4.歌と仲間と太陽と
九曜の事務所内、会議室。時計とホワイトボード、簡素な机と椅子しかないそこに、「九曜」のメンバーが集っていた。九曜の中でも特殊な力を持つといわれるメンバーは、現在五名だ。
「命婦というのは稲荷社に祀られている神様だと思ってください」
缶コーヒーを飲みながら、嘉音は説明を受けていた。先日出会った白い狐の「みょうぶさん」の夢について、報告をしていたのだ。
「それじゃわたし、神様の夢に入ったの?」
「ということになりますね。場所が稲荷社だったようですから……」
「今は更地だ」
清明の視線を受けて、来生が事務的に付け加えた。
「もっといろいろ聞きたかったんだけど、誰かにみょうぶさんのおうちが壊されてしまって、みょうぶさんは天に帰って行ったわ」
ざっくりとしか言うことができない。具体的に何がどうなったというのは、嘉音にもよく分からなかったのだ。
「怨霊が出そうな雰囲気ではあった。誰かが意図的にご神体を破壊し、怨霊化しようと狙ったんだろう。だが、怨霊は現れなかった」
「ご神体っていうのが、お嬢ちゃんの言う、命婦さんだね。壊されて怨霊になりかけたのに、天に帰って行ったって?」
なんと伝えたらいいのだろう。
「来生さんがわたしを庇ってくれて……建物が壊されたとき、みょうぶさんが恨みたくない、って悲鳴を上げたの。みょうぶさんは白い狐なんだけど、そのふわふわの身体が裂けて、変な塊になって」
うまく説明できているだろうか。四人が聞いているので、嘉音はそのまま続けて話した。
「みょうぶさんに帰ってきてほしくて、歌を歌ったの。朝日が差したと思ったら、わたしが強く光って、変な塊の中から白い毛玉が出てきて――それがみょうぶさんで。わたしのことを「わたくしのスーリヤ」って言って、天にのぼっていったの。気付いたらわたし、泣いてたんだわ」
じっと聞いていた眞人が、来生に聞いた。
「白い狐を、キョウは見てないんだよね」
「あぁ、見ていない。姫が歌うのも、聞いていない。ずっと泣いていた」
泣いていたのは嘘ではない。ふたりが事務所に帰ってきたとき、嘉音の目は泣きはらして赤くなっていたし、それは全員が見ている。
「んー。神秘体験は横に置いておいてぇ、かのんちゃんは、命婦さんに何を見せてもらったの?」
何を。
命婦が自分の夢だと言ったあの場所で、見たことは。
嘉音は自分の身をぎゅと抱きしめた。そして、覚悟したように言った。
「みょうぶさんのおうちで、誰かが、お祖父さまがわたしを招くのをとめるために、新しい術式で九曜を滅ぼそうって話していたわ」
誰とまでは、命婦は示さなかった。命婦が見たことを見せてくれたのだと思う。
「あそこでそんな話し合いをするような団体が、お祖父さまを殺したんだわ。みょうぶさんもきっとその人たちに――」
嘉音に関わってしまったために。
九曜のスーリヤに、関わってしまったために。
「お祖父さまのことは残念に思うけど、なんで待っててくれなかったのか、恨み言を言いたいくらいで、実感はないの。だって会ったことのない人なんだもの。だけど、みょうぶさんをあんなふうに利用しようとしたのは許せない。わたし、もっと話を聞きたかった。話をしたかった」
「とりあえずその団体を叩くまでは、スーリヤとして協力してくれることになった。俺はそれに異論はない。皆はどうだ?」
嘉音は組んだ手を強く握りしめた。これは私怨だ。けれど、命婦は嘉音にとってはじめて得た理解者かもしれなかった。
「そのあとのことは、なったときに考えるさ。オレも賛成」
「僕は何も知らない状態の嘉音さんに無理を強いたことを謝ります。ごめんなさい。その上で、協力に感謝します。一団体でも叩ければ、この街も変わっていきます」
「私が反対するわけないじゃなぁい。かのんちゃん、気付いてあげられなくて、ごめんねぇ」
嘉音はようやく九曜に理解者を得た気がした。いや、今までだって彼らなりに気遣ってくれてはいたのだろうが、歩み寄るには距離が遠すぎたのだ。
まずはお互いに、一歩ずつ。
「わたしはわたし以外の何にもなれないけど、見たこと、知ったこと、ぜんぶ話すわ。お祖父さまやお母さまがわたしに何を期待したかも、考えないことにした」
今まで嘉音には一欠片の期待もかけられていなかった。だから期待は重圧になった。
期待を気にしない、といえば嘘になるだろう。気にはなる。だけどそれに固執することをやめることにした。ルートヴィヒの名を捨てる覚悟があるように、スーリヤもずっと続けなければならないという概念を取っ払った。
そうすることで、一種覚悟のようなものが嘉音に生まれた。
「どこの誰かしらないけど、わたし、その人たちを許さないわ――許せないの」
はじめて抱いた強い想いに、嘉音は自分で驚いていた。そんな気持ちが自分に芽生えるなんて、思ってもみなかった。
誰も必要とせず、誰にも必要とされず、生きていくのだと思っていたから。
「ンじゃオレはセヴィンから情報収集してくるわ。清明、つきあって。キョウはお嬢ちゃんについててやんなさい。いいね」
「待って、わたしもセヴィンに会いたいわ」
聞きたいことがある。気になっていることがある。
セーラー服の上にピーコートを羽織り、眞人と清明の後を追いかけた。
セヴィンは相変わらず、中性的な格好をしていた。声が低いことと肩幅が広いことを除けば、本当に性別が分からない。
「会いたかったわ、姫さん」
軽くハグして挨拶を交わす。コンスタンティノポリス流の挨拶を、嘉音は懐かしく思い出した。
「九曜跡地の襲撃? あれ、本当に情報がなくって。何でもいいから情報出しなさいよ、マナト」
眞人の筋肉質の肩を叩きながら、セヴィンは軽く言った。
「あーそれじゃそれは後回し。今回はお嬢ちゃんが持ってきたネタの方を頼みたいんだ」
「新湊稲荷社が壊されたのをご存じですか?」
ふたりに比べると子どものように小さく見える清明が、セヴィンに確認した。
「もちろん」
にっこりと、セヴィンが返す。
「では、その新湊稲荷社を会合の場所として使っていた団体を教えていただけますか」
「あそこはたまに金翅の連中が使ってたはずよ。――なにが分かったか、教えてくれるんでしょうね」
きらりと目を光らせる。如才ないのはさすがだ。
「それはわたしが言うわ。その建物で、あの大崩落のことを話し合っていたの。九曜を新しい術式で滅ぼすって」
話を聞いていただけの嘉音が、ようやく話に加わった。
「スーリヤを召喚させないためだそうよ。でももう遅い。わたしは、ここにいるもの」
「なるほどね、何となく分かった。それに関してアタシからも、ひとつ情報提供してあげる。金翅の連中が、大掛かりな術を仕掛けてる可能性があるの。それを新湊稲荷社で話したか隠したかしたらしくって、今回の破壊は証拠隠滅じゃないかって思ってる。ま、思うだけで確たる証拠はないんだけど」
嘉音は強く拳を握りしめた。
――金翅守護団。それが、当面の敵。
「ありがとう、セヴィン。わたし、金翅守護団を壊すわ」
あまりにも語気の強かったその言葉に、セヴィンは目を丸くした。
「姫さん、何かあった? 心境の変化?」
変化があったかと問われれば、あったと答えるしかない。嘉音は大きく頷いた。
