製造ライン上の問題点まで、様々なものが見えた。一介の高校生がなかなか触れられない情報である。
こんなんでよくまあ倒産もせずに生き残っているなと感心したり、自分がバイトもせずにのうのうとしていることに罪悪感を持ったりしないでもなかったが、おかげで自分の視野が広くなったという自覚はある。
製造や経営に関するデータというものには、現実以外の何物も存在しない。高校生が夢を見る要素など何もない。でかいことを言ったり、地に足がつかない夢を見たりする余地はない。
そういうものを見ていると、世の中の見方というものがわかってくる。
おかげで可愛げ無い高校生が出来上がってしまったが、そういうところが頼りになる、と見てくれる同級生もいないではないし、教師などは多分クラスで一番頼りになる学生だと思っている。
そういう見方がうるさく感じられることもあるが、見下されるのはもっと嫌だから、まあこれでいいかとも考えていたりする。
朝からそんなことをしていたから、夕方になるといい加減疲れていた。
根を詰めていたのは、今日中にひとつは形にしておきたいと自分なりに目標を設定していたからだ。パソコンのまわりに、今まで買い集めたソフトの解説書などを積み上げ、それと見比べつつ作業していると、さすがに目も体も疲れてくる。
国立難関大狙いの身としては、高2の連休をこんなことに費やしていていいのだろうかという疑問も無いではない。それ以上に、体を動かさないとこのまま固まって朽ちてしまうような気がした。
浩樹は散歩の趣味は無かったが、少し出歩くくらいのことはしたくなった。
「ちょっと出てくる」
父たちと一緒に工場に入っている母に告げると、買い物を任された。
「カワハギ、ね」
「それだけ忘れてたのよ」
父たちの晩酌に欠かせない乾き物。実は一番の酒豪は母なのだが、浩樹もカワハギとスルメが無いと大人たちの晩酌が始まらないことは知っている。
買う店は決まっている。商店街にある小さな乾物屋で、今時珍しいほどに昔ながらのたたずまいを持っている店だ。コンビニにしようという話も何度か起きたらしいが、その都度話だけで終わってしまい、今でも父が子供の頃から変わっていないという店構えで商売を続けている。
どうせそんなに遠出する気も無かったから、ぷらぷらとその辺を歩きながら向かうことにした。
浩樹の家は、街中と言っていい区画にある。田舎のこと、大した賑わいは無いが、それでも友人たちの中では浩樹の家は「街の家」と認定される程度には街の中にある。
もっとも、今では住みにくさを示す言葉でもある。スーパーなどは郊外に移転しているし、駐車場が無い商店は次々に看板を下ろしてしまっている。中途半端にマンションが建ったために、変な位置に空き地ができたり、日照権や電波障害などの問題も色々と起きている。
そういう街の中を歩いていて、挨拶を交わしている光景があったら、それは元々この地区に住んでいた住民同士と見ていい。旧住民と新住民がなかなかなじまないというよくある街の課題は、ここにも当然のように当てはまっていた。
浩樹は旧住民の側で、近所付き合いが悪い家庭の出でも無いから、知り合いに行き会えば挨拶くらいはする。
休日ということもあり、観光資源も無い街の中は閑散としていた。かえってぶらりと歩くには都合が良く、乾物屋で買い物を済ませてしまうと、だんだん歩いているのが気持ちよくなってきた。
天気もいい。薄い雲が空を覆っていたのだが、昼過ぎくらいからそれも徐々に取れ、今は風もそれほど無く、沈みかけの日差しはわずかな雲に遮られてまぶしくもなく、外を歩いていてとても気持ちがいい。
その心地よさの中に浸りきり、ぼんやりとゆっくり歩いていた浩樹は、ふと、前の方に珍しい物を見つけていた。
着物姿の若い女性の後姿だ。
着物姿そのものが珍しいところに来て、若い女性が着ていることもまた珍しい。成人式の振袖か、結婚式くらいでしか見ない。
ただ、場所を考えれば、理由はわかる。
浩樹自身はまったく興味は無いが、すぐ近くにお茶の先生が住んでいる。弟子が多く、たまに茶会を催すときなど、着物姿が一時に集まって華やぐことがある。街では旧家として知られてもいて、どれくらい旧家かといえば、血筋は江戸時代初期までたどることが出来るという。
それを言ったら、と浩樹は、着物姿を遠くに見ながら連想する。
江戸時代どころか、安土桃山時代や戦国時代をも超え、室町時代から続く旧家なんてのもあったな。
そういえば、その家のお嬢がうちの高校に来たって騒いでたな。名前はなんていったかな。まあ、顔もろくに知らないけどさ。
着物姿の女性は、背が高く姿勢がいい。上品に結い上げた髪が可愛らしいが、着ている着物の色が落ち着いた色調の無地物だったから、浮いた感じはしない。景色の中に悪目立ちせずになじんでいる。
それがひどく好感が持てるたたずまいで、浩樹は思わず注視してしまった。
