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3.武器と味方と神様と

 清明が缶コーヒーを皆に配って、新湊(しんみなと)病院の広間はちょっとした慰労会のようになっていた。

「なぁんでお酒じゃないのよぅ」

 シェアラは文句をいっていたが、特にスーリヤが未成年ということもあって、敢えての缶コーヒーだった。清明お手製の焼き菓子も配られた。いつ作ったのだろう。

「銃って弾を補充しないといけないのが困るのね。今までずっと教練前に配給されていたから気付かなかったわ」

 銃をばらして手入れしながら、嘉音が呟いた。

 使った道具は整備して戻すというのが、軍事教練の最後の作業だ。ごく当たり前に、自分の使った銃を分解していたら、それはとても驚かれた。

「かのんちゃん……! あなた武器屋さんでもやっていたの?」

「どうして?」

「コンスタンティノポリスの学生はみんな銃を分解できるの? お嬢ちゃんの同級生とか」

 嘉音は首を傾げた。当たり前ではないのか。

「これも成績の内に入るけど、何か」

「Bプラス、だったっけ?」

 コーヒーが冷めるのもお構いなく、嘉音は分解した銃をきれいに整備して組み立てまでを終えた。指先が油で汚れてしまっている。

 来生は無言で濡らしたタオルを手渡した。

「あ……ありがとう」

「コンスタンティノポリスの学生は、ただ平和ぼけしているわけではなさそうだな」

「新世界政府に就職できることがステイタスだもの。わたしはそんなつもりなかったから、いい点数を取ろうとか、そういうのはなかった。でも、ルートヴィヒの名は落とせないから、ただの早瀬嘉音になるまでは、中の上でいようと思ったのよ」

 冷めた缶コーヒーのプルタブを引く。ひとくち口に含むと、苦みはわずかで、とても甘い。この甘さがごちそうだった。

「こんなに役に立つなら、もうちょっとちゃんと教えてくれれば良いのに。味方二人で敵一体を倒すのがルールなんだもの、それ以外をわたしは知らないわ」

「あれだけできれば上等だ。じゅうぶん戦えている。さすが早瀬少将の孫」

 ルートヴィヒの娘ではなく、早瀬の孫。はじめて言われた。それは妙にこそばゆく感じられた。

「わたしはお祖父さまと会ったことがないの……そんなふうに言われても……」

「厳しいけど優しい方だったよ。それよりキョウ、お嬢ちゃんに状況説明、まだだったろ」

 怨霊が出ることは説明してあった。が、一度にたくさん現れたことには驚いた。コンスタンティノポリスのルールを、東京の人間は知らない。同時に、東京の状況を、コンスタンティノポリスの人々は知らないのだ。

「姫、東京とコンスタンティノポリス、実感として何が違う?」

 来生は嘉音に質問を投げかけた。

 違うこと。

「うーん、空気の色、かな。色彩がないっていうか……全部が灰色なわけじゃないのに、彩度が違う感じがする。あと、ゴーストが怨霊って呼ばれてる。ゴーストにはちゃんとはっきりとした実体があるって教わったけど、怨霊は違うみたいで、調子が狂うわ」

「あぁ。そういう違うもあるだろう。だが人が社会的に生きていく上で基本的な部分が違う。コンスタンティノポリスは新世界政府が治めているが、ここはそうじゃない」

 あぁ、そうだった。ここには新世界政府の影の部分が落ちている気がしたのだ。

「新世界政府のことを、こころよく思ってない人たちがいる――? あってもなくても一緒だと思ってたわ」

 思ってた。そう、過去形だ。

「今は違う? 思ってない?」

「えぇ。当たり前だったから、反対する人がいるなんて想像してなかった。今はちょっとだけ、考えてる」

 だが、新世界政府の何に反対しているかはさっぱり分からない。

 文化的なきれいで明るい生活を、人は望まないのだろうか?

