4.8浩樹4
確かに、僕が言い出したことではある。そこまで否定する気はない。
だがこの状況までは完全なる想定外で、なるほど、佐藤や渋谷が「全然違う世界に住んでいる」と表現するだけはあった。行動の予測がつかない。
生徒会長当選記念祝賀会プラス期末テストの壮行会、と称した永野からのメールの本文には、極めて簡潔に、日時と集合場所が示されていた。絵文字のひとつも入らないという男前なメールで、らしいといえばらしい。
そんなメールが来たのも、生徒会で関わって多少は友達の領域に入れたからなのかな、と思い、それすら実は自意識過剰の結果なのかもしれないと自分を戒めつつ、、メールの通りの集合場所に10分ほど前に着いてみると、そこには驚くほどフェミニンな姿の永野がいた。
永野が10分前には集合場所にいたというのも驚きなら、ふわふわのシフォンのミニスカートに丈が短いアルスターコートという、かわいい女の子然としたファッションに身を固めているのも意外だった。格好良く、あるいは綺麗に着こなすイメージはあっても、可愛らしいというイメージが無かった。
それが絶妙の甘さで似合っているのがすごい。
こいつには幾つの顔があるのか、不思議になる。ただ美形なだけじゃなく、その活かし方や飾り方を知っている。自分の美しさを知っていて、それを自在にコーディネートして輝かせる術を知っている。
手に負えない女だ。
それでも逃げ出さずに永野の前に出たのは、それが約束だったからだ。
「どこに行くか決めるの面倒でさ、どうしよう」
あらかじめ、軽い調子で永野が相談を持ちかけてきた時に、僕はたまたま行きたい場所があったから、調子を合わせる程度の軽さで答えた。
「いいね、あたしも行きたいわ。よし、それに決めた」
意外なほどあっありと永野に提案に乗られてしまったから、
「先輩ももちろん来るでしょ?」 と振られたら、断りきれるはずも無かった。
ぼんやりとスマホをいじっている永野の前に立ち、声をかける。可能な限り平静を装って。
「おはよう」
永野の顔が上がり、僕は衝撃を受けた。
「おはよう」
あろうことか、永野が全開の笑顔だった。文化祭の最中でもなかなかお目にかかれなかったような。
そんなものに真正面からぶち当たって平静を保ち続けられるやつがいたとしたら、究極の朴念仁かよほどのブス専にちがいない。
あいにく僕はそのどちらでもない凡人だから、もちろんかなりの動揺はあった。ただ、元々あまり喜怒哀楽を素直に表現してくれる顔の持ち主では無いからか、僕が動揺していても「冷静沈着」と見られることが多い。
「ずいぶん早いな」
「言い出しっぺだしね。割りと時間には正確な方だと思うけど?」
「そういえば文化祭の時も時間にはうるさかったな」
「そこがルーズなのって嫌なんだよね」
ごく普通に応対しているように、外からは見えたかどうか。
「さて、そろったことだし、行きますか」
と、永野がさも当然のように言い出し、歩き始めようとして、さすがに僕は平静を保てなくなった。
「ちょっと待て、他のやつはどうした」
そのセリフで、永野の表情が少し変わった。してやったりのどや顔。
「なにいってんの? 今日は二人でデートでしょ?」
今度こそ衝撃で体がぐらついた気がした。
「デートって、永野、いってることが……」
「あたしは最初からそのつもりだったけど? だからどこに行きたいか聞いたんじゃない」
「二人なんて一度もいってないだろう」
「みんなで、ともいってないしね」
永野はまた全開の笑顔。
「先輩、あきらめて今日一日はあたしに付き合いなよ、どうせ今から帰る気にもならないでしょ?」
永野の笑顔を見せつけられて我意が通せる男子がいるとは思えない。僕ももちろん通せるわけがない。
そういえば、佐藤も確か強引に連れ出されて買い物に一日付き合わされた経験があるようなことを口にしていた気がする。この強引な突破力はむしろ感心に値する。自分には無いものだけに。
「当然、見返りはあるんだろうな」
せめてもの憎まれ口を叩くと、永野は即答した。
「永野綾華と二人きりで一日を過ごせること以上の見返りってなに?」
この増長しきった台詞を真顔で言えて、しかも違和感なしに似合う女なんて、この女以外にいるのだろうか。
かなわない相手には早いうちに降伏するに限る。
「無いな、そんなものは。じゃあ満喫させてもらうよ」
切り替えた。
確かに、僕の人生の中に、これ以上いい女と出歩ける機会がこの先待っているとも思えない。それも、相手からの誘いと来ている。
気後れして後悔するくらいなら、今日一日は僕自身が楽しむために使ってやる。どうせ嫌われたところで失うものがあるわけじゃなし、せめて今日という日を僕自身のために楽しもう。
僕はきっと、瞬時になげやりにもなっていたに違いない。でなければ、次の行動の理由が、自分でも説明できない。
身を翻すように歩き出す永野の肩を、僕はほとんど反射的に右腕で後ろから抱くようにした。コートの厚目のコットンとその下のカットソーを通して、永野の柔らかい肌の感触を手に捉えながら、僕も歩き出す。
永野はちょっとビックリした様子で、それでも二秒ほどで自分を取り戻し、僕の顔のすぐ近くにある唇から言葉を紡ぎ出した。
「意外に強引なんだ」
「お互い様だろう」
「女の子の扱いなんか知らないんじゃなかった?」
「知らないから強引なのかもな」
僕の答えにくすっと笑うと、永野は立ち止まり、つられて立ち止まった僕の腕の中で半回転し、自分の胸を僕の胸に押し付けるように軽く背伸びしながら、何気無く、気配もそぶりも予告も無しで、僕の唇に軽く触れるキスをした。
