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第18章

 三日の間、彼らは同じホテルの部屋でずっと一緒にいた。食事のほうは主にルームサービスを取るか、ホテルのそばにあるコンビニで何か買うかのいずれかだった。ふたりは他の時間の多くをベッドの中で過ごし――仕事に関して何か連絡が入るたび、君貴は裸のまま対応していたものだった(もちろん、リモート会議でパソコンの画面に収まらねばならない時には、きちんと服を着ていたが)。


「マキのお腹の子、たぶん君貴の子だよ」


 君貴が明日の午前中には飛行機に乗らねばならない夜遅く……レオンはぽつりとそんなことを洩らした。


「どうしてそんなことがわかる?セックスの回数といった確率的なことでいったとしたら、たぶん98%くらいの確率で、マキの腹の子はおまえの子だ。というより、俺としては絶対そうあって欲しい。俺に娘が出来るだって?考えただけでゾッとするな。レオン、おまえは阿藤家の女の血筋ってのがどんなものか、まるでわかっちゃいないんだ。俺の言うことなんか絶対聞かない跳ねっ返りに育つのはまず間違いないぞ。『パパはたまにしかうちにいないのに、なんでそんなにエラそうなのー?』とか、こっちの急所をグサグサ刺してくるような、そりゃもう可愛げのない娘に育つことだろう」


「それならそれで、楽しそうじゃないか」


 レオンはお腹がすいたので、ピザを食べた。ここで君貴とふたりでいると、世界には彼らしか存在しておらず、問題などどこにもないかのようだった。もちろん、そんなことは錯覚に過ぎないとわかっていても……。


「僕がそう言うのは、一応理由あってのことなんだ。日数を逆算したら、おまえがマキを抱いた日に当たるっていうことと、たぶん僕に子種がないんじゃないかっていう、簡単に言えばそういうことなんだけど……」


「なんだ?病院にでも行って調べたのか?」


 君貴がどこか絶望的な顔をするのを見て、レオンはおかしくなった。彼は何がどうでも、マキのお腹の子は「とうたん」ではなく、「パパ」の子であって欲しいらしい。


「いや、まだ病院には行ってないけど……もしあの時、マキの妊娠がわからなかったら、そろそろ一度行こうとは思ってたよ。君貴との間にはすでに貴史がいることを思えば――マキの体に何か妊娠しづらい理由があるとは考えにくいからね。じゃなかったら、最初の半年くらいでマキが妊娠してないほうがおかしいと思ってた。そのくらい……すごく愛しあってたから」


 レオンが枕に突っ伏して、泣いているのに気づくと、君貴はそんな彼の肩に触れ、その髪の中に口接けた。


「君貴……僕はずるい、卑怯な人間だ。こういう困ったことになるとおまえに頼るのに……普段はずっとマキと一緒にいて、彼女のことをおまえから引き離した。それに、おまえが近ごろは貴史とも普通に遊んだりするのを見て、ほっとしてたっていうのは本当でも……特に貴史が赤ん坊だった頃は、君貴があんまり自分の息子に関心を示さないのに呆れつつも――心のどこかで喜んでる自分もいた。それであればこそ、あの家には僕の居場所があったっていう、そういうことだからね」


「そんなことはないさ。俺は……確かに、おまえの口からマキと寝たと聞いた時には、ショックを受けたよ。普通に考えたら、俺たち三人の中で弾き飛ばされるのは間違いなく俺だったからな。ずるくて卑怯といえば、俺のほうこそだろう。普段はレオンに育児その他任せきりなのに、自分の都合のいい時だけ幸せのつまみ食いをしようという、俺のポジションっていうのはそういうことだからな。だがまあ、そんな俺でも、近ごろは多少考えなくもなかった。レオンがパパで俺がとうたん……普通の家庭にはパパというやつはひとりしかいないのが通例だからな。今はまだ貴史は三歳だからいいにしても――四歳くらいになったら、他の家庭とうちを比べて、そのことを疑問に感じるに違いない。そしたら……貴史が健全に育つのに俺が邪魔なら、少し考えねばならんとは思ってたよ」


「そのことは、僕もマキと話したよ。でも結局、僕は見た目がコレだからね。僕が貴史の実の父親でないことは一目瞭然ということになる。そしたら、やっぱり君貴が実の父親として絶対必要ってことだよ。まあ、あとのことはね、貴史が「なんとかちゃんやなんとかくんの家にはパパはひとりしかいないのに、うちにふたりいるのはどうして?」って聞いてきたら――その時はその時で臨機応変に対応すりゃいいんじゃないかってね」


「臨機応変ねえ。そんな呑気なことでいいのか?一般によく聞く話じゃ、ガキってのは四歳くらいまでで親孝行を終えるっていうじゃないか。いわゆる知恵ってやつが出てきて、親が無条件で可愛いなんて思えるのもそのくらいまでで――以降は本人も、ちゃんと色々なことを覚えてて、のちにはそれを論理的に説明できるようにもなる。つまり、その時にはわからなくても「なんでお母さんはあの時、理由もなく自分をぶったのか。理不尽だ」とか、そんなことをいついつまでも覚えてるような領域に入るわけだよな。やれやれ、まったく厄介なことだ」


 ここで、レオンは枕に突っ伏したまま、くすくす笑いだした。


「僕たちって、どう考えてもゲイのカップルらしくないよね。久しぶりにあんなに激しく抱きあったっていうのに……その締め括りが子育て論で終わるとはね」


「そうだな。それに、今は山のものとも野のものともなるかわからん貴史のことなんかより――レオン、俺はおまえのことのほうがよっぽど心配だぞ。どうする?俺には具体的になんともしてやれないが、それでも、一緒に来るか?世界のあちこちを飛行機で移動する間も、確かに俺は仕事のことが第一で、おまえには構ってやれないかもしれない。だが、もしそのほうが気が紛れていいなら……」


「いや、そんなことは出来ないよ。何より、マキは妊娠中で、いくら安定期に入ったとはいえ、今が一番大切な時だからね。僕も家に戻るさ。ここで三日間君貴と一緒にいて、思ったんだ……この三日、僕はテレビもネットも一切見なかった。たぶん、マキといる間も同じようにすればいいんだと思う。外では僕に関することで色々な人が色々なことを言い、嵐が吹き荒れているような状態ではある。だけど、台風の目の中にいるみたいに、ただじっとして、自分たちの世界の外は静止してるとでも思えばいいんだろうな。それで、貴史と外に散歩へ行く時には髪の毛を黒く染めるとか、今まで以上に気を遣うことにするよ。あの汚れたピアニストの息子だなんて後ろ指さされでもしたら、貴史が可哀想だものな」


「おまえ、本当に大丈夫か?」


 君貴は、恋人の背中に触れながらそう聞いた。そばにいてやりたいのは山々だが、何分彼には明日以降、自分が直接顔を出す以外にない仕事がいくつも待ち構えているという、そのせいだった。


「ああ。君貴が僕のために三日も時間を作ってくれた上、僕のためにその時間を使ってくれたから……そのお陰で大分大丈夫にはなったよ。ただ、マキに対してだけどうしようとは思ってるんだ。君貴と違って、僕のヒステリーにマキは慣れてないからさ。一番いいのは、テレビもネットも見ないってことだけど……あの本、僕まだ三分の一も読んでないからね。だけど、読まないわけにもいかないだろ?それでまた僕が癇癪を起こして壁に穴を開けたりするんだとしたら――貴史にも、マキのお腹の子に対しても悪い影響を与えてしまうものな」


「あの本はな……もしかしたら、最後の章から読んでいくといいかもしれんぞ。レオンが読んでいて一番つらいのは、特に本の最初のほうだろうから……おまえ、前に言ってたよな?ルイ・ウォンに関してはヨウランとテレビで直接対決してもいいみたいに。だったら、その箇所については腹が立ったりなんだりするにしても――ある部分、おまえが今まで知りえなかった謎が解けるところもあると思うんだ。たとえば、義理の母親のウォン・イーランがヨウランや彼女の兄ハオランから見てどんな人間だったかとか、彼女がレオンに対してどういう考えを持っていたかとか……なんか、あのヨウランって子、母親が携帯で話すところを盗み聞きしたことがあったらしい。その頃、レオンは大体十三とかそのくらいだったらしいが、家にいる三人の子供の中で出来が一番いいのはレオンだって、彼女のほうでも認めてたって話だ。それで、レオンの頭脳がハオランに備わっていて、ピアノの腕前がヨウランにでもあったら良かったのに……なんて言ってたらしい。あとは、そこに続くウォン・ヨウランのストーカー日記に至っては――おまえも心に震えがくるかもな」


「どういう意味?」


 本の続きを読むことに、気乗りはまったくしないものの……確かに君貴の言うとおり、本の後ろのほうから読めば――少しくらいは物を壊すリスクが減るだろうかと、レオンとしてもそのように考えなくもない。