「レジスタンスをルートヴィヒ総務室長は三団体と言ったが、それは正確に名前まで分かっている団体数だ。金翅守護団、協会無明、アルファルド・ヘッド・カンパニー。それに比べて九曜は団体としては規模が小さく、新世界政府も公共報道を掌握しているにすぎない」

 要するに役立たずということなのだろうか。さすがにそれをいうのは差し控えた。

「三団体はそれぞれ報道担当者を決めて、公共報道以外の方法で賛同者をどんどん増やしています。何よりよく放送が打ち切られるテレビやラジオをあてにしている人は、ほとんどいませんしね」

「驚いたわ。ラジオが壊れたのかと思った。いきなり切れるんだから」

 東京市に来たときの話だ。音質が悪くざりざりと耳障りの悪い音であった以上に、急に情報を得る手段が断たれるというのは、何ともいえずいやな感じがする。

「わたしは何をしたらいいの?」

 分からない。だから指示に従う。それは当然のことだと思ったが、指示を待っていては死ぬこともあるとその身を以て感じたのも事実だった。

「お嬢ちゃんはとにかくできるだけ危ないことから離れていること。代わりがいないんだからね」

 それは答えではない気がする。不満に思っていると、清明がにっこりと笑って言ってくれた。

「スーリヤを演じるんですよ。スーリヤがどのような存在か、知ってる人はいない。だから、早瀬少将の夢に出てきたスーリヤを想像して、そのとおりに演じるんです」

「わたしも知らないわ、スーリヤなんて」

「だが、早瀬少将は姫がスーリヤだと言い残して亡くなった」

 それは分かっている。

 子どものように頬を膨らせたいと思って、いや、そんなことをしてはだめだと思い直した。スーリヤとは太陽。太陽になぞらえられる人が、頬を膨らせた子どものような少女というのは、何より嘉音が認めたくない。

「わたしの思い描くスーリヤ……?」

「で良いと、俺は思うんだが。誰か、異議は」

「ないと思いますよ。それが「スーリヤが決めたこと」ですから。自信を持ってスーリヤのふりをしてください」

 清明の笑顔が突き刺さる。

 あぁ、笑顔は武器にもなるんだ。わたしも笑えるだろうか。

 だけど頬の筋肉は強張っていて、余計にどういう顔をしたらいいのか分からなくなって、嘉音は俯いた。

「分かった。努力は、してみる」

「で、今回のはどこたったの、キョウ」

 耳慣れない質問だった。けれど誰もそれに疑問を差し挟まない。

「それが、犯行声明が出ていない。マッケンジーに問い合わせてみるか」

 今度ははじめて聞く名前。やはり誰も質問者はいなかった。

「あの……今回はどこって、犯行声明って、マッケンジーって……」

 分からないことだらけなのだ。今でも頭の許容量を超えている気がしないでもないが、分からないままにしておくのは何となく歯痒(はがゆ)かった。

「さっきいった三つの団体、金翅守護団、協会無明、アルファルド・ヘッド・カンパニーのうち、どこが今回の怨霊を起こしたかということだが」

「ゴーストは、人為的なものなの?」

 これには、皆が顔を見合わせた。それは何を言っている、という表情で、嘉音はとても気まずい思いをした。

「ゴーストは亡くなった人や動物の無念が何かものにとりついてそれを動かす現象でしょう?」

 少なくとも、学校ではそう習った。それ以外を嘉音は知らない。

「確かに自然発生であればそうなる。だが少なくとも東京市では、レジスタンスがその無念を利用することが多い。亡くなった人の魂を怨霊として憑依させ、暴走させて相手に被害を生じさせる。そうしておいて、一般の被害者に甘い顔をして味方に取り込む」

 頭が痛い。むしろ頭痛が痛いと表現したいくらいに、頭の中をゴーストが飛び交っている。

「待って、じゃ、怨霊っていうのは善良な人の魂が利用されてるっていうこと」

 何度「待って」といっただろう。思考が追いつかない。何とか理解しようと自分で言葉を編むのだが、そう容易く収拾するものでもない。

「残念ながら善良なる人々であるとは限らないが」

「でも、憑依させるって……人為的に、なのでしょ」

「お嬢ちゃん、善良な人ってのはどんなご高説たれる奴等だ? マシュマロや綿菓子みたいにふわふわ甘い夢を見てるようなやつは、生きていけない。少なからず怨霊化する要素があるってことだ。人の幸せを願うやつだって、最終的には誰かを幸せにしてる自分すごいえらいって自己満足なだけじゃね」