「お友達になれたかもしれない白い狐さんを、その人たちは壊して利用しようとした。個人的な理由でごめんなさい、でもわたし、かなしかった。許せないって思った」
セヴィンが真っ赤に塗られた爪のある指先で、嘉音の鼻先をつついた。
「姫さん、あんた可愛い顔するじゃない」
ふふんと笑うセヴィンは、何だか楽しそうにも見える。
けれどほんわか女子トークをしている暇は、九曜のメンバーにはなかった。眞人がちょいちょいと指先でセヴィンを呼び、肩を組んでから、親しげに、しかし逃がさないという意志を持って話を差し戻した。
「金翅の連中の術ってのには、目星がついてるんだろ。場所は?」
「詳しい地点までは分からないわ――でも、昔あったメトロの地下空間、あれを利用するみたい。今度こそ九曜をスーリヤごと、がおおまかな目標ね。発動が先か知らせるのが先かひやひやしたけど、まだそんな大事故は発生してないし、だからほら、アタシをほめなさい」
「セヴィンはえらいえらい、良い子良い子。ンじゃオレはそれ確かめにいくから、清明お前、お嬢ちゃんのこと頼んだ」
眞人はセヴィンの頭をぐりぐりと撫でてから、その手を清明の頭にぽんと置いた。
「一人で行く気ですか」
清明の表情はやや険しい。心配なのだろうか、押しつけられて怒っているのだろうか、嘉音には分からない。後者だったらちょっとせつない。
「オレの頭に東京市の地図が入ってるの、お前は知ってるだろ。そんな怖い顔すんなって」
どうしてここに来生がいないのだろう。彼がいたなら、眞人は一人で行動せずにすんだはずだ。
そんなふうに、いつの間にか来生を頼っている自分に、嘉音は気付かなかった。
結局、車に乗ることもなく、眞人は歩いて行ってしまった。
「清明さん、東京市ってどのくらい広いの」
歩いて、求める力場を探せるのか。
「嘉音さんには怖ろしく広大でしょう。僕は車で移動するならそう広くないと思います。でも眞人には庭みたいなものだと言われたことがあります。ここで生まれ育っていますし」
「姫さんは心配性だね。意外にこの街は狭いんだよ」
「狭い割に、大崩落の情報は入手できていないんですよね」
しれっと言って返す清明は、眞人とは別のベクトルでセヴィンと仲が良いらしい。
「これでも身体張った商売してるのよ。坊やが言うほどいろいろ甘くないの」
清明の鼻を摘まんでちょんとはじく。それからセヴィンは、ふふんと楽しそうに微笑んだ。それから長い睫が上下して、嘉音にウィンクを寄越した。
「甘くないことを眞人は知ってるからね、姫さん。信じてあげるといいわ。なぁに、何か不満なの」
いいえと嘉音は首を振った。不満は、分からない。でも。
「不安なの。どうしていいか分からないの。信じるって、信じられるってどうしたらいいの。わたしには分からないことだらけ」
セヴィンは小首を傾げた。似合っているのだか似合っていないのだか分からない仕草だが、それはとても板についているように見えた。
「どうせ来生や早瀬少将にはアタシのこと信じるなって言われてるんでしょう。姫さん、疑うことは知ってる?」
高い位置から見下ろされて、嘉音としては少し居心地が悪い。来生に言われたことを当てられたことも、それに拍車をかけている。
「本当じゃないかもしれないって思うこと。……セヴィンの言っていることの中に、嘘があるっていうことなのかな」
そうされるのはかなしいけれど、仕方がないとも思える。セヴィンは祖父の部下ではなく、スーリヤを奉じるものでもない。
「まぁ、半分信じて半分疑うくらいがちょうどいいのよ。信じるのは疑うことの逆って覚えておいたらいいわ。アタシは姫さんに、嘘をつく人間だと思われてるって思ってる。だけど、だからって、姫さんを嫌いになるかっていうと、話は別」
何だそれは。セヴィンは嘉音を好いていると、そういうことでいいのだろうか。
「わたし、セヴィンのことはよく知らないから、どう思ってるのか分からない。嫌われてたら……ちょっといやだけど、好かれるのは、どうしたらいいか分からないから、困る」
それは本心だった。
嘉音の心は幼い。大人でありたいと背伸びをしたくても、その方法が分からない。
「アタシのことは信じちゃだめよ、お姫さま。でも、アタシの届ける武器のことは信じてちょうだい。こいつらは、嘘をつかないから」
トラックの幌を叩いて、セヴィンは微笑む。
「確かに、セヴィンを頭のてっぺんからつま先まで信じることは無理でも、武器はちゃんと使えるものを届けてくれますし、早瀬少将も杏さんもセヴィンの届ける武器を使っていますから、そこだけは信じていると思いますよ」
清明の言葉に、嘉音は頷いた。
「分かったわ。セヴィンの武器は信じる」
「いい子いい子。そうそう、姫さんがスーリヤだって前に紹介されたけど、それで思い出した件があって」
にこりと微笑みかけられると、返さなければならないのかと思ってしまう。けれど嘉音の頬はかたく、笑みがうまく作れない。だから首だけ同じ方向にわずかに傾げて、続きを促した。
「思い出したこと?」
「そう。早瀬少将から聞いたかもしれないけど、本人以外には渡すなって言うから、すっかり忘れてたわ。スーリヤは小さな女の子だって聞いててね。想像してたより大きな女の子だったけど、この際返しちゃうわね」
返す。祖父はセヴィンに何かを預けていたのだろうか。
セヴィンはトラックの荷台に乗り込んで何かを探している。嘉音は清明を見上げた。
「清明さん、何か聞いてる?」
「セヴィンのことを嫌っていた早瀬少将がセヴィンに頼むようなことに、心当たりがありません」
清明も驚いているようだった。
けれど、祖父がセヴィンに預けていたからこそ、その「何か」は嘉音の手に渡ることになった。もし祖父が持っていたなら、瓦礫の中だ。
「あったあった。ま、アタシが頼まれるものだから武器なんだけどね」
大きな、というよりも長い金属製のケースを抱えて、セヴィンがトラックの荷台の幌から顔を出した。
「ケースはアタシが用意したの。早瀬少将は袋に入れて持ってきたんだけど、アタシには同じ真似はちょっとできなかったわ」
嘉音はセヴィンに手招かれ、トラックの後ろへと回った。清明もそれについてくる。
ふたりが前に並んで立つと、セヴィンはケースの鍵を開けた。
中からは、きらきらと透明に輝く剣――日本刀が出てきた。長さが百三十センチほどもあろうかという大太刀だ。
「スーリヤの武器なんですって。曇ってるから磨いてくれって頼まれて、磨いたは良いけど返しそびれてたの。でもこれ、トマトも切れないのよ。まぁ、さやがないからいいかもしれないけど、何に使うんだか」
柄には平紐が巻かれている。恐らく、握りやすいようにという配慮だろう。けれどその平紐以外のすべてのパーツが透明で、むだにきらきらしい。
「わたしの武器……?」
ということは、恐らく破魔の。
この煌めきは、太陽の光。
「セヴィン、何でこれでトマトを切ろうとしたんですか」
「あら、ちゃんと使えるかどうかは武器屋として確かめないとと思ったのよ。でも、よく考えたら、磨いただけで研いでないんだから無理よね」
嘉音は大太刀に手を伸ばした。身長よりは短いけれど、それでも相当の重量物であろうそれは、嘉音の手におさまると軽々と持ち上げることができた。セヴィンが目を瞠る。