「つまりさ、あのヨウランって娘は、レオンがショパン・コンクールで優勝し、ピアニストとしてデビューして以降……世界中で開催されるおまえのコンサートに出来る限り出席してるってことさ。で、そのことに関して書かれた当時の新聞や音楽雑誌その他の批評をすべて保管していたらしい。その中で、音楽雑誌の記事を書いた記者のことも随分攻撃してたよ。『この批評はまったくお門違いもいいところで……云々』なんてな。だが、それであればこそわかるのさ。本全体を通して、ヨウランはおまえに極めて同情的だ。ピアノの才能については手放しで褒め、客観的な他人の意見についてはそのまま書き記しているにしても――終始徹底して、わたしはレオン・ウォンの味方だといったような態度を崩していない。特段、本を読んだ人間が読了後に自分を攻撃するかもしれないといった保身のためではないだろう。俺の個人的な意見としてはな、『こんな本を出版してしまったけど、わたしを憎んだり恨んだりしないでね、レオン』といったメッセージを感じるというか、何かそんなふうに読める」


「ふざけるなよ」


 レオンは突然にして、怒りを身体すべてに漲らせるように低い声で言った。だが、君貴としてはむしろ、そんな彼を見て少しばかりほっとした。三日前に会った時、彼はもっと精神的に弱っているように見えた。けれど、これだけの怒りが湧くということはむしろ――前向きに生きるための健全な力が甦ってきている証拠だと、そう思った。


「冗談じゃないぞっ!僕はもうヨウランのことなんか絶対許さないし、彼女が死ぬまで憎み続け、恨み続けてやる。批評家どもの言うことなんか、僕はもともとまともに読んでなんかいない。もちろん、音楽評論家の中には、僕も一目置く人物がいるし、そうした人に痛烈な意見を述べられたとすれば、がっかり肩を落とすということもあっただろう。だがそういうマトモな人たちに僕はお角違いのことを言われたことはないよ。むしろ、そうしたことっていうのはね、新聞にしろ雑誌にしろ、ある一定のスペースを締切日まで埋めなきゃならない連中の、個人的感想って場合が多いんだよ。便所のラクガキによく猥褻な言葉が書いてあるけど、あれと一緒さ。『こんなことをわざわざスプレーで書いたりする奴は欲求不満の、人生がうまくいってない奴だけだ』といったような手合いのね。僕はそんな奴らの意見にいちいち傷ついたりなんかしない。ゆえに、ヨウランに庇われなきゃならない必要性なんかまったく感じないね」


「まあ、そのあたりについては読めばわかるさ。ただ俺は、本の後半あたりについては、レオンでも比較的穏やかに読める部分が多いってことを言いたかっただけなんだ。ヨウランはな……レオンに対して不当な評価を下した連中が許せなかったんだろう。『彼は得意の名人芸を今回も披露した。高い位置から指を叩きつける力強い演奏法……だが、だんだんに手の位置が低くなってきていると感じるのは私の気のせいだろうか?』という意見に対してはだな、『レオンは普段、練習している時からあの弾き方でミスをしたことはない』といったように書いてたよ。確かに、おまえの言うとおりだな。あの子がおまえに最後に直接会ったのなんか、もうかれこれ十数年も昔のことだろう?それなのに、あの子はその後もレオンの追っかけを続けることで、レオン・ウォンの専門家であり続けたのさ。そのことに対して俺は本を読みながら鳥肌が立ったという、これはそういう話だ」


「へえ……なるほどね。いわゆる花のレオン・ウォンブームというのかね。ショパン・コンクールで優勝して以降、何年かはそうした状況が続いた。だけどジュリアードに入学して以降、僕はかなり真面目な音大生ってのをやってたからね。大学在学中は少しずつコンサートの回数を減らしていったんだ。そしたら、なんでかわかんないけど批判評が一時期妙に多くなった。むしろ僕としてはね、大学で色々専門的に学んだり、コンサートの回数も減らしたことで――演奏する機会があるごとに、前以上にいい演奏が出来ているという充実した感覚があった。なのに、どこか見当違いのことを書かれるんだぜ?彼はショパン・コンクールで優勝したあの瞬間が、ピアニストとして絶頂だったのではあるまいか……といったようにね。僕にしてみたら、『おまえの耳は腐ってる』としか言いようのない意見もあった。で、そのうちだんだんわかってきたのさ。彼らはただ単にある一定の記事スペースを埋めるためだけにそんなお角違いの意見を述べ、それで金を稼いでるだけなんだってね。だけど、ちょっと時間が経つと自分がそんなことを書いたこと自体忘れてるような、罪のない連中なんだよ」


 そんな奴らのことは十分許せるが、ウォン・ヨウランのことは絶対許さない――そんな凄みのある顔をレオンがしているのを見て、(それでこそ、俺が好きなおまえだ)と、君貴はそんなふうにも感じた。


「だが、その中にはおそらく……いわゆる近親憎悪系の感想や意見ってのもあったりしたんだろうな。ほら、そうした記事を書く連中の中には、音大を卒業したが、プロとしてオーケストラの席を得ることは出来なかった――そんな連中がたくさんいるものらしいぞ。そうした奴らにとって、レオン、おまえは『音楽家としてこうありたい』という理想そのものなんだ。それは、この俺自身がそうだからこそよくわかる。となると、相手がちょっと脇の甘さを見せたように感じたら批判せずにはいられないという、何かそうしたことになるんじゃないか?」


「君貴、次にロンドン行くのいつ?」


 レオンはある程度のところ、一旦立ち直ったらしく――バスローブを着ながらそう聞いた。マキには電話連絡しておいたが、君貴がもう明日にはいなくなると思うと……彼女と貴史のことが急に恋しくなってきた。


「なんでだ?もしかして何かロンドンに用でもあるのか?」


「ううん。特にはないよ。ただ、今チェルシーにある君貴の屋敷で、無性にピアノの連弾がしたい。おまえのスタインウェイでね。ロンドンは僕にとって、昔は本当にただの灰色の街だったよ。幼少時に嫌なことがあったって意味で、コンサートでたまに行く以外は、全然足を踏み入れたいとは思えなかった。だけど、チェルシーの僕たちのあの家……あそこで君貴と愛しあううちに、考え方が百八十度変わったんだ。過去に起きたことは、もうただの過去だ。僕はもう乗り越えたんだってずっとそう思ってきた。人間の中で何よりも強いのはやっぱり憎しみよりも愛なんだよ。君貴、おまえさ、『愛のメモリー』なんて曲知ってる?」


「ああ。たぶんあれだな。マキのおっかさんの、懐メロシリーズの一曲だろ?日本の黒人代表、松崎しげるの名曲だ」


「えっ!?あの人、黒人と日本人のハーフかなんか?」


 レオンは驚いて、ベッドの縁から君貴のことを振り返った。彼はスマートフォンで仕事に関するメールを打ちはじめている。だが、体のほうは素っ裸のままだった。


「違うよ。まあ、あまり俺の言ったことは気にするな。というより、どっちかというと、シゲル・マツザキは日本人のラテン代表といったほうがいいのかな。そんなことはどうでもいいとして、『愛のメモリー』がなんだって?」


「うん。すごくいい曲だねってテープを聴きながらマキに言ったんだ。僕がマキに対して思ってることそのものだって」


「そしたらあいつ、なんて言ってた?」


 君貴はこの時点で笑いだしていた。部下を叱咤激励するメッセージを送らなければならないのに、言い回しのほうが若干緩くなってしまいそうだった。


「それだよ!マキも今の君貴みたいに笑ってた。『なんでっ!?』て僕が聞いたら、日本ではあんまり有名すぎて、物凄い名曲なのに軽くお笑いの対象になってるからだとかって……」


「残念なことに、実際そうなんだ。だがまあ、レオンが何を言いたいのかは俺にもよくわかる。照れくさかったにしても、マキにもまあ、大体のところおまえの言いたいことは伝わっていたろうしな」


「うん……あと、『空に太陽がある限り』の時も、なんか同じ調子で吹きだしてたよ。ひどいと思わない?僕のほうはあくまで真剣なのにさ」


「世界のアキラ・ニシキノの場合は衣装がな……だがまあ、レオンの言いたいことはわかるよ。マキにも十分おまえの気持ちは通じていたろうし、そうした意味では何も問題ないだろ」


「とにかくさ、僕が言いたいのは、マキが僕に僕がずっと欲しかったと思ってたものを全部くれたってことなんだよ。だからさ、これからまた僕に対して見当違いのことを言ってくる連中の嵐にあったとしても……おまえとマキが前と変わらず一緒にいてくれたらいいや。僕はさっき、ヨウランのことを一生許さないって言ったけど、あれは言葉のアヤみたいなものなんだ。そういう意味でこれからも、『あんな奴、これからも憎み倒して恨み続けてやるっ!』とは、口に出しては言うにしても――僕はやっぱりね、あの子のことは哀れんでる面のほうが強いね。たぶんヨウランは知らないんだ。本当に誰かを愛したり愛されたりするっていうことがどういうことか、それさえ知ってたら……他のことはほとんどどうでもよくなるとか、そういう領域があるってことをね」