あまりのことに事態が飲み込めない僕が、一気に襲ってきたパニックとキスの柔らかくて刺激的な感触との狭間で立ち尽くしているそばで、永野はすぐに体を離して右手の人差し指で僕の胸の真ん中を押し、
「強引さなら負けないからね」
と、勝ち誇ったような顔で笑った。
衝撃に耐えきれずに、たぶん仏頂面で立ち尽くしていただろう僕に構わず、永野はくるりと身をひるがえして歩き始めた。
「さ、一日はまだまだ始まったばかりだよ、先輩」
12月が近付いた明治神宮は、すぐ近くの原宿の賑わいと比べると少し寂しいくらいで、人波に揉まれて疲れ果てることはない。といって人の姿が見えないほどのマイナースポットでもなく、快晴に近い日差しに恵まれて、木々の中を歩く人々の群れに紛れていると、少なくともショッピングに歩き回るより心地いいし、気持ちもいい。
永野が同じように感じてくれていたかどうかはわからない。でも、一緒にいて、少なくとも不機嫌さを感じたり我慢している気配を感じたりはしなかった。
「何で明治神宮? なにかお願いすることでもあった?」
という永野の質問は当然のものだったけれど、答えようもない。永野にどこに行くか質問された時に、たまにのんびり木立の中を歩くのも気持ち良さそうだな、なんておじさんのようなことを思い付いて、ついそのまま口に出してしまっただけのことだ。
砂利の上を歩くのに、ヒールでもはいていたら不便かな、と思ったが、今日の永野はウイングチップのかわいいローファーをはいているからその心配もない。
「都心近くでこの風景はすごいよね」
木立を見上げながら永野がいう。僕は初詣で一度来たことはあるが、永野は初めてらしい。
「昔は大名の屋敷があったらしいけど、この大きさだからな。大名屋敷って想像よりでかいよな」
「そうなんだ。どこの藩?」
「確か、伊井家。彦根藩だな」
日本史の授業を思い出しながらいうと、永野はすぐに反応した。
「ひこにゃんだ!」
ご当地ゆるキャラブームの火付け役は永野も知っていた。
「あそこ、徳川譜代だから家はさほど古くないかと思ってたけど、意外に古いんだよね」
と、いきなり度肝を抜くような話を始めた。
「鎌倉時代の中ごろには成立してたらしいし、うちより古いね、そうなると」
永野家がこの辺りでは有名な旧家なのは知っていた。ここで始めて詳しい由来を聞く。
「……まあ、古いだけで、伊井家とは比べ物にならない小土豪だけど」
途中、本殿でのお参りも挟みながら聞いた永野家の話は、歴史は受験対策だけで十分と思っている僕でもなかなか面白かった。
「世が世ならお姫様なわけだ」
「世が世じゃなくてもお姫様だけどね」
と、またどや顔になる。突っ込みどころなんだろうか。
「お姫様というよりは女王様って感じじゃないか?」
ありきたりな突っ込みを入れると、永野は肘で結構強めに脇腹を突いてきた。
「思っててもお姫様扱いしなさいよ」
僕は身をよじりながら苦悶する。
「こ、これがお姫様のすることかよ」
「従者がいないからね、罰を直々に下してあげたの。光栄に思いなさい」
無茶苦茶だけど、戦国時代のお姫様くらいは地で務まりそうだ。
それから、おみくじくらいは引きたいという話になり、行ってみると、ありがたいお言葉をちょうだいするだけらしい紙を見て二人で顔を見合わせたり、その横で結婚式の撮影が行われているのを見物したりした。
結婚については非常に現実的なご意見を賜った。
「多分白無垢着せられて神式で挙げるのは確定だね。うち、あの近所の神社の氏子総代だし、元をたどれば神職出身の家系だし」
武家にはわりと神職出身の家も少なくないらしい。
「信長の織田家だって神主の出じゃん」
じゃん、といわれても、僕が知るわけがない。
「え? 常識じゃね?」
「いやいや、普通知らないから」
遊んでいる雰囲気のわりに成績がいい永野は、歴女でもあるらしい。常識のレベルがちょっと高過ぎる。
「いい勉強になったね、来た甲斐があったじゃない」
「ああ、ありがたいね」
気の入らない返事をすると、永野は少しふくれた。
面白いからしばらく放っておくと、そのうち本気で不機嫌になってきた。
「悪かったよ、機嫌治してくれよ」
僕が折れると、永野は明後日の方角を見ている。簡単に許す気は無いらしい。
「どうすればお許し下さいますか」
とひたすら低姿勢に出ると、僕の左隣を歩く永野は少し考えてから、右手をぐっとつき出した。
「手を取りなさい。レディーをエスコートするのは、デート中の男の子の神聖な義務よ」
デートだったのかこれは、という致命的になりかねないセリフを危ないところで飲み込み、僕は一気に緊張した。
さっき肩を抱き、キスまでされておいてなんだが、僕は女の子と手を繋いだ経験など、学校行事以外ではまったく存在しないし、まして相手が永野では、緊張するなという方が無理だ。一緒に歩くだけでも緊張するというのに。
恐る恐る右手を取り、捧げ持つように恭しく扱っていると、永野は苦笑した。
「そうじゃなくて。なんでそんなにおおげさなんだよ。普通に繋げばいいんだって」
そういうと、永野はお互いの指を絡め合うようにしてしっかりと繋いできた。
永野の細くて長いひんやりとした指が、僕の左手に絡みつく。手の、いや、全身の感覚が左手に集まったような気がするほど、恐ろしく快い手指の感触。
「離しちゃだめだよ」
これで勘違いしない男がいたら顔を見てみたい。
まるで、永野が僕のことを好きみたいじゃないか。