「重たいでしょ」
「――軽いわ」
「まさか、磨くのに苦労したんだから。あらヤだ、お姫さまあなたむだにきらきらしてない?」
え、と返そうとした。
大太刀の柄を握る右手のひらが、ぼんやりと発光したようになっている。左手を見ると、やはり淡く光っている。
夢と同じだ、と思った嘉音は、自分の胸元を見た。えんじ色のスカーフが揺れるそこは、強い光を放っていた。
「清明さん、セヴィン、わたし変だわ」
ただの特徴のない女の子だったのに、いったいどうしたというのだろう。この街では変なことが起こりすぎる。
「その剣を置いてみてください」
清明に言われたとおり、その言葉に縋るようにケースの上に大太刀を置いた。すると、両手の淡い光は消えた。けれど胸元は光ったままだ。強くはないが、光を抱いたようになっている。
「専用武器?」
セヴィンの声に、涙目の嘉音が首を横に振った。
「使い方も分からない専用武器なんて、いらない。どうしよう、どうしたら消えるの」
清明が自分のマフラーを取って、嘉音の首に巻き付けた。
「とりあえずこれとコートの前を留めることで隠しましょう。事務所に戻ります。セヴィン、これはケースごともらっていいですね」
「ケース代上乗せしておくからいいわよ」
にっこり微笑んで、ひらひらと手を振る。それに小さく会釈で返し、清明はピックアップトラックの助手席に嘉音を載せた。自分は運転席におさまる。
清明の運転は、口調と同じで丁寧だった。
「へぇ、スーリヤだってのは、デタラメじゃなさそうね」
ふたりが去ったあとにセヴィンが独りごちたのを、嘉音は知る由もなかった。
半泣きの嘉音が事務所へ帰ってからしばらくして。甘いコーヒーと清明の手作りお菓子で気持ちを落ち着かせた嘉音は、眞人と来生の帰りを待った。
胸元の光は消えず、部屋は「九曜」メンバー以外立ち入り禁止というシェアラの張り紙で何とか守られている状態だった。大事な大事なスーリヤの泣きべそだったから機関員たちはさざめき立ったが、シェアラの「女の子には泣きたいときだってあるのよぅ」という茫洋とした言葉で丸め込まれて、今は部屋の外から中を静かにうかがっている。
「困ったわねぇ、少将はいないしぃ」
「このままだと自分がスーリヤですと言って歩くようなものになりますしね」
甘ったるいコーヒーを口に含みながら、清明も溜め息をついた。
自分なんかが迷惑はかけられないと思っているのに、嘉音には解決できない問題だらけで、本当に戸惑う。
「これが、問題の剣?」
「きらきら透明でスワロみたいなの……だけどすごく大きいし、セヴィンは重いって言うのにとっても軽いし……」
もうわけが分からない。誰がこんな意地悪な運命を用意したというのだ。特定の信仰宗教を持たないから天罰が下ったのだろうか。でもいったい誰から。
「ふたりがいつ帰るか分からないから、私たちだけで当面どうするか決めないとねぇ。敵を引きずり出すにしても私は役に立たないしぃ……そういえば、相手はどこだったのぉ、清明。このあいだの事務所跡地の襲撃」
聞かれてみて、嘉音と清明は自分たちがだいぶん困惑していることに気が付いた。はじめに殴りかかる相手を見定める情報を得るのが、今日のセヴィンとの対面の目的だった。
清明は勢力の状況を記した地図を前に、ここ、と指差した。
「金翅守護団です。彼らは大掛かりな術の準備をしているということで、それを探しに眞人が市街へ。杏さんはそれに合流しに行ったのではないですか?」
「えー私知らなぁい! いつの間にそんなに大変なことになってたのよぅ。ずるぅい私だけ仲間はずれー!」
シェアラの抗議はもっともなものだったかもしれないけれど、嘉音にはそれを思いやる余裕がなかった。
「別に外したわけじゃない。たまたまシェアラさんがいなかっただけ」
「教えてくれたっていいじゃなーい」
「そんな暇なかった! わたし、こんなになっちゃってどうしようって……戻れなかったらどうしよう。わたしふつうの人じゃないみたいだよ」
もういっぱいいっぱいだった。コンスタンティノポリスに戻りたいと願っても、このままでは帰ることはできない。あのまま学校を卒業し、ルートヴィヒの名を捨てて、埋没した市民として生きていくことが自分の生きる道だと思っていたのに、それができない。それは衝撃というほど激しいものではなかったが、じわりと嘉音の心を蝕んでいる。
「金翅守護団にやり返すまではスーリヤって呼ばれても仕方ないって思った。でも、ずっとはむりだよ。わたしふつうの女の子だよ……」
清明がぽふんと嘉音の頭に手を載せた。そのまま優しく撫でる。
「僕たちはちょっとふつうじゃありません。でも、九曜の人たちはそれを迫害しないんです。僕は九曜に来てから発火能力が発現しましたが、杏さんやマナトさんはそうじゃなかった。シェアラさんだって、逃げるようにして海を渡ってきたんです」
「元に戻りたいって思わなかった?」
「いっぱい思ったわよぅ。死にたいって思ったわよぅ。でも、それでも早瀬少将が、私を必要としてくれたんだものぉ」
祖父が、必要としてくれた。
なんだ、わたしと同じじゃない。
「呼ばれたの?」
「引き合わされたのよぅ。あとで聞いたら、セヴィンの会社の人だったみたいねぇ、コーディネーター。捨てられた異能の小娘と、能力者を探している壮年をね、マッチングしてくれた人がいるの。名前は忘れちゃったわ」
そうして早瀬彰がひとりひとり集めたのが、九曜だ。
九人揃ってはいない。それを揃えて、この東京市に都市国家を作ることが、母から言い渡された課題だった。
「わたし、お祖父さまと同じことはできない」
「同じことをしろとは、僕は言いません。たぶん、杏さんも眞人も。シェアラさんもですよね」
「言わないわよぅ。だってかのんちゃんは早瀬少将じゃないんだもの」
さっきまで怒っていた顔はどこへやら。頬を膨らせて拗ねた表情は隠さないが、へそを曲げている様子はない。
「わたし、お母さまに九曜の組織づくりを引き継ぐように言われたの。それって……やっぱりゴーストに、怨霊に対抗できる能力者を探さなくちゃならないのよね」
溜め息をついた。こんな姿では外を歩けない。
「ママの言うことをぜんぶ聞くのなら、かのんちゃんはずうっとスーリヤをやってかなくちゃならないのよぅ?」
痛いところを突かれた。そうだ。この東京市に都市国家を作ることが、母の、新世界政府の意向だった。
できるならば応えたかった。
でも、むりだと思った。
スーリヤがいったいどういう存在なのか、祖父がいないと分からないのに、その祖父はもういない。
(お祖父さま、わたしを見守ってくれてるなら、どうしたらいいのか教えてよ)
夢でしか会えないなら、夢に出てきてくれるのでいい。頼ってきたはずの人がいないのは、心細い。
それなのに、組織の要になれといわれても、困る。一度逃げ出したけれど、そう、逃げ出したけれど、なぜ戻ってきた。
命婦が微笑んでくれた。来生が庇ってくれた。来生の傍でなら、命婦の仇討ちができるかもしれないと、思ってしまった。
それほどまでに心を許したのだろうか。
でも――だけど、嘉音がスーリヤだから、そばにいてくれる人がいる。スーリヤじゃなかったら? もしくは、スーリヤではなくなったとしたら?