「俺もまったく同感だ」


 レオンがそのままバスルームに行ってしまうと、君貴はメールを送信し、ごろりとベッドの上へ横になった。彼も今、チェルシーの自邸や、レオンが所有しているニューヨークの見晴らしのいいペントハウス、あるいはローマ、リスボン、パリ、ベルリン、バルセロナ……などなど、世界中の高級ホテルで待ち合わせては、彼と愛しあった時のことを思い出していた。


(思えば、レオンとだけ三日もずっと一緒にいるなんて、俺も本当に久しぶりだ……)


 君貴とレオンはこの翌日、ホテルの前で別れたわけだが――もちろん君貴は、最後にもう一度こう言って念押しするのを忘れなかった。


「まあ、家の大型テレビのほうは沈黙を守ってるわけだし、あとはネットでエゴサーチしたりなんだりしなければ、外で何が起こってようと……暫くの間はなるべく家にいるようにしてたら、嵐のほうは時間がかかってもやがて凪になるだろう。だが、あの本はレオンにとって本当に毒にしかならないからな……おまえ、この先何かあったらすぐ俺に電話してこいよ。俺はすぐこっちには来れないかもしれないが、その場合はレオンのほうで俺のいる場所まで来い。昔はよく、俺たちの間じゃそんなふうにしてただろ?」


「うん……ありがと、君貴。僕がもし精神的に荒れて、むしろ僕が一緒にいることがマキや貴史にとってよくないと感じたら、すぐそうするよ」


 ふたりはこのあと、周囲に人目のないのを確認してから――熱烈にキスしあって別れた。そして、レオンのほうでは、君貴がタクシーを拾い、羽田のほうへ向かうのをずっと見送り、それから自宅のほうへ戻ったのだった。


「ただいまー!」


 君貴との三日間の身体を通した精神的治療が効いて、この時レオンは一時的に気分が落ち着いていた。本当は、君貴があのまま一緒にいてくれることが、レオンにとって理想ではあった。これはあくまでたとえば、ということだが――本の中に虚偽が含まれていて、『僕はそんなこと言ってない!』、『そんなこと、絶対事実なんかじゃない!』といった箇所をレオンが発見したとしよう。その場合、レオンは『嘘つきの魔女め!』だの、『中国では実の母親にさえ相手にされないから、アメリカまで進出してきたんだろうが。ええっ!?』だのと叫びつつ、手当たり次第物を壁に投げつけたことだろう。けれど、こうした時君貴はまったく動じなかった。唯一、喧嘩の際にエミール・ガレのランプをレオンが壊した時だけ、『あ~あ……』と失意に沈んでいたが、大抵の場合、彼はレオンの感情の嵐が過ぎ去るまで、好きなようにさせておいてくれる。


(でも、マキの前でそんな荒れたところを見せるわけにいかないからな……だけどまあ、たぶんきっと大丈夫だ。この三日の間、君貴と話したことを思い出したりなんだりして、どうにか気持ちを静めよう。君貴も、必ず毎日連絡するって約束してくれたし……)


「おかえりなさい」


 マキはレオンが身を屈めると、彼の頬にチュッチュッとフランス式に二度キスした。そのあと、レオンはさらに跪き、レモン柄のマタニティウェアを着た彼女のお腹あたりに耳をあてた。そして、服の上からキスして、「ただいま」と、お腹の赤ちゃんにも挨拶する。


 君貴は今回も、レオンが「本当に蹴ってくるんだよ!」と興奮したように言っても――「いや、俺にそういうことを強制するのはやめてくれ」と仏頂面で言っていたものだ。「それに、どうせ確率的に考えて、絶対レオンの子だろ?」とも……。


 このあと、レオンは貴史にも挨拶したが、彼はぷいと横を向いて返事をしなかった。三日前の別れ時のことを、いまだに根に持っているらしい。


「とうたんも、貴史によろしくって言ってたよ。また今度、プラレールでインディアンごっこしようって」


「今日、朝からちょっと機嫌が悪いのよ。ただ、びっくりしたことにはね……君貴さんとあなたが行ってしまったあと、『とうたんはぼくのことなんかどうでもいいんだ!』なんて言うものだから、わたしも慌てちゃった」


 もちろん、マキにはわかっている。君貴が貴史に「よろしく」などと言うはずがない。何しろ、電話がかかってくるたびに、実の息子の顔をまず真っ先に見せようとすると――『ガキの顔をまず真っ先に見せて、俺に嫌がらせするのはやめてくれないか?』などと真顔で言ってくるような男なのだ。対するレオンはといえば、『おまえ、それ絶対冗談だよね?』と言い、さも面白い冗談を聞いたというように、白々しく笑いだすのだった。そのやりとりがあんまりおかしくて、彼らの後ろでマキも大声で笑ってしまったほどだ。


 けれど、マキはそのことをあまり深刻に受けとめていなかった。あのあと一度だけ、阿藤家の集まりに連れていかれたが、姉・美夏の息子ふたりに対し、君貴は『今からすでに、将来ろくなものにしかならなそうな顔をしているな』などと言っていたものである。ところがこのふたりの甥は、何故か君貴によく懐いていた。「おじちゃん、ピアノ弾いてよ」だとか、「今もまだ世界中旅してるの?」だのと質問しては、纏わりついて離れなかったものである。


「それで、どうしたの?」


「『そんなことないわよ~』とか、『とうたんはタカくんのことを愛してるのよ~』とか言っちゃった。君貴さんがいたらたぶん、『そんな白々しい嘘を言うのはよせ』とかって言ったかもしれないけど……まあ、いいわ。そのうち『とうたんからのプレゼント』とか言って、新しい電車でも買ってこようかと思うの」


「いつものおもちゃ屋だね。もちろん僕もつきあうよ」


 レオンは着替えるために、自分のクローゼットのあるピアノのある部屋のほうへ行った。部屋のほうは掃除がしてあり、穴のあいた壁紙からこぼれた漆喰のカケラや白っぽい粉といったものは綺麗に拭いてあったものである。そして、例の本のほうは――楽譜の並んだ書棚のほうに立てかけてあった。


 この時、レオンは不幸の元凶を眺めるような目で、ウォン・ヨウランが著者である本を眺め、溜息とともにそれを手に取り、ぱらぱらと捲った。一番最初にあった手の震えは今はもうない。それから、君貴の忠告通り、後ろのほうから少しだけ読んでみることにした。今は貴史の機嫌も取らなくてはならないし、ほんのちょっと読むだけだ、とレオンは思っていた。また、そうすることで、『こんな本は自分に本当の意味ではなんの影響も与えはしない』ということを証明したくもあった。


 >>『わたしはその後、義理の兄であるレオン・ウォンのコンサートへ幾たびとなく足を運びました。彼のピアノを聴くと、いつもわたしは泣いてしまう……九歳からピアノをはじめて、その後、中国国内・国外のピアノ・コンクールに出場するレオンのことを、わたしはいつも誇りに思ってきました』


(おえっ!)とレオンは思った。ピアノの才能もあまりないとは思っていたが、ここまで文才がないのに、よく出版社がこの本の発行を踏み切ったものだと、まったく感嘆してしまう。ただそのかわり、ゴーストライターは雇ってないらしい……そのようにはっきり確信できてしまうほど、稚拙極まりない文章だとしか思えない。


 そしてその後、2~3ページ読み進めていくうち、(確かに、君貴の言うとおりだな……)とレオンは思いはじめていた。ただし、別の意味で薄気味悪くはあった。レオン自身はまったく気づかなかったが、世界各地であった彼のコンサートに、間違いなくヨウランは足を運んでいるのだ。彼女が一体いつ整形したのかはわからないにせよ、テレビで見た彼女の姿にしても、レオンはどこかで見かけたといったような記憶すらない。


 >>『悲しいことに、天才というものはある一定の時を過ぎると見慣れてしまうものなのでしょうか。ショパン・コンクールでのデビュー時、世界各国が挙げてレオン・ウォンの才能をあれほど賞賛したにも関わらず、デビュー後、5~6年を過ぎた頃から「彼のピアノは中国雑技団仕込み」だの、「ナルシストによる自惚れた演奏」といった、まったくお角違いもいいところの講評がされることがありました。むしろ彼は、ジュリアード音楽院のピアノ科の学生として充実した時を過ごし、その才能にはますます磨きがかかっていたというのに……今読み返してみれば愚の骨頂としか思えない、そうしたいくつかの批評をお目にかけましょう』


 レオンも、続く音楽雑誌や新聞などから引用された文章には、思わず笑いが込み上げた。しかも、掲載された日付が今から十年も昔のものであるのを見て――レオンはそこに書いてあることよりも、そんなものをいつまでもコレクションしてあれこれ思っていたヨウランのほうが、むしろ薄気味悪かったといえる。