彼女はお茶会帰りに街歩きをしていて、店先で立ち止まっているらしい。何の店の前かすぐにわかり、浩樹は苦笑した。主に紅茶を扱っている店先だったからだ。
そうして徐々に近付いていくうち、浩樹はそれが誰であるか、不意に悟ってしまった。
ろくに見たことは無いが、何しろ有名人だし、一度見たら忘れられないくらいの美人でもある。
永野綾華。
中学時代からの不良伝説は高校に入ってさらに加速しているが、浩樹は詳しくは知らない。ただ、評判のうち悪い部分ばかり聞いていると、あのたたずまいは説明がつかないとは思えた。
ただの馬鹿があんなに綺麗な立ち姿になるものか。
旧家のお嬢がお茶を習った帰りの姿が、桁外れに美しかった。
見とれてしまっていたかもしれない。時間の意識もなく、浩樹はゆっくり近付きながら、確かに視線を完全に奪われていた。
そして、彼女が、店先に向けていた視線を上げ、何気なく浩樹の方向に向けた。
二人の視線がぶつかり、絡み合った。
浩樹は目を逸らせられなかった。
上げた髪から襟元に落ちていく肌の白い線が美しい。化粧はせず、無色のリップをぬっているだけらしい唇の妖艶さ。ほっそりした眉の気丈な線と、瞳が持つたおやかさの絶妙な均衡。
一目ぼれ、というなら、これは一目ぼれだったのかもしれない。
すぐに視線は外れてしまった。綾華の方から外してしまったからだ。彼女は人に見られるのに慣れているから、さして気にもしなかっただろう。
浩樹にとっては一大事だった。
今までこんなに一人の女に視線を奪われた経験はなかったし、その美しさに呆然としてしまったこともない。
相手が悪すぎるとはわかっていたが、しばらく、浩樹はこの衝撃から立ち直ることが出来なかった。
という話を綾華にすると、本人にはまったく記憶が無いらしく、
「えー、浩樹に会ってたらその時点であたしだって惚れてないか?」
などと訳のわからないことをいう。当時は彼氏もいたし、その翌年には期待の一年生、佐藤晃彦への片思いに揺れたりもしていた綾華に、少なくとも浩樹が入り込む余地はかけらも存在しなかったはずだ。
「まあ、その後には色々と迷惑かけられて、幻滅しまくるわけだけどな」
「その節はどうもお手数おかけしまして」
てへ、と綾華は笑っている。
親友の和馬が、何を思ったか突然生徒会長選に出馬。浩樹が脇を固めてくれるなら、という職員の思惑も重なり、会計で選挙に出る羽目になってしまい、無事当選すると、今度は「生徒会執行部の良心」などといわれて面倒をすべて押し付けられ、あげく、生徒が起こした不祥事の後始末に駆けずり回ることになった。
綾華からも迷惑をこうむっていた。
たいてい、綾華自身の問題というより、綾華に横恋慕したり嫉妬したりする男女が勝手に騒ぎを作ったものに、放っておけばいいのに本人が悪乗りして騒ぎを拡大再生産してしまった、という問題が多かった。
「いやあ、会長になってみてわかったよ。浩樹って大変な仕事してたんだね」
「出来てなかったから最後にクーデター起こされたわけだが」
「あの生徒会をほとんど一人で回してたんだもん、仕方ないよ。あたしだって、あきちゃんとか由紀がいなかったら絶対無理だし」
和馬が会長職を半ば投げ出してしまったのは、偶然が積み重なった不幸な人間関係の破綻が原因だったが、それ以来浩樹が一人で生徒会を回していたのは誰もが知るところで、クーデターが起きたときでさえ、その首謀者である綾華や下級生たちから信頼され、その新勢力の重要な一画を任されたりした。
「でもそういう浩樹を散々見てたのに、それに惚れないとか、あたしの馬鹿もたいがいよね」
今日はゴールデンウィークの真っ只中。
そう、浩樹が綾華に心を奪われてしまった時期である。それを思い出したから、そんな話をしていた。
浩樹も大学生活に多少は慣れ、綾華も新入生を迎える時期の仕事にひと段落がついて、どちらもほっと一息ついている時期だった。
つい最近、コンパに付き合わされた浩樹が泥酔、家まで女子二人に送られた挙句に雑魚寝して朝を迎えるという大不祥事を起こしてしまい、一時は怒り狂った綾華を治めるのに浩樹と後輩二人で悪戦苦闘したものだが、この日はその反動か、完全に甘えモードに入っていた。
綾華を知る者にとっては意外かもしれないが、浩樹にしてみればそうでもない。綾華は気が強く、態度もでかく、扱いにくい女のようでいて、二人きりの場面では結構甘えてくる。付き合い初めからそんな感じだったから、そんなものだと浩樹は思っていた。
「僕のほうは、未だにお前が僕を選んだ理由がわからないけどな」
「えー、なんでよー」
浩樹の部屋で、二人並んで畳の上に座りながら、パソコンの画面を見ていたはずだった。それがいつの間にか思い出話になり、今はパソコンはスクリーンセーバーも越えてモニター電源が切れている。