 そんなことない、と言いきれない自分が悔しかった。だって自分だってそうだ。

 もしかしたら祖父に会ったら認めてもらえるかもしれない。嘉音はそんな自己満足のために、世界の東までやってきたのだ。

「わたしも死んだら、怨霊になるんだね」

「なるかどうかは分かりませんし、前提問題として、僕たちは嘉音さんが死なないように努めますよ」

 嬉しいような嬉しくないような、でもやっぱり嬉しい気がして。

「あの、質問の最後、マッケンジーって誰なんですか。九曜の人?」

「姫も世話になるだろう、武器屋だ。レジスタンスの情報を持っていることも多いから、何らかの繋がりがあるかもしれない。そういう意味では信用はおけないが、武器弾薬がないとレジスタンスには対抗できないからな」

 ――武器屋。

 確かに、銀の銃弾が尽きれば、ゴーストに対抗できる手段はなくなる。シェアラに出してもらったとしても、嘉音は刃物の扱いがそんなにうまくはないから、倒せるかどうか分からない。何より接近戦は怖い。

「そう、ね。銃弾は必要だわ」

「そうと決まればさっそく明日、仕入れをしよう。金庫は今日、女性陣が掘り出してくれたことだしな」

 その女性陣の中に、嘉音とシェアラは含まれていなかった。怨霊の出現があったにもかかわらず、同じ時、女性陣は逞しくも金庫を掘り当てていたのだ。


 春風はまだ遠く、機嫌の悪い空がぐずついている。

 傘はまだいらないが、いつ降り出すか分からない空模様だ。

「春雨前線さんいらっしゃーい」

 天気予報はない。公共報道はまだだんまりを決め込んだままで、ついでにいうならば列車もまだ止まったままだ。

「お嬢ちゃんはマッケンジー・スミノフ合弁会社って聞いたことある?」

 自動車の鍵をちゃらちゃらと弄びながら、眞人が訊いた。嘉音は首を横に振る。

「知らないわ」

「東京に来てくれる奇特な武器屋のうち、唯一新世界政府と九曜がお世話になってる会社だ。これが担当者、目を通しておくといい」

 渡されたクリップファイルには、身上調査票がとめてあった。

「セヴィン・マッケンジー。マッケンジー・スミノフ合弁会社日本支部局長。最高経営責任者の一子。日系人。これだけ?」

 あとは写真が添付してある。出身地、国籍、学歴、年齢はすべてアンノウン。

「そうだ。少し変わっているから、姫は苦手かもしれない。コンスタンティノポリスは広いからもしかしたらああいう手合いもいたかも知れないが――女学校にはまず、無縁な男だ」

 どう無縁だというのだろう。ああいう手合いと言われるということは、そんなに奇矯な人なのだろうか。

 緊張してきた。こういう時、どんな顔をしていればいいんだろう。

「あの、来生さん、わたし変じゃないですか?」

「姫は姫だが、何か」

 そういうことじゃないと思ったけれど、何と説明したらいいか分からないので、嘉音は口を噤んだ。

「お嬢ちゃんはコンスタンティノポリスでも女学校しか分かんないんだっけ。キョウみたいな無骨な男にそういう質問はしてもムダだよん」

 へらり、と眞人が助け船を出してくれた。それに対する反駁(はんばく)はなかったので、来生としても自覚があるのだろう。

「じゃ、マナトさんに訊きます。わたし、変じゃないですか?」

 大真面目に真面目だった。はじめて会う人に「変な姿」は見られたくない。

 そう、はじめて会う人だからと、嘉音はセーラー服を着てきていた。濃紺のプリーツスカートが風に揺れる。まだ寒いからとピーコートを羽織っているから、えんじ色のスカーフは見えない。白い靴下とチョコレート色の革靴が、いかにも学生らしい。