(そうだ、大丈夫だ……君貴も言ってた。ヨウランが僕と実の父親との性の現場を見たことについては――本の中に彼女がクローゼットに隠れていたなんていう記述はなかったって。それで、もし読んでいてそうした矛盾した点が少しでもあれば……現時点で僕にヨウランを訴える気がなかったとしても、それがいかに小さなものであれ、五つも六つも矛盾した箇所を指摘できたとすれば、本自体の信憑性も疑わしいものになってくるって)


『いいか、レオン。問題は本に書いてあることが事実かどうかなんてことじゃない。この本を読んだ人間に、すべては嘘八百、義理の兄に恋をした気違いストーカー女の戯言だといったように思わせることがもっとも肝要な点なんだ。まったく、俺からしてみたらおまえがあの女ピーピング・トムめを訴えないのが、まったく残念でならないぞ。あの娘がその昔、「抱いて」と言って素っ裸でおまえの部屋で寝ていたというのは事実だ。そのことを逆恨みしたのが、この本を書いた動機だろう……レオンか弁護士がそう指摘して、あの女が慌てふためくところを見られないというのは、なんとも残念だからな』


 ロイ&タナー・エージェンシーのCEO、ロイ・シェパードには訴訟を起こしたほうがいいと、薦められてはいた。だが、レオンがなんとしても嫌なのは、裁判の過程で、どの部分が真実に根ざしていて虚偽の可能性が高いのか――その点について明らかになることであった。そうなった場合、ヨウランのほうでは調査した結果の資料など、提出できる証拠はいくらもあるに違いない。


(まあね。もう随分長いこと話してもいないけど、イーランさんに相談するっていう手が、僕にはないでもない。彼女は再婚して、再婚相手との間に一子を設けたって聞いたけど……今回のことはイーランさんだって快くは思ってないだろう。だけど、ヨウランにしてみれば、これは遠まわしの母親に対する嫌がらせでもあるんだろうな。残念なことに彼女は、どちらかというと父親に似ていて、母親の美貌については受け継がなかったから……整形したのも、そうしたコンプレックスが心理的に関係しているのかもしれない)


 ウォン家は基本的に、能力偏重主義の家庭であった。金のかかる私立校での教育と、優秀な家庭教師……そのふたつを当てがわれていて将来何者にも成りえぬとしたら、それは本人の責任なわけである。父親は外に愛人が十人ばかりもおり、母親は中国のみらず、欧米の社交界でも美貌の東洋人として有名であった(ちなみに彼女の再婚相手はイギリス人である)。つまり、そうした社交に忙しいあまり、母親としてのきめ細やかな愛情といったものを子供に注ぐべき時間があれば、エステやネイルサロンへ行くといったタイプの女性だったのである。だが、レオンの目から見て、現在はイーラン・スミスとなった彼女に、子供に対する愛情がなかったとは思わない。彼女は彼女なりに子供たちのことを愛しており、目をかけはしたが、ハオランもヨウランも彼女が「こうなって欲しい子供の将来像」に合致しなかったという、これはそうした話である。


 >>『わたしはその時、母がこう話しているのをまたしても聞いてしまいました。母は無用心な人で……あるいは、わたしや兄がなんとなく廊下を歩いていて彼女の話を耳にする可能性もある――といったようなことは念頭にないようでした。あるいは、べつに聞かれたって構わないと思っていたのかもしれません。とにかく母はその時、養子のレオンのことを評して、こう言っていたのです。「あの子のことを夫が連れてきた時、一体なんの冗談かと思ったものよ。何分、私にはハオランとヨウランという、血の繋がった可愛い我が子がいるんですからね。だけど、今となっては後悔してるわ。必要な物を十分すぎるくらいたっぷりあげるっていうんじゃなく、それなりに気にかけてあげるべきだったのよ。もっともそれならそれで、問題はあったでしょうよ。自分のふたりの子を差し置いて、私自らがあのレオンって子の美貌と才能に熱中してしまったかもしれないものね。ステージ・ママよろしく、色々なことを管理したり、近づいてくるメスブタのような女どもを排除したり……だから結局、これで良かったんじゃないかしら。とにかくルイが死んだ今、私は自由よ。早くあなたに会いたいわ』……母は現在の夫のアーロン・スミスと電話で話していたのでしょうが、わたしにもはっきりした確証まではありません。


 この事実には、レオンにしても多少驚かないでもなかった。ハオランが自分と比べられるのが嫌で、のちにはまったく口を聞かない関係性になったことについては、わざわざヨウランの本を読むまでもなく、ある程度想像できたことではあったが。


(ふうん。なるほどな……)


 レオンが比較的冷静な面持ちで、次のページを繰った時のことだった。本のページの端が、本当にほんのちょっとではあるのだが、折られていたのである。このくらいであれば、製本の過程ででもちょっとしたミスがあったのだろうか――といった程度のものではある。だがこの時、レオンの中で再びこの件に関する繊細で神経質な物思いが呼び覚まされてきた。


 つまり、今この瞬間も……「今、話題の本」として、ウォン・ヨウランの書いた本を読んでいる人間がいるということである。そしてその人物は、レオンの人生をちょっとした娯楽小説でも読むような感覚で、手軽に消費しているのだ。もちろん、日本円にして千六百円もする本を金をだして購入したのであるから、その権利はその人のものではあったかもしれない。だが、レオンはやはりヨウランのことが再び許せなくなってきた。自分が彼女の実の父に犯されている場面を誰かが読んでいる時――たとえば、宅急便を運ぶ配達員がインターホンを鳴らしたとしよう。そうしたらその人物は、「今、いいとこだったのに!」などと言いつつ、本のページの端をちょっとだけ折り、玄関口へ出ていくかもしれない。そして、『汚れたピアニスト、レオン・ウォンの真実』なる本もまた、彼(彼女)は三日前に同じようにしてアマゾンの宅配便で手に入れたのであった……もし、そんなことなのだとしたら?


 自分の苦渋に満ちた人生の一場面一場面が、今この瞬間も、誰かの娯楽、一種のエンターテイメントとして消費されている。それはもともと神経質で繊細かつ、プライドの高いレオンにとって堪らないことだった。あるいは、ドーナツを食べ、コーヒーを飲みながら、今この瞬間、この本を読んでいる人だっているかもしれない。そして、何か自分の見たいテレビの入る時間になると、レオン・ウォンが金持ちの中国人に犯される場面はあとからまた読もうと思い、この場合も本のページの端っこのほうを、ちょっと折っておくのである……。


 そしてこの時、レオンはあることに気づいてハッとした。ページの折られたところは、ウォン家におけるそれぞれの家族の(ヨウランの知りうる限りにおける)心理描写だったため、もしマキがこの本を読んでいて、そこをちょっと折っただけなのだとしても――気に病む必要はないかもしれない。いや、だがレオンは彼女に本を買ってきてもらいながら、『マキには読まないで欲しい』と、あらかじめ言っておいたのである。彼女は自分の頼みを無視し、好奇心を抑えきれず、もしかしてこの本を読んでしまったのだろうか……。


 そう想像して、レオンは何かの発作に襲われたように、弱々しくカウチのほうへ腰かけた。自分は三日の間留守にしていた。もともとマキは読書家である。三日もあれば、こんな稚拙な文章によるヨウランの本など、簡単に読み終わってしまうだろう。いや、実際三日も必要ないに違いない――また、レオンは自分とマキの立場を逆転させて考えてもみた。マキがピアニストとして有名な立場にあり、母親が鬱病で自殺した孤児で、預けられた児童養護施設で虐待されて育ったとしよう。そして、彼女の引き取られた里親家庭にいた姉あたりが天才ピアニストの義妹に嫉妬し、暴露本を発売する運びとなり――マキが半狂乱になってテレビを壊したり、ヒステリーによって壁に穴を開けたりしていたら、自分ならどうするか……。


『あなたには知られたくないの。絶対読まないで!』と言われたところで、やはり自分は読むだろう。君貴と同じく、事実を知らなければ決して相手を守りようがないと、そう考えて……。


(このことは、僕も知らない振りをすべきだ。第一、マキが僕の頼みを入れて、本当に読んでない可能性だってあるんだから……)


 だがこの時、レオンは君貴についていかなかったことを後悔した。君貴が仕事で忙しい間は、ただ黙って彼の仕事ぶりを眺めるなり、あるいは仕事先から戻ってくるのを待っていればいい。とにかく、レオンに今必要なのは、いつでも君貴が傍らにして、自分が寄りかかれば支えてくれる……どんなひどいヒステリーの発作を起こそうとも、彼ならば必ず受け止めてくれると信じられることだった。