それでもみんなは、来生は、嘉音を必要とするだろうか。
要らない子だったときは、何も考えなくて良かった。失うものなんてなかった。だけど今は、捨てられることが怖い。スーリヤになるのが怖いのは、重圧だからだ。でも、それだけじゃない。一度スーリヤだと認めてしまうと、それ以外のレールは選べない。必要とされたら、その甘美な感傷を、手放したくなくなってしまう。
「はじめてお母さまがわたしにわたしにしかできないかもしれないことを求めたの」
ルートヴィヒの名を汚さないことは、ルートヴィヒの名に連なるものならばすべてが心得ていることだ。
「怖いの。失敗したら失望されるのも怖いし、そばにいてくれるみんながいなくなってしまうことも、今は怖い」
「かのんちゃん……」
守られることが怖い。その人をなくしてしに留め置いておかなければならない。
だけれど、嘉音はスーリヤとして早瀬彰に呼ばれた。それをゲルトルーデ・ルートヴィ
ヒが認めた。母は嘉音にスーリヤであることを命じた。
まったらどうしようと思う。
現に、祖父は亡くなったではないか。いちばんはじめに嘉音を必要としてくれた人なのに。
「わたし、自分を弱くないって思ってた。強いわけじゃないけど、怖いものなんてそんなになかった。お母さまが何かをしようとしたときにじゃまだからといって排除されるのが怖かったくらい。ゴーストもレジスタンスも現実のものじゃなかったし、なくすものなんて何も持ってなかった。ねぇ、今は怖いよ。みんなが優しいから、よけいに怖いよ。どうしてわたしなんかを守ってくれるの」
スーリヤだから。そう言われると思っていた。
首を竦めて、その言葉を待っていた。
シェアラと清明は、顔を見合わせてドアを開けた。いつからそこにいたのだろう、来生が眞人を連れて帰ってきていた。
「そんなことを考えていたのか」
いつもと変わらない、来生の声は冷たく聞こえる。
「姫、あなたは早瀬少将の孫だ。そして何より、頼ることを知らないひとりの無力な少女だ。数年分多く生きてる俺たちが守ってやらなくて、どうする」
「そうそ、それにさお嬢ちゃん、オレたちこれから都市国家作ろうとしてるの。泣いてる女の子ひとり助けられないやつが、どうやってそんな大それたことができると思う?」
「わたしが――無力な、泣いてる、女の子だから?」
だから助けてくれるというのか。そんなのは切り捨てられる要因でしかないのに。
「男女差別をするつもりはありませんが、怖がって泣いている女性を捨てていくのは人としてどうかと僕は思います」
「私はぁ、かのんちゃんが優しいから。手をつないでくれるから、助けてほしいって伸ばされた手は取るわよぅ」
ほたりと涙が落ちた。
ここにいてもいい。そう迎えられたような気がした。
「わたし……こんなときどうしたらいいのか、知らない」
そんなことを教えてくれる人はどこにもいなかった。嘉音の目から涙があふれた。来生の大きな手が頭の上に載せられ、そのまま優しく抱き止められた。
「俺たちが無理をさせてしまったんだな。無理してスーリヤであろうとしなくていい。祖父の仇を取る孫という立場で、かまわない。早瀬少将には俺たちも世話になったから、恩に報いたい。共に戦ってくれ」
「うん――うん……」
どうしよう。とても怖い。この手をなくすのが、とても、怖い。
失われてほしくないものができるというのは、こんなにも、怖いのだ。
なのに、嬉しいと思っている。こんなにも、心があたたかい。
マグカップには湯気が立っている。温かいコーヒーは缶ではなく、ドリップして淹れたものだ。眞人曰くの、贅沢品。
添えられているカップケーキはやっぱり清明のお手製だった。
円形に並んだマグカップの下には、東京市の地図が広げられている。赤い印が五か所。緑の印が三か所。そして、青い印も三か所。
ばらばらに散っている赤と緑に比べて、青は小さくまとまっている。
「青が九曜の重要地点、旧事務所跡地、新湊病院、そしてここ仮事務所。緑はそれぞれ金翅守護団、協会無明、アルファルド・ヘッド・カンパニーの事務所。で、問題の赤い点だが、眞人」
「はいよ、杏。この五つをこうやって結ぶと」
きゅきゅ、とマーカーの音がして、紙の上に線が引かれる。
わずかばかり歪だが、五芒星が現れた。
「まぁ、星印だな。ペンタグラム、セーマン、清明紋。この星の真ん中が、東京市中央駅だ。何かしたいんだなってのは分かるんだけど、金翅のやつら、吐かないんだよね。下っ端は知らないのかもしれないけど」
「木火土金水を当てているだろう。割り出せなかったか」
「割り出せても、僕たちも揃っていないです。対応できないのでは……」
嘉音は一応話し合いのメンバーに入っているが、彼らの言っていることはいまいちよく分からなかった。
五芒星が昔からまじないのような意味で使われているという最低限の知識はあったものの、それ以外は何も知らない。
「そろうって、九曜が集まることと、この星形と、何か関係があるの?」
説明役を引き受けたのは来生だった。もとより来生は、早瀬少将が嘉音につけた護衛兼説明のお守り役だ。
「九曜は月曜から日曜までの七曜に、羅睺と計都を加えたものだ。五芒星は陰陽五行説……日本にある陰陽道という体系があるが、その基本的な概念にあたる説で五つの元素の働きを示す図として使われる。この五つの元素が木・火・土・金・水で、七曜の中には木曜、火曜、土曜、金曜、水曜がある。それぞれが対応する場所に行って術式を破壊してくれば話が簡単だ、ということなんだが」
「ここには五人いるけど、えっと……スーリヤは太陽だから日曜、みたいな感じでいいのかな。だとしたらはずれてるのか。みんなはあてはまらないの?」
シェアラが首を傾げた。
「みんなってわけじゃないんだけどぉ」
「俺はソーマ、月曜星だ。眞人はシュクラ、金曜星。清明はシャニ、土曜星、シェアラはラーフで七曜の中にはない羅睺という星にあたる」
ややこしい。
「九曜と七曜と五行……」
「アジアの古代天文学とか占星術とか、そういうやつね。早瀬少将が詳しかったんだけどちゃんと教わっとけばよかったな」
まさか、早瀬少将が退陣するとは思ってもいなかった。それは誰もが思うことだ。そして対外的には早瀬少将は生きていることになっている。