綾華は浩樹にぴったりと寄り添い、頭を浩樹の胸に預けたり上げたり忙しい。浩樹の腕は綾華の肩を抱いていて、これをわずかでも外そうものなら怒涛の抗議が来るから動けもしない。
「あきちゃんもそうだけど、なんであたしの周りの男どもは、どいつもこいつも自分を過小評価するかなあ」
「お前が桁外れだからだろう。お前と並んでて、自分に自信持てとか、どんだけサドな要求だよ」
「サドじゃ無いじゃん、普通に自分に自信持ってよ」
「無理。悪いけど、お前に水準合わせたら、まともに張り合える男なんかいないからな。そこは自覚しとけ」
「えー」
綾華は不満げに頬を膨らませた後、浩樹の胸に顔をうずめるようにした。
「……ふごふが」
「言いたいことがあるなら顔を上げてから言え。服に口押し付けたままじゃ何言ってるかわからん」
「ふがが」
ノーメークでも無いくせにこういうことをするから、外に出ようとすると着替えを余儀なくされることが多い。まあ、今日はノーメークだが。
「あたしなんてそんなご大層な女じゃないってば」
「自覚を持ちなさい。お前がその気になったらどれだけの男を転がせるか」
「転がす気なんか無いし」
「それはわかってる。転がす気があったら、僕の腕の中でぶーたれるなんてことにはならないだろうしな」
「居心地いいんだよね、浩樹の隣って。抱かれながらぶーたれてるのって気持ちいい」
「妙なところに快感を求めないようにな」
「妙じゃないじゃん、油断しまくって抱きついてるのが気持ちいいってだけで」
綾華の油断しまくった顔は、凶悪なほどに可愛い。浩樹にしてみれば、それを知ってしまったら、他の女になんか目が行くはずがない。
「ほんと、かわいいよ、お前は」
そういうと、浩樹は綾華のあごに指を添えた。
その目がどこまでも優しくて、綾華の心を芯から揺さぶってくれるのだが、浩樹自身にはまったく自覚がない。さらに言えば、綾華にかわいいという、その声の、あるいは口調の優しさも、綾華の想像力の限界を超えている。
浩樹の指に導かれるまま、綾華の唇は浩樹のそれで塞がれた。
舌先が触れ、互いに互いの感覚を求めて深く続けていく。
1分以上も激しくキスをした後、浩樹が一度軽く唇を離す。それからは一転して優しい口付けになった。唇が触れるか触れないかの感覚で、ささやくように唇を震わせながら、キスを続けていく。
浩樹の手が綾華の髪を優しくなでている。
綾華の両手は浩樹の背中に回り、そっと上下していた。愛撫、といっていい。
「……今度、着物でデートしてみる?」
綾華がキスしたままささやいた。浩樹が一瞬唇の動きを止めた。それでも頭をなで続けているのはさすがというべきか。
「……隣を歩くのに何着たらいいんだよ」
「……着物……一緒に」
そういうと綾華が唇をぎゅっと押し付け、すぐに離し、くすりと笑った。100人男がいたら、98人まではこの笑顔で落ちるだろう。1人くらいは変人がいて反応しないだろうし、1人くらいは女には興味が持てないだろうから。
「着たこともないのに」
「だからデビューするんじゃん。女の着付けより簡単だよ」
「持ってないし」
「あたしが準備するよ。仕立ててない反物なんか、たんす探せば売るほど出てくるし」
「仕立てるのだってお金かかるだろ。お前持ちで自分の着物作るとか、僕は嫌だよ」
「大丈夫。あたしには被服部に強烈なコネがある」
「ああ……ショーでモデルやるとかいう」
「そう。あれをダシに脅したら、着物の1枚や2枚、確実に縫ってくれるね」
「あれって難しいんだろ? 高校生に出来るのか?」
「紋付ならともかく、普段着の単衣ものなら大丈夫だよ。顧問は和裁士だし、いざとなったら頼み込むわ」
綾華はどうしても着せたいらしい。
確かに、浩樹が綾華に最初に惚れたのは、あの着物姿だった。あれと一緒に歩けるのなら、着物くらい挑戦してみても悪くないかな、などと思えてしまった。
それがどれだけ目立つか、まで考えが至らなかったのは、浩樹がうかつだったからではない。もともと、綾華と一緒に歩いていたら、どうしたって目立ってしまうのだ。気にするだけ無駄というものだった。
「お茶は習わないぞ、先に言っとくけど」
「……ちっ」
以前から綾華は浩樹にお茶を習わせようと画策している。どうも、浩樹には和が似合う、と勝手に思っているらしい。この着物デート計画もその一環なのだろう。
「けち」
「習い事は金がかかりすぎる、とくに日本の芸事はな。んな余裕は無いし、習い事してる暇があったらお前と一緒にいたいし」
「あー、痛いところつくよね」
綾華が再び顔を浩樹の胸にうずめる。
「あたしもいっぱい一緒にいたい」
そういうと、ぐるぐると頭を振るようにして甘えてきた。
「何だよ、猫かお前は」
「ふにゃー」
「完全にキャラが違ってるぞ、普段と」
「ご不満ですかにゃー」
「不満じゃないけど……薄気味悪くはある」
「ひどーい」
今、二人は、こういう仲である。