『マキに対してだって、俺と同じように寄りかかってみろよ。あいつは折れることなく、むしろバレリーノよろしく、レオンのことを忠実に支えてくれるに違いないぜ』


『バレリーノだって?それじゃ、僕のほうの役割が女のバレリーナってことじゃないか』


 レオンはこの時、憤慨する振りをしたが、君貴の言いたいことはもちろんわかっていた。それに、先ほど自分を迎えてくれた時の感じからいっても……マキは何も知らない可能性が高いような気がした。テレビのほうは自分がぶち壊してしまったとはいえ、寝室のほうに小型のものがもう一台ある。となれば、その後ワイドショーなどで本の内容について取り上げられているのを見たり、あるいはネットで検索して彼女が色々調べたという可能性もなくはないだろう。そして、ここまでのことがわかっていながら、実際目の前にある本を読まずにいることなど出来るものだろうか?だがもし、すでに本のほうを読んでいるにも関わらず、マキが「知らない」振りをするつもりでいるのだとしたら……。


 この三年もの間――レオンは全面的にマキのことを信頼しきっており、何かこうしたことで悩んだということがない。今の時代、普通のカップルであれば、携帯電話の履歴を実はこっそり見たといった小さなことにはじまり、口論ついでの見苦しい相手の癖の指摘、トイレの便座の上げ下げに関する問題、いつもわたしが料理作ってるんだから、お風呂掃除とゴミ捨てはあなたがやってちょうだい……等々、よく考えると、特段そうした日常生活のことでレオンはマキと揉めたことがない。


 いや、むしろそれゆえにこそ――(今までこんなにうまくいってたことのほうがおかしかったんだ)と、レオンは絶望的な思いに駆られた。(普段からもう少し、僕が君貴と顔を合わせればしょっちゅうやりあってたみたいに、マキともたまに小さな喧嘩をするのが普通だったくらいなら良かったんだ。何分、マキは僕が何を言う前から敏感にそのことを察するほうだったし、ほんのちょっとしたことでも彼女が繊細に反応するってわかってたから……喧嘩するようなことさえほとんどなかったんだ)


 マキが本を読んだのか読まないのか、それとも読まなかったにせよ、テレビやネットのニュースを見るか、あるいは本を読んだ人のレビューやブログの感想を読む、ツイッターの反応をチェックする……それで、本を読んでいなくても、本を読んだと同じくらいのことをすでに知っている可能性もあると思うと――レオンの苦悩はほんの数分にして高まった。そして、自分がこの時取るべき道はふたつだと、結局のところ結論が出る。マキが実際には本を読んで知っているにも関わらず、何もなかったようにいつも通りの態度を続けるなら、自分もそれに合わせるべきだ、というのがひとつ目。そしてふたつ目が……思いきってはっきりそう聞いてみる、ということだった。だが、この場合レオンにとってはどちらも問題があった。というのも、自分がこんなに打ちのめされて苦しんでいるというのに、本当に「いつもと変わらない」のだとしたら、自分はある瞬間に切れてしまわないだろうか?また、それ以上に問題なのが――実はマキが何もかも知っているのに知らない振りをしていたことがはっきりした場合、その瞬間、自分は怒り狂って激しく彼女を罵倒してしまうだろう。それこそ、今までろくに喧嘩したことさえなかっただけに、それは修復しようのない破壊力を振るってしまうに違いない……。


 この時、レオンが「ちょっと着替えるね」と言って部屋に閉じこもり、三十分ほどが経過しようとしていた。マキはそのことをさして不審にも思わず、ご機嫌ナナメの息子を相手にあれこれおもちゃで遊んでいたわけだが――猜疑心の最後のせめぎあいで、最終的に悪魔が勝ったと知らない彼女は、レオンが着替えるでもなく、ただ例の本を片手に怖い顔をしているのを見て……ただ驚いていた。


 おそらく、天才、と呼ばれる人間を少しなりとも観察したことのある人であれば、当人のこうした感情の起伏の激しさについて、ある程度理解出来たに違いない。そして、『何か突出した才能のある人物というのは凡人には窺い知れないものなのだろう』と思ったかもしれない。つまり、ほんの少し前までにこやかに話していたかと思えば、突然別人になったようにムッツリ無口になる――あるいは、突然人格が入れ替わったように、百八十度それまでとまったく違う態度を示し、周囲が困惑していても、当人はそのことを特段不思議とさえ感じていない……といったようなことである。レオンは世間向けには、そうした自分の感情の起伏の激しさを巧みに隠していた。けれど、君貴などはマキの口から『レオンはいつも優しい』としか聞いたことがなかったため、むしろ首を捻っていたものである。


「読んだんだろ?」


 レオンは、テーブルの上にドサリと例の呪われた本を置いた。表紙にはアルマーニのスーツ姿の、ヨウランが一番気に入っている彼の写真が載っていたが、無論そんなことはレオンには知る由もないことである。


(読んでないと言ってくれ!)


 そう願いつつ、絞りだすような声でレオンはそう聞いた。だが、マキは飛びだす絵本を手にしたまま、何も答えなかった。「ママ、つづきはー?」と貴史が聞いても、彼女はどこか虚ろな様子をしたままでいる。そして、それこそが答えだった。


「読むなって、読んで欲しくないって、僕は最初に何度も念を押したよね!?そんな簡単なことも守れないのか、おまえはっ。ただ素直で正直なだけが取り得の女のくせして、嘘までつくようになったらもうおしまいだぞっ!この三年もの間、マキがしてきたことといえば、くだらない花屋で働いて小金を稼ぐって程度のものだろ?僕はね――この三年間、時間を無駄にしたとは思わない。だけど、もしマキが君貴の子を生んだというんじゃなかったら、今ここにはいなかっただろうね」


「ごめん、なさい……どうしても、気になって」


 いつものレオンなら、マキが泣きだした時点で、怒りも解けていたことだろう。けれど、彼女が事実を認めたことで、彼の怒りは頂点に達していた。ガラスのコーヒーテーブルに向かって、本を叩きつけて割る。


「なんでだよっ!!さっき、僕がリビングに入ってきた時、マキは全然普通だったじゃないかっ。だけど、そっちの部屋に入ってこの本が書棚に立てかけられているのを見て、ハッとしたんだ。もちろん、僕がそう頼んだとおり、読んでない可能性もある。だけどその調子だと、テレビは僕が壊しちゃったから、ネットででもおそらく色々調べたんだろうなっ。僕はもうマキのことは一切信じないっ!唯一、嘘をついたり、僕が言ったことを守らないことはないって、そう信じられることだけがおまえのいいところだったのに……もう、最悪だっ!!」


 レオンはこの時、自分でもマキに何をしようというのか、わかっていなかった。ただ、マキが顔を覆ってさめざめ泣いているだけなのが気に障り、そんな彼女のことを強引に立ち上がらせようとした。


「こんなひどい過去を経験してきて、可哀想だってか!?だが、おまえに同情されるほど、僕の人生はひどくもないかもなっ。ショパン・コンクールの時にも思ったよ。他のライバルたちは一切僕の敵ではなかった。なんでかわかるかっ!?あいつらは似たり寄ったりの、大量生産されたようなお坊ちゃまお嬢さまだったからさ。本当の腹の底からの苦悩だの、辛酸をなめた経験すらないから、技術面ではどうにかなってもそれ以上上にいく方法のないような連中ばっかりだった。そういう意味じゃマキ、おまえも平凡な女かもな。何分、どこの誰かすらよく知らないにも関わらず、そんな男と初めてセックスしたって意味じゃ、強要されたわけでもない僕よりよっぽど悪いよ。ほらっ、なんとか言えよっ、この淫売女がっ!!」


 息が続かなくなって、レオンはようやくマキの体を離し、荒い息を着いた。マキは壁にどん、と体をつけると、そのままとめどもなく涙を流していた。レオンの言ったことが、そのまま彼の本心なのだとは、彼女も思っていなかった。ただ、自分が本さえ読まなければ良かったのだと、そのことだけが――この上もなく悔やまれていた。


 もし本当に本さえ読んでいなかったら……レオンがどんなに怒り狂って「本当は読んだんだろ!?」と問い詰めてきても、読んでない、知らないと言い切ることが出来ただろう。だがその点、マキはレオンの言ったとおり素直で正直だった。実際には知っているのに知らないとは、読んでいないと言うことは出来なかったのである。


 きっかけは、部屋を掃除した時、ウォン・ヨウランの本の表紙に目が留まったことだった。そして、本の最初の数ページが写真によるページらしいことがわかると、マキはその部分だけ見てみたいと思ったのである。本の著者が秘蔵している写真ということは、レオンの幼い頃の写真もあるのではないかと、そう思ったせいだった。


 だが、最初の一ページ目は、レオンの写真ではなかった。彼によく似た美しい女性の写真が掲載されており、下のほうには「セカンダリー・スクール時代のメアリー・キング。当時十四歳。彼女はすでにこの頃から、実の母親に客を取らされていた」とある。