「わたしを含めて五人集めるのに、何年かかったのかな……あと四人、誰がどうやって探すんだろう」
途方もないことのように思える。
「金翅には術者が揃ったということだろうな。早々に欠いておかないと、手を焼く」
「僕が眞人と行って、二点だけでも破壊すれば術は完成しませんし、術者の始末の方は杏さんにお願いするとして」
「わたしも行くわ、戦力になるでしょ」
来生と眞人が顔を見合わせた。清明は軽く頭を振っている。シェアラは天を仰いだ。
「危ないのよ、かのんちゃん」
「だから行くの。守られるだけのお姫さまに甘んじるつもりはないもの」
要らない子ではないのだから、必要とされることに見合うだけ何かしたい。いや、そうしなければ不安なのだ。
スーリヤと呼ばれていいのか。早瀬少将の孫として存在を許されるのか。――ここにいてもいいのか。
「いいでしょう、来生さん」
眼差しは揺らぐ。迷いだってある。それでも、ついていきたい。
隣に立っていたい。
「人を撃てるか」
「軍事教練で必要最低限のことは……でも本当に人を撃った経験なんてあるの、コンスタンティノポリスでは特別警察機構員か犯罪者だけだと思うわ。わたしはただの学生だったもの」
「撃ち方は眞人に習え。即席でいい。俺たちの仕事は、殺すことだ」
嘉音は生唾を飲み込んだ。来生の声が淡々としていたからよけいに怖ろしい。それが当たり前だということだから。
それでもしっかり頷いた。お荷物になるのはいや。
「お嬢ちゃん、二丁拳銃使えるから反動には強いんだよね。セミオートのサブマシンガン、やってみよっか。装弾さえできれば、拳銃と変わらないから」
「……その前に。本当に、二か所の襲撃だけでいいの。それに、あちらに仕掛けができる人が二人以上いたら」
軍事教練で教えられたこと。ゴーストは一体につき二人以上で応戦すること。対人においては対面を避けること。それから。
「拠点破壊工作は、まず通信施設から。そう習ったわ」
「ま、今は人手、足りないしね」
「金翅を叩いたのが九曜のスーリヤだと知られれば宣伝になる。狙われる危険は伴うが、協力者が増えると身辺の危険も減る」
「スタングレネードを使いますから、驚かないように慣れてもらう必要があります」
嘉音は教科書どおりの教練しか受けていない。前にゴーストに襲われたときは、教科書にはない対応をしなければならなかった。確かに軍事教練は役に立っているけれど、それでもすべてが本に書いてあるとおりに進むわけではない。むしろ、書かれていないことのほうが多い。
「かのんちゃんは平和なところで育ったのねぇ。自分たちが強者であれば、いいと思うけどぉ、私たち、弱い側なのよねぇ。指導者も失っちゃったしぃ」
「だから、俺たちには姫の存在がとてもありがたい。そんな姫だからこそ、せめて俺たちだけでも、争いを知らない十七の娘だということを忘れないようにしなければ……どうした」
どういう顔をしていいのか困る。
アイコンとしてのスーリヤが必要なのは分かっている。そして自分がそれになるのが無理だということも分かった。
期限付きでよければ、と言ったはものの、まだどうにも据わりが悪い。
「わたしなんかでごめんなさい、って気持ちになってる」
けして祖父のことをよく知る孫ではない。一言だって話したことはない。
「姫はもっとわがままを言っていい。俺たちでは頼りにならんかもしれないが」
「そんなことないわ」
来生が来なかったら、駅で立ち尽くしたまま、来るはずのない祖父の到着を待ちぼうけていただろう。新湊稲荷社からも帰ってはこられなかった。食事も、暖を取る場所も、寝床も、すべて九曜が準備してくれた。
「わたしには何にもできないのに、東京市に放り出された帰る場所のないわたしに、居場所をくれたわ」
「それは、早瀬少将に感謝をすることだ」
「会ったことのないお祖父さまに? わたしはみんなに感謝したいわ。……みょうぶさんにも」
彼女はもういない。あのふさふさの尻尾に、もう一度触れたい。
「期待に応えられなくてごめんなさい。こんなわたしなのにありがとう。それから……今わたし最高にブスな顔してると思うから見ないでこっち見ないで」
どういう顔をしていいか分からないから、たぶん変な顔をしてる。うつむいて左手で顔を隠しながら、右手を突き出した。
笑い声が聞こえたのは気のせいじゃなくて、穴があったら入りたいというのはこういう時に使う言葉だとしみじみ思った。
お願いだから、話の中心にわたしを入れないで。
どうしていいのか本当に分からないの。
胸元はまだ淡く発光している。
セーラー服の襟元は隠れてしまうけれど、マフラーを厳重に巻いた上からピーコートを着てなんとか隠した。
人気のない階段を地下に降りていき、ちかちかと電灯のまたたく中を進んでから十数分たったが、まだ目標地点には到達していない。東京市の地図が頭に入っているという眞人が、五芒星を頭に叩き込んで潜った地下だ。
ところどころに電灯がともる電気が通っていることが、ここはまだ打ち捨てられた場所ではないということを示していた。人の行き来する通路だということだ。
風は吹かないが、空気は冷たい。凍えた空間に、足音が響く。季節は春だと思いたい三月終わり、かじかむ手に息を吐きながら、一行は注意深く先へ進んでいた。
先頭を行く眞人が、歩みを止めた。
「どうした」
「ここから目的地、新宿の目まであとちょっとだよ。スタングレネード投げ込んだら、とりあえず一気に走る、清明が術式解除に取りかかってる間、残りで援護。シェアラは真ん中で得物作成、怨霊に備える。怨霊班と対人班は上で割り振ったとおり、いいな?」
ほとんどの作戦参加者にとって、スーリヤが戦うのを見るのははじめてだ。期待に満ちた眼差しが痛い。嘉音は緊張の面持ちで、来生を見上げた。この男は相変わらずのポーカーフェイスで、腹立たしい。
つい見上げて睨んでしまった。見下ろされて視線が合って、ばつの悪い思いをした。
「シェアラを頼んだ、姫」
それだけ言って、来生は視線を進行方向へ戻した。
みんなが武装している中、シェアラと清明だけが武器らしいものを持っていない。けれど嘉音はシェアラの手から武器が生み出されることを知っていたし、清明が鉄扇を使って火を広げる場面を見た。怖ろしいことは何もない。