 髪はサイドにハーフアップ。かわいいわよぅとシェアラが結わえてくれた。

「変じゃないかってきくやつはだいたい自分のことを変かもしれないって心配してるやつだ。ほんとに変なやつは自分のことを変じゃないかなんて言わないから、大丈夫」

 変な理屈が妙におかしい。少しだけ笑った。

「お、いいね。お嬢ちゃんはもっと笑えば良いと思うよ」

「あまり笑うな、変な虫がついたらはらうのが大変だ」

「スーリヤだろ、変じゃない虫はつきまくってもらわないとっと、やっこさん来たみたいだな」

 東京市中央駅の駐車場だ。奥まってがらんとしたそこに、一台のトラックがやってきた。荷台には(ほろ)がかけてあり、中に何があるかは一見して分からない。

 嘉音は改めて居住まいを正した。

「はぁーい、小猫ちゃんたち。生きてると思ってたよ、会えて嬉しいね」

 嘉音たちが立つピックアップトラックの前に、トラックを横付けして、男が低い声を明るくかけてきた。

 確かに、異様だった。

 運転席を降りてきた男は、眞人に負けず劣らず背が高い。だが、筋肉で岩のような、という形容はできない。肩幅はちゃんとあるが全体的に細身で、何となく中性的だ。裾の長いコートに、腰まである長い髪。肩幅がもう少し狭かったら、女性と見間違えたかもしれない、きれいな顔をしていた。

 ついでに言うなら、化粧もしていた。

 嘉音は直立不動のまま動けなかった。

 こういう人種にははじめて出会う。混血だとかそういう意味ではなく、着飾る男という意味だ。女学校には無縁とは、確かに。

「あら、その子は? 知らない制服だね。珍しいけど移住者?」

 右肘を左手で支え、右手を頬に添えるというなよやかなポーズで、男――セヴィンは訊いた。

「はじめ、まして。早瀬、嘉音です」

 ぎくしゃくとしながらも、何とか自分の名前を言えた。お辞儀をしながらも、視線はセヴィンから外せない。

「へぇ、ハヤセ。少将の関係者?」

「孫娘にあたられる方で、我等のスーリヤだ。覚えておいてくれ」

「そ、よろしくね、姫さん。アタシはセヴィン。こんななりでしょ、早瀬少将には嫌われちゃってて。姫さんはよろしくしてくれると助かるわ」

「こちらこそ……お世話になります」

 笑顔は作れなかった。口角が引きつって、たぶんすごく変な顔になっている。いやだどうしよう、嫌われたらいけないんじゃないのか。でも信用はするなって言われたし。

「で、アタシのこと嫌いなボスはお元気?」

 何と、にこやかに来生が対応した。

「もちろんだ、姫も来られて、意気消沈どころか意気揚々だ。電話で話したとおり、姫が銀の銃弾を使っていてな、今度からパッケージに加えてもらえると助かる」

 祖父が生きていることになっている。

 信用できないということは、こちらの渡したい情報だけ渡し、そうでない情報は見せてはならないということか。嘉音にそれが分かることを狙っての、来生と眞人の芝居だったのか。

 嘉音は、自然に見えるように微笑みを作った。わたしは今、スーリヤだ。

「あなたのような人を見るのははじめて」

 握手のために、右手を差し出した。

 セヴィンは驚いたようで、目を大きく丸くした。

「まあ、早瀬少将はアタシにはできるだけ近寄りたくないふうだったけど、姫さんは違うのね」

「お祖父さまとわたしは別の人格だから。ちょっと驚いたけど、もう平気よ」

 右手を握り返して、セヴィンが嘉音の肩を叩いた。どうやら不審には思われなかったようだ。

「姫さん、銃の整備はどうしてるの。ここだと結構使うんじゃない?」

「それは自分でするように習いましたから、大丈夫。昨日も使うようだったから、残弾の方が心配」

「それなんだけどな、セヴィン。崩落はともかく、俺たちのねぐらを狙って怨霊出したやつら、分かんない? 声明が出てないんだよね、どこに報復しようかカードが揃ってなくて」

 さらりと反撃の準備があることを明かす。もちろん、今回仕入れるのはそのための武器ということだ。

「そういえば発表がなかったね。調べておいてあげてもいいよ、マナト。にしても、今回は壊滅的な打撃を受けたんじゃない?」

「壊滅ってのはひどい言い方だな、セヴィン。スーリヤが来てくれたおかげで士気は上がる一方だぞ。確かに車輌や武器はごっそり持って行かれたけど、な」

「ま、アタシが補充すればそれで良いみたいな言い方ね。おお(こわ)

 実際、スーリヤがいるというだけで、機関員たちは明るい顔をしてくれる。自分に何の力があるか分からないし、それが夢見だと言われても、自分で選んで夢を見ることは嘉音にはできない。夢を見ることにどれほど意味があるのかは、分からない。そんなこと、学校では教わっていない。母も教えてくれなかったし、祖父は訊ねる前に亡くなってしまった。