 そんな馬鹿な、とマキは思った。もちろん、「客をとらされていた」という意味にも、色々あるにはあるだろう。その瞬間、マキは(絶対にこの本は嘘っぱちだ)と確信した。次のページには、児童養護施設時代のレオンの写真が数点あり――集合写真の他、施設のスタッフと一緒に写っているものもある。>>「彼、デイヴィッド・クレイグにとって、プリンスことレオン・キングは子供たちの中で一番のお気に入りだった。彼はこの件で逮捕され、服役したが、出所後に未成年の少年をレイプした罪で再び刑務所行きとなっている」……マキは、それ以上本を読むのが恐ろしくなり、一度本を閉じた。


 この瞬間、マキが最初に感じた感情はまず『怒り』だった。それから、テレビに映っていたウォン・ヨウランの姿が脳裏に思い浮かび、(よくも……!!)と思ったのである。こんなふうに人のプライヴェートを色々調べたり、なおかつそれを他人の目に晒す形で切り売りしようというのだ。(絶対に許せない!!)との思いとともに、マキはとりあえず最初の数ページを気づくと読みはじめていたのである。


 その後、マキが心の奥深くに受けた衝撃は、言葉に尽くせないものだった。君貴が『あいつはすごい奴なんだよ』と言っていた言葉が脳裏に甦っていた。『自分が親から与えられなかったものを、自分と血が繋がってるわけでもない俺たちの息子に与えようっていうんだからな』と……これは偶然だったが、マキが読むのがつらくなってきてページを閉じた場所と、レオンがいたたまれなくなって本を閉じた箇所は、まったく同じであった。


 マキは貴史の分と自分の食事を用意しつつ、もう本の内容のことが頭から離れなかった。また、そうなると今度は、あの本を読んだ人々がどんなふうにネット上で反応しているかということが気になり――レオンの言うとおり、ネットでも検索して色々調べていたのである。といってもこちらは、おもにレオンのことを常時「レオンさま」と呼んでいるような、熱烈なファンたちの反応について、ということではあったのだが……。


 まるでまったく感情のない人形のように、マキからなんの反応もないのを見ると――レオンは「チッ」と舌打ちしていた。そして、「おまえなんかと関わった、僕が馬鹿だった」と言い捨て、ピアノのある部屋のほうへ向かった。彼はそこで、自分の荷物を整理するつもりだったのある。


「レオン、どこ行くのっ!?」


 ボッテガ・ヴェネタのボストンバッグにレオンが自分の服や、最低限必要なものを詰めているらしいのを見て、マキはなんとか彼に追い縋ろうとした。最悪、彼が出ていくのは仕方がない。けれど、今こんな形によってではなく――時間を置いて、冷静になってからもう一度よく話しあいたかった。


「見てわかんない?出ていくんだよ。僕はね、今のことでマキをテストしたんだ。もしマキが僕の言いつけどおり本を読んでいなかったとすれば……僕はこの先、マキの忠実なしもべのようにして一生を終えようと思ってた。僕が一番つらくて大変な時に、一番大切なことを守ってくれさえしたら……それだけで良かったんだ。でも、そんなほんの小さなことも守れないような女とは、もう一緒に暮らせない」


「わたしも、最初はほんとに読むつもりじゃなかったのっ」


 マキも必死だった。自分のためにレオンを引き止めようというよりも――ここを出たあと、彼が君貴と合流するのであれば安心だが、そうとは限らないゆえに、レオンのことをこの瞬間、ひとりにすることだけは出来ないと思っていた。


「ただ、部屋を掃除した時に……表紙のレオンが素敵だなと思って……それで、あなたの小さな頃の写真でもあればって、それだけ見ようと思って……」


「へえ」


 レオンの態度は冷たく、軽蔑しきった物言いだった。


「それで、満足した?僕に色々なことをした犯罪者の顔やらを見てさ。母親は娼婦で、父親は誰かもわからない……まさかそんな男と今まで暮らしてたのかって驚いたんじゃないの?まあ、そんな男でも専業主夫としてはそこそこ役立つし、ふたり目も生まれそうだから、色々利用するのにいないよりはいいってこと?だけど、僕のほうでもうどうでもいいんだっ、おまえのことなんか……」


 荷物をある程度詰め終えると、レオンは止めようとするマキの体を強引に押しのけた。彼にももちろん、この時点ですでにわかってはいた。ここから出ていった途端、自分が激しい後悔の念に苛まれるだろうということは……。


「待って、レオンっ!!わたしが悪かったわ。これからは、あなたの言うことはなんでも聞くし、家事をするのが嫌だったら、なんにもしなくたっていいのよ。ただ、お腹の子の父親として、レオンがここにいてくれさえしたら、それだけで……」


 玄関に続く廊下を追いかけてきたマキのことを、スニーカーを履いてから、レオンは冷たく振り返った。マキの後ろには貴史もいた。彼はふたりが言いあう間、ぽかんとした顔をして、目を白黒させているだけだった。何分、パパとママが言い争うところなど、見るのはこれが初めてだった。ゆえに彼は一体何が起きているのか、単純にまるで理解していなかったのである。


「お腹の子は、僕の子じゃないよ」


 貴史にぐずられ、泣かれては堪らないので、レオンは手早くそう言い捨てた。


「病院で調べたってわけじゃないけど、たぶん、僕には子種がないんだろう。そのことはついきのう、君貴にも話した。だから、今後はもう一切僕には関わらないで、実の父親である君貴にどうとでもしてもらってくれ」


 レオンが「じゃ、そういうことだから」と言って、ドアのレバーに手をかけた瞬間のことだった。


「パパ、行かないで……」


 控え目で、純粋な子供の呟きがレオンの胸に響いた。この三年もの間、どれほど可愛がって育ててきたことだろう。いや、むしろ貴史のほうこそが、特に何もせずとも、自分にすべてを与えてくれた。そんなに大切なものを、今こんな形で失ってしまっていいのか?


 だが、レオンはもう引き返せないと思った。そして、関係を断ち切るのであれば、いっそのこと、目茶苦茶に壊してしまったほうが――諦めがつくと思ったのである。


「僕はおまえのパパでもなんでもないっ!!」


 最後にそう言い捨てると、レオンは思いきりバタン!とドアを閉めた。それからもうひとつの鏡張りの扉も通り抜け、エレベーターへと向かう。


 この時、マキは泣きだした貴史のことさえ放っておいて、レオンのことを追いかけようとした。エレベーターがここへ昇って来るまでには時間がかかる。その間、彼の体に追い縋り、しがみついてでも絶対に行かせたくなかった。


 けれど、マキがそうしようと思い、サンダルに足をつっかけた瞬間のことだった。下腹部に鋭い痛みが走り、彼女はその場に蹲った。途端、貴史が泣きやみ、ママのそばまで近寄ってくる。


「ママ、ママ……どうしたの!?」


「うっ、うん。そうね……大丈夫よ、大丈夫だから……」


 マキは一旦、深呼吸した。ほんの暫くの間だけで、痛みのほうは過ぎ去った。次の定期健診は二日後だ。その時に今のことを話そうと、そう思っていた。


「いたた……イタタタタ……」


 下腹部のほうを押さえつつ、マキはとにかく足を引きずるようにしながら、どうにか廊下のほうへ出た。エレベーターがまだ到着しておらず、彼の姿がそこにあればいいと思ってのことだった。けれど、そこにもう彼女の愛する男の姿はなかったのである。


 マキは失意とともに部屋のほうへ引き返してきた。心の底からの深い溜息が、肺の奥のほうから洩れてくる。


「ママー、ママー。パパ、怒ってたね。どうして?」


「ママがね、悪いことしちゃったの。いつもは優しいパパが怒っちゃうくらいのこと……」


 妊娠がわかってからこの二か月もの間、レオンはお腹の子は自分の子だと信じきっているように振るまっていた。けれど、本当は君貴との子だと思っていただなんて……マキは想像してもいなかった。それと同じように、レオンはもしかしたら自分が思っていた以上に色々なことを溜め込んでいたのかもしれない。


『マキさ、ほんとに僕と結婚する気ないの?ほら、生まれてみないとわからないけど、お腹の子は確率的に言って、絶対僕の子だよ。っていうことはさ、少なくともその半分は僕にも責任があるってことだし、子供の今後のことを考えたら、そうしたほうが絶対いいと思わない?』


『そうね。でも……』


『ほら、前にも言ったろ?僕はプロのピアニストであることをやめる。もう映画に出ることもなければ、雑誌でモデルをするつもりない。そしたら一個人として完全に自由だ。あとはまあ、ピアノの教師ならちょっとやってみたい気持ちはあるけどね。そういえばこのこと君貴に言ったら、まずは貴史のことでも手始めに教えてみちゃどうだだって。因果なこと言うよねえ、あいつも』