シェアラがこけないように、しっかりと手をつないだ。
全員が耳栓と閃光対応のゴーグルをつけたのを見計らい、眞人が続けて幾つかのスタングレネードを放り投げた。
激しい音と光は本当の爆発があったかのように思わせる。
敵襲、と叫ぶ声が聞こえた。相手も相当に訓練されているようだ。
もう一度、数個のスタングレネードを放り込んだ眞人が同時に走り出すと、全員が閃光の中、あとに続く。陣形の外にサブマシンガンを撃ちながら突入した。
焦げたにおいと残響がぐわんぐわんと押し寄せるが、嘉音はシェアラを座らせるとゴーグルを脱ぎ去って、両足を踏ん張った。既に閃光は消えている。相手の意識が音と光に奪われるのはほんの数秒。
引き金を引くとバラバラバラとひどい音と鈍い重みが襲いかかってくる。
「どうだ清明、いけそうか?」
嘉音とは違う大きな銃を携行してそれを撃ちながら、来生は円を描いたメンバーの真ん中にいる清明に声をかけた。
「何とかします」
こんなときにもかかわらず、清明の声は冷静だった。
「タイルの下、かな」
疑問符の浮かんだ声と一緒に、金属を何かに打ち付けるような音が聞こえた。その間もずっと、嘉音は弾幕を張っている。それしかできないと思い、それだけに意識を傾けた。
辺りを見回す余裕などなかった。こちらが撃っている間はあちらは出てこられない。そう信じて撃つしかない。
逃げ出したい。怖い。サブマシンガンを支える手が痺れてきて、このまま死ぬんじゃないかと思う。
「姫、怖いなら俺の後ろに隠れろ」
来生の声がちゃんと聞こえたのはなぜだろうか。
とんがった破壊音がこだまする中で、ちゃんと耳に届いた。
「動けないの」
それは本当だった。足を地面に打ち付けたのかと思うほど足は重く、どこもかしこも言うことを聞かない。動かそうと考えている余裕もない。
自分の腕が鈍い振動から解き放たれると、マガジンが底をついたのだと分かる。入れ替えて、また撃ち始めるまで、ほんの数妙。機械的な動きだが、そうすることでしか恐怖に耐えることができない。
清明は何をしているのか。これでゴーストが出てきたら、いったいどうすればいいのか。
そうこうしているうちに、がががが、と鈍い音が前方から聞こえてきた。
「敵、バリケード!」
誰かが叫んだ。
嘘。あの状態でどうやってバリケードなんか。
でも確かに、サブマシンガンの弾は向こうに届かない。間の何かに阻まれる。
嘉音はトリガーから指を離した。
「あなたたち、なんでこんなことするの!」
叫んだ。分からなかった。無我夢中だった。
「どうして新世界政府に逆らうの。どうして人を殺すの。どうしてみょうぶさんを殺したの!」
サブマシンガンでは、バリケードは貫通しない。あのバリケードは、床面だ。床面が何か強い力で隆起し、九曜と金翅守護団の間に立ちはだかっている。
だけれど空間はまだ広い。声は届く。
「なぜだと、小娘! ばからしい!」
軍事演習では、相手は話し合いに応じないことが基本に置かれる。だから、声が返ってきたことに、嘉音は動揺した。
「バカなのはあなたたちのほうよ! 人を殺すのは犯罪者のすることだわ、そんなの子どもだって知ってるのに」
険しい顔つきをした男が、バリケードの前に現れた。
来生が狙い定めて撃ったが、飛びだしてきた瓦礫に阻まれて相手まで弾が届かない。何かに守られているようだった。
「無駄だ。俺は土を操る、そんな弾など効かない。それより小娘、知らない顔だな」
「……九曜の人たちを知っているような言い方ね。わたしは早瀬彰の孫、嘉音。どうして神様や死者を操るようなことをするの。冒涜だわ」
話ができる気がした。なんとなく。
だから嘉音は言葉を紡いだ。習ったことは、現実ではない。相手は言葉の通じるかもしれない人間だ。
「あれほどしっかり潰したつもりが、九曜にまだそれだけ動ける人間が残っていたのか。こりゃあいい話だな」
ははっと乾いた笑いを、男は漏らした。
「俺は金翅守護団の一翼、葉室だ。良い根性をしているな、早瀬の孫。だが、きれい事では人は生きていけんぞ」
「そんな場所にしているのはあなたたちレジスタンスよ。新世界政府の主都市、コンスタンティノポリスでは、人は平和に暮らしているわ、他の都市国家だってそう。なのに、ここはちがう。どうして東京を、生きていきにくい場所にしてるの」
「都市国家だと? そんなまやかしにお前は騙されるのか、やっぱり小娘は小娘だな。犠牲の上に成り立つ新世界政府による押しつけの都市国家なんて、必要ないんだよ!」
犠牲の上? そんなのは、習ってない。知らない。
「だって、都市国家として成り立たないと、平和を、平穏を、人は享受できないのよ。それをなぜいらないと言えるの」
そう。コンスタンティノポリスは平穏だった。犯罪率は低く、人々は温和で、隣の人に興味がなくても生きていける。殺される心配も、盗まれる心配も、そこにはない。
「小娘、なぜ神々が荒ぶっていると思う」
「みょうぶさんは神様だったけど、争いを望んでなかったわ。破壊したあなたたちがいけないのよ。恨みたくないっていっていたもの!」
「神下ろしの巫女か何かか? まあいい。よく聞け。新世界政府はその土地その土地の神々を殺し、踏みつけ、ないものとして都市国家を作る。土地は嘆いている。神々は、それは我慢ならんと叫んでいるのさ」
「そんなことない! 新世界政府は信仰の自由を許してるわ」
「ではお前は何を信仰している」
言葉に詰まった。神様なんて信じていない。嘉音には信仰する宗教はない。嘉音が知っている友人たちで、何かの神を心から信奉している人は、いなかった。
でもだから何なのだ。
「神様なんて信じてない。人は自分の力で生きていくのよ。何かに頼ろう、すがろうなんてそんな心の弱い人なんて」
「そもそも神様ってのは、その土地土地に根差してる。新世界政府は、自分たちが君臨するために、神々の力を削ぎ、人心を掌握し、圧政と統制で人を縛っている。お前が良い例じゃないか、小娘。神をないがしろにし、新世界政府を至上と思っている、それがそもそも間違いだ」
「新世界政府の力の及ばないところでは人の心は荒れて、ゴーストが出るというじゃない。そのゴーストに抵抗するために、人は戦うことを覚えるんだわ。わたし別に神様をないがしろになんてしてない。信仰はしてないけど、そんなの人の自由じゃない」