「みんながいるから、わたし、怖くないわ」

 これは胸を張って言える事実だ。言えることなんてそのくらいしかないのだけれど。

「良い太陽だね。なるほど、照らし導く、ね。こんな小さくて可愛らしいお姫様に何ができるって言う奴がいるかもしれないけど、こう返してやるといい。あなたにできないことができるの、ってね」

 セヴィンはマスカラのたっぷり塗られた睫毛でばちんとウィンクをしてきた。

 良い太陽だと言ってもらえたということは、スーリヤのふりは成功ということでいいんだろうか。

「ありがとう、セヴィン。良きスーリヤであるよう、努力するわ」

 ようやく笑顔でいることができた。

 あぁ、こうやって私はここで生きていく。慣れない笑顔も、作ってみせようじゃないか。

 それがわたしの生きていくしかない道だというのならば。


 大量の武器は、新湊(しんみなと)病院には運び込めなかった。ここでは誰に会っても敵対してはならないというルールがある。そのルールを徹底するために、最低限の護身用のものはともかく、武装してはいけないことになっている。

 病院からごく近い古いビルを借りきって、九曜はそこを仮の事務所とした。対策室もこちらに移ることになる。

 だが、依然病院から動かせない人員は多い。嘉音の仕事のひとつに、新湊病院の怪我人の訪問が加えられた。

 スーリヤが来た、というだけで、気力が違うのだという。重傷者ほど、気力が問題になってくる。早瀬少将という柱を失ったことは、とても大きな痛手だった。が、早瀬少将がスーリヤを招いていたことは、彼らにとっては救いであった。

 ただ、嘉音にとっては、ひどい重荷でしかない。

「スーリヤ、足をなくしても、あなたについていきたい。見捨てないでくれ!」

 そんなふうに縋られても、嘉音にはどうすることもできない。

 夢を見たのも、あの夜一度きりだった。

「ちゃんと腕が残っていれば、スーリヤを守って戦えるのに」

 切断するしかなかった腕を見て、泣く人もいる。

「大丈夫、見捨てたりしないから。お祖父さまはけして皆を切り捨てていけなんて仰いません。傷を癒やすことに専念してください」

 けれど、日々すり減っていく心を、嘉音は自分でどうすることもできなかった。

 目立つことは極力避けてきた。

 期待なんてされたことがない。

 今は違う。スーリヤという大きな看板を背負い、人の前で道を照らさなければならないのだという。そんなの無理だ。

「スーリヤ、私の武器はありますか?」

 脚を失っても、腕を失っても、なお戦おうという人がいる。そんなのもうどうでもいいよと叫びたかったが、ここでは戦わなければ生きていくことができないのだ。

「きょーちゃん、私、かのんちゃんが心配なんだけど。あの子、いい子すぎるわ」

 来生を呼び出したシェアラが、そう話すのを聞いてしまった。

 どうしてそんなことを言うの。スーリヤでいろって言ったのはあなたたちじゃないか。わたしはせいいっぱいスーリヤを演じている。お祖父さまの求めた、スーリヤを。

 決定打は、新湊病院で放たれた言葉だった。

「スーリヤ、スーリヤの力は夢見なんでしょう、だったら敵を見つけてください、我々が突撃しますから。皆の無念を晴らしましょう!」

 夢なんて、あの夜一回見たきりだ。それも、祖父とたどたどしくコミュニケーションしたにすぎない。

 敵を見つけるなんて、どうしたら良いの。

 わたしには、そんなことなんてできない。

「スーリヤ」

「スーリヤ」

 人の願いが、望みが、渦巻いて嘉音の上に降りかかってくる。

(演じた結果がこれなの。わたし、どうしたらいいの。……お祖父さま!)

 スーリヤと呼ばれたくなかった。嘉音と呼んでほしかった。ルートヴィヒの名でもいい、アーデルハイトでもハイジでもいい、「わたし」という個体を呼んでほしかった。

「無理だよ」

 期待なんてされたことがない。

 なのに、そんな自分に、何を期待するのだろうか。

「もう……無理だよ」

 必要とされたこともない。

 なのに、いきなり人を祭り上げておいて、わたしにどうしろというのだろうか。

 一週間経ったが、セヴィンからは何の連絡も入らない。その間に、嘉音は敵を見つけろという味方の声に押し潰されそうになっていた。

 ――味方? 味方なんてどこにいるの。わたしはもともとひとりだわ。

 耐えられない、と思った。どこでもいいからひとりになりたかった。「嘉音」でいたかった。

 夜半、妙に目が冴えて眠れなくなり、服を着替えた。セーラー服は、嘉音が嘉音である証明だ。コンスタンティノポリスの女子学生の。

 チョコレート色の革靴を履いて、そっとビルを抜け出した。誰も起きていない深夜だ。そして、不寝番も(なか)ば微睡んでいたから、嘉音ひとりが抜け出すのは造作も無かった。

 ――ひとりだ!