『そんなことになったら大変よ。まあ、もし貴史にピアノを教えるとしたら……もう少し大きくなってから、別の先生に頼んだらいいんじゃないかしら。その後、君貴さんの血を受け継いで、才能の片鱗を見せはじめたとしたら――レオンに教えてもらうっていうのでもいいかもしれないけど』


 この時、レオンはマキのこめかみのあたりにチュッとキスした。彼は彼女がよくわからないところで、何度もそうしてきたものだった。これは実は君貴もそうだったのだが……マキは海外育ちの人間の習慣として受け容れていた。そして、彼らのこのキスについて、楽譜の休符のように感じていたかもしれない。よくキスは感嘆符に例えられるが、レオンも君貴も「言葉で言い表せない」という時や、あるいはただ単に沈黙を埋めるものとして、マキの額や頬にキスしてくることが多かったのだ。


 ――レオンのいなくなったあとの生活は、マキにとって侘しいものだった。レオンの言い放ったことが、すべて彼の本心だったとは当然マキも思わない。むしろ、自分にそんな言葉を言ってしまったことを後悔し、心から傷ついているのはレオンのほうだろうともわかっていた。だから、一日か二日して、『ごめん。ついカッとしちゃっただけなんだ』と言って、彼がひょいと帰ってきたらどんなにいいかと……マキはただ、ガチャリと突然ドアが開き、その先にレオンが姿を現してくれることだけを夢に見ていたのである。


 けれど、レオンからなんの連絡もないことに深く傷つきつつ、マキはレオンが出ていった三日後に、ようやく君貴に電話した。実はあのあとすぐ電話したのだが、なかなか彼のほうから連絡が返って来なかったのである。それもそのはずで、その頃君貴はミャンマーの奥地のほうにおり、次に彼がマキからの電話を受けたのは、マレーシアのクアラルンプールに滞在中のことだった。


『相当派手に喧嘩したらしいな』


 そのことを知っていて、自分に何も連絡して来なかったのかと思うと――マキはこの時、身勝手な君貴に対し、珍しく腹が立っていた。


『そりゃあなたたちはいいわよ!わたしと違って男同士ツーカーでなんでもわかりあってるんですもの。だけど、わたしの身にもなってちょうだい。わたしのお腹がこんなじゃなかったら、どうにかしてレオンのことを追いかけて、彼に振り払われてどんなに惨めでも――「わたしを捨てないでっ!」とでも言って止めたに違いないわ。でも、レオンが出ていったあと……自分でもショックすぎたんでしょうね。お腹が急に痛くなってきちゃって、少しの間動けなかったの。それで、その間にレオンはいなくなっちゃった』


 ぐすっとマキが鼻をすするのを聞いて、君貴としても胸が痛んだ。一応、事のあらましについては、レオンから電話で聞いていた。そして彼も泣きながら、『マキにひどいこと言っちゃった』と、後悔しているのがよくわかる声色で長々と語っていたからだ。


『まあ、暫くの間お互い距離と時間を置くしかないんじゃないか?たぶん一番いいのはな……マキのお腹の子がレオンの子だっていうことさ。あいつは俺の子だなんて言ってたが、俺自身の願望も含めて、まったくそうとは思えんな。で、その頃にはあのクソみたいな本による騒ぎも静まってるだろうし、レオンのほうではマキに向かって「ごめん」とあやまり、マキのほうでは「いいのよ。とっくに許してるわ」と言ってあいつのことを抱きしめる――それで一件落着ってとこだろう。それよりおまえ、腹の痛みのほうは大丈夫なのか?』


『うん……きのう、病院にいって検査を受けたけど、問題なく順調ですって。いつもはレオンも一緒についてくるって言って聞かないのよ。ほんと、レオンがいなくなった途端、家の中の火がいっぺんに消えてしまったみたい。彼がここへやって来る前まで、一体どんなふうにここで暮らしてたのか、まるっきり思いだせないくらい』


『そうか。まあ、あいつにはマキが寂しがってたと伝えておくよ。それに、今マキが感じてる以上に、レオンのほうがもっと寂しい、侘しい、人生に意味などない……みたいに感じてるだろうからな。他に、あいつに伝えて欲しいことなんかあるか?』


 この時君貴は、クアラルンプールにあるホテルのスイートにいた。五年ほど前に彼が手がけた、コロニアル風のリゾートホテルである。このホテルのオーナーが二棟目のホテルも君貴に設計を依頼してきたため、仕事の際には無料で宿泊していいと言われていた。


「そうね。なんかレオンの情に訴えるみたいであれなんだけど……貴史がほんと、しょんぼりしちゃって元気ないのよ。「パパはぼくのこと、嫌いになっちゃったの?」なんて言われると、わたしとしても胸が痛むわ。だから伝えて欲しいのは、わたしと貴史がレオンを愛してるってことと、いつまででもずっと待ってるから、気持ちの整理がついたら帰ってきてって伝えてくれる?あとは、レオンがいなくなって寂しいってことと、どんなにあなたがいて毎日が輝いてて楽しかったかってことと……今までわたしたち、こんなに本格的に喧嘩したことなかったから、最初の試練として大切なことだと思ってるって言ってくれるかしら。ほら、君貴さんはレオンのヒステリーに慣れてるかもしれないけど、ようするに、レオンのあれはね――あ、ここからは伝えなくていいわよ。自分が相手をどんなに傷つけても愛してるって言ってくれたら、それこそ本当の愛だって思ってるってことなんじゃないかしら」


 マキは昔から心理学系の本を読むのが好きだったが、最近は児童心理学の本なども読んでいる。そこに書かれているカウンセリングの例などを読み、なんとなくそんな気がしていた。里親に預けられた子供が、最初は表面上いい子の仮面を被っているものの、その後万引きをするなどの問題行動を起こしはじめるのは……無意識のうちにも義理の親に対し、「どの程度の人間なのか」と試しているのだろうと。


『なるほどなあ。俺もレオンには言っておいたんだ。マキはおまえが寄りかかっても倒れることはないぞって。まあ、あれだ。俺なんかもう百篇ばかりもレオンから「別れる」、「今度こそ別れる」、「今回こそ絶対に別れる」、「次こそは絶対にないと思えよ、わかったなああっ!!」と言われ続けて、かれこれ十年近くになるのか?それに比べたら、マキとレオンなんか喧嘩するのはこれが初めてなんだろ。じゃあまだまだ全然序の口というわけだ。お羨ましいことだな』


『何言ってるのよ。君貴さんの場合は、レオンが怒って当然の理由があってのことでしょ?わたしとレオンの場合はね、あの本の出版のことさえなかったら……絶対今こんなことになってないってことなの。本当に、わたしだって胸が押し潰されるようよ。わたしがレオンの立場だったとしたら絶対耐えられないと思うし……でも、だからといって一緒に暮らしてて「何もなかった」みたいな顔をすることも出来ないでしょ?それで、わたしの態度にレオンがイラっとしてまたヒステリーっぽくなるとしたら、わたしで良ければ受け止めるわよ。だけどレオンの中ではたぶん……君貴さんのほうが人間が大きくて甘えられるってことなんでしょうね。つまりね、わたしに当たり散らしたりしたら、レオン自身がそのあとずーんと落ち込じゃって、罪悪感でいっぱいになっちゃうってことが問題なんだと思うの』


『それでおまえ、あの本は全部読んだのか?』


 そんな男と一緒に暮らしてたとわかって、マキもがっかりしたと思うよ――レオンは何かそんなことを言っていたが、君貴にはわかっていた。彼女の中で問題なのはそんなことではまるでないということが。


『うん……本当はね、レオンにそう問いただされた時には、本の割と最初のほうを読んだだけだったの。児童養護施設での虐待のことが出てくるところまで進んだあたりで――わたしが逆の立場なら、確かに絶対読んで欲しくないだろうと思って、それ以上読まなかったの。あんまりショックすぎて涙が出て、それ以上読み進められなかったっていうのもあるけど……つらかったけど、レオンが出ていってから、一応すべて読んだわ。わたしがそう本当のことを言っても絶対信じないだろうと思ったら、全部読んでしまったほうがいいと思ったの』


 君貴は、マキが話している途中で涙声になっていることに気づいていた。そして、ふとあることに思い至る。もしかして、これこそがあのウォン・ヨウランの目的だったのではないかと。もしそうなのだとしたら、自分たちは彼女の奸計に見事に嵌められてしまったのだということになる。


『レオンも言ってたぞ。もし自分とマキの立場が逆だったとしても、自分なら絶対本を読んだと思うって……だから、そのことでマキのことを責めたいわけではないそうだ。ただ、唯一あの児童養護施設のことでは情緒不安定になって、自分でも何を口走るかわからなくなるってことだった。だがまあ、今マキの言った言葉を聞いたら――あいつも喜んで前までいた楽園へ帰ろうと思うんじゃないか?』