「その自由が縛られた結果だといっているのさ」
そんなことない、と言いかけたときだった。
来生が嘉音の前に立ち、葉室に言った。
「荒廃する街で後を絶たない神々の怨霊化は、お前たちレジスタンスが先導している結果だ。荒ぶる神の心を慰撫し天に還せるのは、この街では九曜の太陽、スーリヤだけだ」
「はっ。新世界政府の犬が!」
葉室が戦闘態勢を取ると、浮かんだ瓦礫が嘉音に襲いかかった。
「きゃ!」
けれど瓦礫は嘉音まで届かなかった。来生が嘉音を抱きしめて、その腕の中にかくまったのだ。
血が嘉音の顔にしたたり落ちてきて、嘉音は青ざめた。
「来生さん!」
「へぇ、そいつが神殺しの来生か。ちょうどいい、櫛御気野大神が荒ぶっておられてな、貴様らを葬ってやろう!」
黒く荒ぶる威容が現れるのを、全員が目にした。それほど力の強い、怨霊化した神だった。
「かのんちゃん、コート脱いじゃってぇ」
全員が凍り付く中、シェアラだけが冷静に――というよりいつもどおり、嘉音のそばまで這って近寄り、コートとマフラーを引っぱった。
「女ァ!」
葉室が叫ぶと、シェアラめがけて瓦礫が飛んできた。それを叩き落としたのは、清明の鉄扇だった。
がががと鈍い音がして、瓦礫が床にぶち当たって四散する。
「まったく、熊野十二社と分かるまでに時間がかかりましたが、分かりました。ここに封じられたのは勧請された伊耶那美大神ですね」
清明はそのままふわりと鉄扇を扇ぎ、炎を生み出して葉室を襲わせた。
嘉音は身体中が強張っていて、ひとりでは何もできなかった。来生に庇われた胸がら抜け出すのをシェアラに促され、引っぱられてサブマシンガンも取り上げられた。
マフラーを取ると、胸元が淡く光って輝いて見えるのが、周囲に知れた。
「スーリヤ!」
九曜のメンバーの誰かが、叫んだ。
スーリヤとは、太陽。光り輝くもの。
櫛御気野大神がたじろいだ。怯えるように、身を捩る。
「姫、何か歌を」
「させるか! 新世界政府の犬!」
歌と急に言われても、とっさに出てくるものではない。ましてや、こんな状況ならば、なおさら。
シェアラから太刀を受け取った来生が、櫛御気野大神に斬りつけた。葉室の操る瓦礫は、すべて清明が鉄扇で払い落としていく。
土煙が舞って、口の中がざりざりとする。
この、砂を食んだような感触は、嫌いだ。
炎が舞い踊り、土塊が降る。地下だから、そこが埋もれてしまうのではないかというほどの震動が辺りを襲った。
「きゃあっ!」
立っていられない。へたり込むと、シェアラがその豊かな胸を押しつけるようにして、抱きしめてくれた。
「かのんちゃんだけはぜったい助けるんだからぁ!」
半分は涙声だった。嘉音の胸の光が弱々しくなる。
顔に手をやると、来生の血がべったりと指についた。
いやだ。いや。死にたくない。死なせたくない。
生きたい。
「Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,」
細い声が、震える喉から絞り出された。
「war so jung und morgenschön,
lief er schnell, es nah zu sehn,
sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.」
胸元の光が、だんだん強くなる。
歌は、わたしの力かも知れない。そんなふうに思えたから、続けて二番を口にした。
「Knabe sprach: "Ich breche dich,
Röslein auf der Heiden!"
Röslein sprach: "Ich steche dich,
dass du ewig denkst an mich,
und ich will's nicht leiden."
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.」
胸元に手を当てると、心強さがあふれてきた。大きく息を吸った。目を閉じる。
「Und der wilde Knabe brach
's Röslein auf der Heiden;
Röslein wehrte sich und stach,
half ihm doch kein Weh und Ach,
musst' es eben leiden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.」
歌い終わる頃には、辺りを光が包んでいた。
黄色、オレンジ、仄かに明るい、けれど強い光。
おおおんと櫛御気野大神が叫んだ。それはか細くも、かなしい声だった。その声を残して、黒い靄は光の珠になった。
「天に帰っていく」
呟いたのは、眞人だった。
「嘉音さん、もう一曲お願いします。伊耶那美大神にもお帰り願いたいんです」
そう言ってから地面に手をつき、清明が叫んだ。
「解!」
嘉音の光に負けない強い光が現れた。
「伊耶那美大神は万物の創成神です。大地を言祝ぐ歌を」
涙があふれるままに、嘉音は頷いた。そして、震える喉を叱咤して歌を紡いだ。
「Süßer die Glocken nie klingen,
als zu der Weihnachtszeit,
‘s ist als ob Engelein singen,
wieder von Frieden und Freud’,
wie sie gesungen in seliger Nacht,
Glocken mit heiligem Klang,
klinget die Erde entlang!」
顕現した光が震えて、収斂していく。嘉音は声を張り上げた。
「Und wenn die Glocken erklingen,
schnell sie das Christkind hört,
tut sich vom Himmel dann schwingen,
eilet hernieder zur Erd’,
segnet den Vater, die Muttter, das Kind
Glocken mit heiligem Klang,
klinget die Erde entlang!