 駆け出した。地図なんて知らない。

 新湊病院と事務所、そして距離の離れた東京市中央駅しか、嘉音は知らない。

 どこでもよかった。ひとりになりたかった。「嘉音」になりたかった。

「わたしはわたしよ!」

 新湊という名前が示すとおり、病院は海のほど近くにあった。港は目と鼻の先で、その防波堤に立って、嘉音は叫んだ。

 肩で荒く息をする。こんな衝動に駆られたことは、今まで一度だってなかった。

 ルートヴィヒの娘といわれても、その名はここまで嘉音を縛るものではなかった。

(わたしはいつだってひとりだったわ)

 それは、重たいものを背負ってこなかったということ。ルートヴィヒの名も、嘉音にとっては新世界政府のようにあって当たり前のものだったから、重みを感じてはいなかったのだ。(わずら)わしいと思っても、それ以上のものではなかった。そしていつか捨てることができる、捨てることを希望できる場所にいた。

 戸惑っていた。怖がっていた。

 必要とされることを。標的となることを。目印となることを。――スーリヤであることを。

(わたしはわたしでいたいのに)

 それは望めないことなのだろうか。難しいことなのだろうか。

 祖父に呼ばれてこの地に来た以上、望んではいけないことなのだろうか。

 重い足を引きずって、とぼとぼと防波堤から離れた。コンクリートの流された平らな地面。そしてアスファルトの敷かれた道路。

 女学校の土の地面が懐かしかった。花壇が作られ、きれいに花が植えられていた。

 そういえばあれは誰が整備していたのだろう。当たり前にあるものだったから、気に留めたことなどなかった。彩り豊かな花が、季節ごとに咲いていた。

「お祖父さま。わたしお祖父さまに会いに来たんです」

 東の果てまで。船と列車に乗って。

「お祖父さまがいらっしゃらないなんて、詐欺です」

 文句をいっても誰も返してこない。当然だ、ひとりなのだから。

「お祖父さま、わたしやっぱり、スーリヤになんてなれそうにありません」

 誰かの太陽であるなんて、無理。

 海沿いをずっと歩いて、寒さが身に沁みた頃、嘉音は小さな社を見つけてその中に忍び込んだ。小さな建物で、壁があって、ドアがあって、鍵がかかっていなかったから中に入らせてもらったのだが、嘉音にはそれが神社であることが分からなかった。そもそも神社というものを知らない。宗教学を学ぶのは、限られたごく一部の人だ。銀の銃弾は使っても、嘉音は信仰が篤い方ではなかったし、自分の宗教に対しても興味がなかったから他の宗教になど興味があろう筈がない。