『楽園?』


 自分たちの愛の巣は、そこまで大袈裟なものだったろうかと思い、マキはそう聞き返した。


『なんだっけな。アダムとイヴは禁断の果実を食べて楽園を追い出されたわけだ。で、今回の場合はレオンがマキに対して「なんでそんなもの食ったんだ」って責めたわけだろ?だがまあ、用意されたシチュエーションからして、それは食べるべくして食べられ、読むべくして読まれたことなわけだ。で、アダムはほんとは何も悪くないイヴに対して激怒し、もうふたりもガキがいるってのに、三人を置いて楽園から「あばよ」とばかり出ていった――だが、レオンは後ろめたいあまり、なかなかそこへ帰ることが出来ないわけだ』


「そんなこと……いつでも帰ってきてってレオンには言っておいて。わたしも貴史も……お腹の子も、ずっとあなたのこと待ってるって。あとね、淫売女がお金を払ってでもあなたとやりたがってるって言ってたって伝えておいてくれる?」


 ここで君貴は、素っ頓狂な声を上げて笑った。


『はははっ!!あいつ、おまえにそんなこと言ったのか?まったく妊娠中のワイフに向かってどうしようもねえ奴だな。流石の俺でも、そんな言葉は口が裂けても出てこないぞ。ここまでくると、レオンのヒステリーも一種の芸術だな』


「笑いごとじゃないのよ、もうっ」


 どうやら君貴はそこまでのことは知らなかったらしい。知っているものとばかり思っていたマキは、最後の伝言内容について、少しばかり後悔した。


「そもそも、わたしだって氏や育ちは大したことない、ほんとにただの平凡な女ですものね。その点、レオンと君貴さんはやっぱり竜なんじゃない?ほら、君貴さんは由緒正しい生まれの、ドラゴンの家系かもしれないけど、竜人っていうのは、いつでもどこでも生まれるってわけじゃないものね。レオンはただ、自分が他の凡人と違う竜だってことに誇りを持ってたらそれでいいんじゃないかしら」


『どういうことだ?』


 君貴も、彼女が自分とレオンの関係を『竜の舞踏』と呼んでいることは知っていた。けれど、その具体的な意味を聞いてみたことはない。


「だからね……んーと、どう説明したらいいかしら。君貴さんのお母さんは『子供が三人もいるのだから、ひとりくらい竜になるだろう』と思って、お子さんたちを育てたわけじゃない?それが由緒正しき竜の家系っていうことよ。だけど、その由緒正しき家系にも、いつでも竜人が生まれるわけではない。レオンは言ってみれば、突然変異の竜だってことだと思うの」


『ああ、なるほどな。たとえば、天才ピアニストの息子や娘が最良にして最高の音楽教育を受けたにも関わらず、竜に化ける能力を授かるわけではないというやつだな。まあ、いわゆる材料論ってやつにも似てる。有象無象の人間が生きては死に、生きては死にを繰り返す中で……時折、ナポレオンのような価値のある歴史的人物が生まれてくる。あるいはたとえとしては仏陀やキリストなんかでもいいんだろう。だが、それ以外の人間は、道端の名もない草のようにただ次に命を繋ぐだけの材料にしか過ぎんわけだ』


「だからわたし、君貴さんには申し訳ないと思ってるわ。わたしは貴史やこれから生まれてくる子が、あなたやレオンの才能を受け継いでなくても……それはわたし自身が大した人間じゃないからだってことですものね、DNA的に。だから諦めもつくけど、君貴さんやレオンがもっとしかるべき女性と結婚して子供を作ってたら、たぶんそうしたちゃんと竜に化けられる才能のある子だった可能性がずっと高いんですもの」


『おまえ、前に一度だけ阿藤家の人間の集まりに行った時……思わなかったのか?この中では唯一、貴史だけが将来なんとかなりそうだ、みたいに。少なくとも俺はそう思ったがな』


 今度はマキのほうが笑う番だった。マキは正式に君貴と結婚しているわけではないため、肩身の狭い思いをするのではないかと不安だったが、それは杞憂というものだった。まずは貴史のおじいちゃん・おばあちゃんということになる、指揮者の阿藤貴生、それに耀子のふたりと正式に挨拶し、その後は姉夫婦とその息子ふたり、弟夫婦とその三人の子供たちに紹介されたわけだが――この時貴史は、まだ三歳という年齢のせいだろうか。とにかく一番の人気者だった。


 この集いの中でマキにとって一番おかしかったのは何より……君貴の姉の美夏が始終やんちゃな息子たちを容赦なく叱りつけることであり、夕食のほうは美夏とマキのふたりで作ることになったのだが、この時耀子がふらりとやって来て、『あんたの旦那、相変わらず見てるだけでイラつくわね。梅干しでも食べたみたいにしょっちゅう口をすぼめるあの癖、なんとかならないの?』と言ったりしたことだったろうか。


「美夏さんの息子さん、今十二歳と十歳なんだっけ?君貴さんのこと尊敬してるのねえ。あなたに会ったあと、暫くの間はふたりとも『君貴おじさんごっこ』をしてるって、美夏さん言ってたわ。学校で進級して、担任の先生が変わったあと……『今度の先公は大したことなさそうな顔した奴だったよ』なんて言ったりするんですって。友達を評して『あいつは将来ろくなものにならなそうだ』って言ってみたり。弟の崇さんの子供は三人とも礼儀正しいし、もうピアノやヴァイオリンで賞を取ったりしてるんでしょう?将来のことなんて、誰にもわからないわ」


『はははっ!悠貴と貴翔はなあ、たぶんなんか俺のことを、世界中を飛び回ってる海賊か何かと勘違いでもしてるんだろうよ。美夏の奴とはたまーに会うと、「息子たちに変な影響与えるようなこと言わないでくれる?」って釘を刺されるんだがな。崇の三人の子供に関して言や、三人とも才能が小粒だな。たぶんあれは頑張って努力して中粒よりも大きくなればいいといったところだろう。でも、どうなんだろうな。そんな生徒でもレオンのような天才が一生懸命教え込めば、どうにかなったりするのかね』


「可愛い甥や姪に向かってひどい言い種ねえ。なんかわたし、美夏さんに妙に気に入られちゃった。空気的にも感じたけど、崇さんのお嫁さんの茉莉さんのことは、実はあんまり好きじゃないんですって。だけど、お義父さんもお義母さんもすごく公平で平等な感じの方なのね。孫たちのうち、誰かひとりを贔屓にするとかじゃなくて――まあ、貴史はまだ小さいから別としても、何か特別扱いしない感じですものね」


『美夏の奴は昔から、女に手厳しいんだぜ。おふくろもマキのことが気に入ったらしいとあいつも言ってたぞ。あのふたりは物凄く偏見がキツいから、俺と同じくあんまり好きじゃない奴に対してわざわざ好意を示したりはしない。簡単に言えばそんな暇人じゃないというわけだな。崇の嫁に関してはだな……マキも思っただろうが、ようするにいいとこのお嬢さんなのさ。小さい頃からバレエとピアノを習ってて、それで今は非の打ちどころのない良妻賢母とかいうやつだ。美夏とは月とスッポンだからな。気が合わなくても仕方がない』


「ふうん。わたしね、なんでかわかんないけど、昔から美夏さんみたいな体育会系の女子に『わたしたち、仲間よねっ!』みたいに思われて、がしっと肩を抱かれることが多かったの。茉莉さんは、普通に感じのいい上品な人みたいに見えたかな。崇さんは場を取り持って、みんなが盛り上がれるように気を遣ってて、いい人なんだな~なんて思ったり……」


『まあ、あいつにはあんな才能しかないんだろうよ。ヴァイオリンのほうも、大衆受けを狙った小手先の芸人風だしな』


 君貴は軽蔑しきったようにそう言った。とはいえ、兄弟仲はよく、彼がピアノを弾き、崇がヴァイオリンを手にすると、子供たちはその全員が彼らのまわりに集まってきたものだった。


『なんにしても、これもレオンのお陰といっていいんだろうな。べつに俺自身は今後一切阿藤家と関わりなんかなくてもどうってことはなかった。だけどまあ、親父が貴史と嫁の顔を見せに来いだなんて言うもんだからさ。間違いなくおふくろがそう言わせたんだとは思うんだがな』


「そうよね。わたしたち、レオンに感謝しなきゃいけないことが山のようにたくさんあるわよね……」


 このあと、マキと君貴はなんとなくしんみりし、マキは彼にレオンに対する伝言をあらためて頼んでのち、電話のほうを切っていた。一方、君貴のほうでは、豪華な広いスイートルームのほうを見回して、溜息を着いた。こんな場所にひとりで宿泊しても虚しいだけで、今ここにレオンやマキがいればどんなにいいかと、ついそんなふうに感じてしまう。


 君貴はこの時、パソコンでメールをチェックすると、そのあと今度はレオンに携帯から電話した。出ないかもしれない……と君貴は思ったが、とりあえず自分からの着信があったとわかれば、なんらかの形で向こうから連絡してくるだろうと思ってのことである。




 >>続く。








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