Klinget mit lieblichem Schalle
über die Meere weit,
dass sich erfreuen doch alle
seliger Weihnachtszeit,
alle aufjauchzen mit einem Gesang,
Glocken mit heiligem Klang,
klinget die Erde entlang!」
澄んだ声が地下に響き渡った。どうか安らかにと願って、震える声を伸ばした。
「まさか……なぜだ!」
葉室の狼狽える声が聞こえた。
「神様はこんなふうに利用していい存在じゃないと思う」
言った嘉音の声は強い。鳶色の瞳からは涙があふれ、白い頬を濡らしている。
「あなたはまちがってる。わたしは、今だけはお祖父さまを、お母さまを信じるわ」
葉室がライフルを抱えた。それに、嘉音は対面した。
いけないことだと分かっていた。身を隠すのが何より先だと、いや、それより早く銃を撃つのだと、心のどこかが警鐘を鳴らしている。
危険。危険。危険。
「わたしはわたしを守ってくれる人を信じるわ!」
叫ぶのと、葉室がライフルを撃つのは同時だった。
目の前に赤い花が散ったと思った。
抱きしめられていた。来生だった。
散ったと思った赤い花は、来生の血だった。
「きゃああああ!」
「姫、静かに。眞人」
「まかせとけ」
嘉音は血が流れるような場面に慣れてはいなかった。取り乱して、いやいやと顔を振る。
「死んじゃうわ、誰か! お願い先生! たすけて!」
先生などこの場にはいない。けれど呼ばずにはいられなかった。
目の前で銃撃が繰り広げられる。なのに嘉音は来生に抱かれたまま、動けないでいた。
葉室が取り押さえられる。眞人が、九曜の人たちが、雪崩れるように瓦礫の向こう側を制圧したようだった。
「来生さん、どうしてわたしなんか!」
出血はひどいようで、大きな身体の重みが少しずつ嘉音の身体にかかってきた。
「姫が、無事なら」
「もう平気! わたし、生きてる! お願い、死なないで……もう誰も、死なないで」
か細い鳴き声が届いたのだろうか、来生は少し笑ってから、血塗れの手で嘉音の頬を撫でた。よかった、という声は、音になっていなかった。口だけがそれを形作って伝える。
清明が駆け寄ってきた。嘉音は泣いていた。胸元の強い光はそのまま優しく暖かく周囲を包んでいる。
「怨霊はもう出ないと思います。杏さんの止血を、すぐに」
重たい身体を、嘉音は清明に手渡した。同時に力が抜けて、その場にくずおれた。
「かのんちゃん!」
シェアラの声が、遠くに聞こえた。
みょうぶさん、いま、どこにいますか。そこは苦しくないですか。
お祖父さま。わたしはほんとうに、お祖父さまの言う、スーリヤなのでしょうか。
分からないの。だってわたしはふつうの冴えない目立たない女の子なんだもの。
嘉音は暖かい光に包まれていた。
あの時夢見た若い祖父の姿が、手には触れない程度の距離に立っている。
「お祖父さま、わたし――」
祖父は、微笑んでいた。背を向けて、向こう側に歩き出す。
「待って、まだたくさん聞きたいの!」
立ち止まって、振り向いた祖父は、やはり優しく微笑んでいた。
だんだん姿が霞んで、見えなくなる。嘉音の放つ光が強くなり、辺りが白んでゆき。
「――ちゃん、かのんちゃん!」
シェアラの心配する声が耳元で聞こえた。
「……わたし……」
「よかった! 気がついた!」
豊かな胸をぐいぐいと押しつけて、シェアラが泣いている。
「きょーちゃんも大丈夫だからぁ。かのんちゃんは私と手をつないでくれなくちゃなんだからぁ!」
「だいじょ、ぶ……そう、よかった。葉室……さんは」
「マナトが捕まえてる。九曜には留めおけないしぃ、レジスタンスだから特別警察機構のほうに連れていくんですって」
気がつくと、瓦礫の上だった。タイル張りの床が見る影もない。新宿の目と呼ばれた謎のオブジェも、とうに見えない。
ゆっくりと身を起こした。少しふらつくけれど、大丈夫。生きてる。
「なんだかこの光、ふわぁっとした感じになるのよねぇ」
この光、とは嘉音が全身から放っている強いけれど柔らかい優しい光のことだろう。嘉音にはよく分からない。
血に濡れたセーラー服が重たい。人の血は、こんなにも重たいのだ。これが、どれだけ流されたのだろう。来生は止血の手当てを受けて眠っているのだろうか、上衣を剥ぎ取られて、呼吸で胸が上下しているのが分かる。
その来生の傍に、嘉音は歩み寄った。
「わたしを守るためになんて……ほんとにむちゃよ。ライフルの銃創が大丈夫なわけないじゃない」
閉じられた瞼に、そっと唇を寄せた。
「ありがとう。うれしかった。わたし、一人じゃないって……思った。だからお願い、ぜったいにわたしを置いて逝かないで」
嘉音は、淡く人を想うことを覚えた自分に驚いていた。唇を寄せるなんて、今までなかったことだ。
上衣を裂いた布に、血が滲んでいる。この人は、わたしを守ってくれたんだ。
母に捨てられたわたしだけど。
祖父に呼ばれたわたしだから。
わたしが弱い存在だから守るんだと言ってくれた。
こんなふうにされるのは、困る。どれだけ涙があっても足りない。なのにどうしてだろう、嬉しかった。
頬の血を拭ってから、嘉音は立ち上がった。今度は縛り上げられた葉室のほうへ向かった。
「葉室さん。たぶん神様をあんなふうに利用しちゃいけないよ。みょうぶさんは恨みたくないって言ってた。みんなそうだと思う」
交わした言葉ぶんのことしか嘉音には分からないけれど、それは間違っていないと言うことができる。
「は……神を殺す新世界政府に何と言われようが、俺には何とも響かないね」
神を殺すとはどういうことだろう。そんなことは習わなかった。先生も、母も、そんなことは口にしたことがない。
「レジスタンスに言われたくないわ」
言えたのは、それだけだった。
「太陽なんて、どうせ昇らない! 貴様も天照大神のように地に落ちろ!」
それだけ叫んで、葉室は舌を噛み千切った。
「きゃあ!」
血が飛び散り、プリーツスカートを汚す。けれどそれ以上に、自ら死を選んだこと自体が、嘉音の恐怖を呼んだ。
「あ、くっそ、猿ぐつわ噛ませとくんだった」
しまったと眞人が舌打ちしたが、もう遅い。
「金翅に鳳凰の加護あれかし!」
捕らえられたレジスタンスが叫び、同じように自決を図った。何人かは成功し、何人かは殴られたり蹴られたりして時を逸した。
「ひどい……」
誰が、何がこんなふうに人を変えてしまうのだろう。
「かのんちゃ、きゃっ!」
傍らまで歩いてきたシェアラが、瓦礫を踏みつけて見事に転んだ。したたか額を打ちつけて、いたぁいと言って上げた顔の先に、葉室の遺体が横たわっていた。
「もーぅ、踏んだり蹴ったりぃ!」
眞人が来生を抱え上げた。同じように、怪我人を怪我をしていないメンバーがそれぞれ支えて、帰るよと声を掛けあっている。
嘉音はシェアラに手を差しだした。
暖かな手に、握り返された。戦うことのない手は柔らかい。武器を生み出すこの手は、戦うことを知らない。
嘉音の手のひらは、幼い頃からの軍事教練で鍛えられて硬くなっている。あたりまえのことだったので、恥ずかしいとは思わなかった。ただ、これは守りたいと思った。
それと同じなのだろう。嘉音を守りたいと言ってくれる人の心は。
守っていきたいと思った。
スーリヤと呼ばれてもかまわないと思った。
――祖父は、微笑んでくれた。
スカートの埃を払って、立ち上がったシェアラの手を引いた。
光は淡く、あたたかく、嘉音たちの行き先を照らしているようでもあった。
NC231年、春。
それは東京市では城跡の堀の桜のつぼみが膨らみはじめる頃のこと。