 社の中で身を縮め、ピーコートにくるまるようにして眠った。


『お嬢さん』

 声をかけられた。誰だろう。

 辺りを見回しても、人影はない。

『お嬢さん、ここですよ』

 足元を見ると、白い狐が足元にいた。

「あなた、だれ」

命婦(みょうぶ)でございます』

「そう。わたしは嘉音」

 白い狐が神使(しんし)であるなどというのは、嘉音は知らない。もちろん命婦の意味も分からない。ただ、そういう名前だと思っただけだ。

「これは夢?」

『嘉音さんがわたくしの屋においでになったから、呼んでみたら、起きてくれました』

「そう、起きたのね。良かった」

『わたくしの話を聞いてくださいますか?』

 狐が喋るなんて、と思わないでもなかったが、ここはコンスタンティノポリスではないのだからそういうこともあるのだろうと思考の外ヘ追いやった。

「わたしでいいなら、聞いてあげる」

『あぁ、よかった! 実は、嘉音さんくらいのお嬢さんを探している方がこちらにお参りされたことがあるんです。立派な風采の、軍人さんでした』

「軍人さんが、お嬢さんを探しているの? 生き別れた子どもさんとか?」

『いいえ、こちらを見てください。あなたなら、見えるはずです』

 白い尻尾がふわり、と振られた。そこに現れたのは、あのガラスの地球儀だった。

「これは――」

『おや、知っておいでですか?』

 嘉音は首を横に振った。思い出したくない。

『この中をご覧になっていてくださいね。話も聞こえるはずですから』

 命婦と名乗った狐は、地球儀の向こう側に回った。そしてちょこんと座り、じっと地球儀を見つめている。

 地球儀はガラスでできている。透明だ。以前は何か液体があふれてきたが、今回はそうではなかった。中に、人が見えた。何かを話している。

『――スーリヤが見つかった』

『――だがあれの母は  だ、とても言い出せは』

『それを祈願しに参っておるのだ――』

 聞こえてくる言葉と口の動きが一致している。まさか聞こえるとは思わなかった。前はまったく聞こえなかったというのに。

「みょうぶさん、これは誰」

 いや、聞かなくても分かっている。地球儀の線に隠れて見えにくいが、あの夢で見た人と一緒だ。祖父だ。

 それでも、確かめたかったのだ。

『さてね、わたくしにもよく分からなくて。ただ、わたくしひとりが抱えているのも大変な――太陽の話をしていらっしゃるからね』

 この狐は、スーリヤが太陽であると知っている。嘉音がそのスーリヤであると言う事には気付いていないのだろうか。

『でもわたくしが知っているのはここまで。他にもいろいろあるんですよ、そう、たとえばこんなのはどうでしょう』

 今度は見知らぬ数人の人影だった。

『――九曜に、スーリヤが』

『現れる前に、召喚させるな――』

『だがどうやって』

『九曜を、滅ぼそう。何、我等の新しい術式は――』

 嘉音は地球儀に手をついた。覗き込むようにして、見入る。

『嘉音さん嘉音さん、どうかなさったんですか』

 命婦が髭をひくひくと揺らしながら訊いてきた。

「だってこの人たち、滅ぼすって……九曜を、滅ぼそうって」

 泣きそうだった。今なら泣けるかもしれないと思った。でも、泣くのは後だと思った。

「この人たちが誰なのか、知ってたらお願い、教えてほしいの」

『わたくしの屋で会合をする人たちですよ。ここは神域、穢してほしくはないのに。あら……嘉音さん、どうしたの?』

「え――?」

 セーラー服の胸元の、えんじ色のリボンを結んだあたりが淡く光っていた。

 いや、リボンが光っているのではなく、嘉音の胸元が光っているのだ。手でその光を押さえ込もうとした。

「わたし、光りたくなんてないの」

 こんなのいらない。人じゃないみたい。

『でも嘉音さんは、九曜という人たちを心配している』

「だって親切な人だっていたわ、それに、人を殺すのはだめよ、犯罪だわ」

 光がいっそう強くなる。お願いやめてと嘉音は言った。

『嘉音さん、お嬢さん、あなたは日御子(ひのみこ)ですか?』

「ちがうわ! わたしそんなのじゃない! なりたくないの、スーリヤなんて」

『どうして? あなたは優しい。あなたは強い。さみしさを知っていて、孤独に耐えられる』

 だって無理だ。誰かに頼られるなんて。

「わたし、いらない子なの」

 ルートヴィヒの名は捨てると決めている。母にとってはない子も同じ。

『あの軍人さんは、あなたを希求していましたよ、嘉音さん』

 それは重たい。こいねがうというならば、どうして待っていてくれなかったのか。

「わたし、必要とされたことなんてないもの」

 急に要ると言われても。

「――どうしていいか分からないの。笑い方だって分からないし、泣き方だって知らないし、子どもでもいられないし、でも大人じゃないわ。わたしがスーリヤなんて、無理だよ……っ」

『……怖いのですか?』

「怖いの! 当たり前だよ! だってわたし、はじめて誰かに必要とされたの……だから無理だよ」

 命婦は笑ったようだった。近付いてきて、嘉音のチョコレート色の革靴に、ぽんと前足を置いた。

『誰だって一人前と認められるときは怖いですよ。だって自分で生きていかなくちゃあなりません。でも、そこには本当にただひとりぼっちでしょうか。あの軍人さんは、嘉音さんを見ていますよ。そのくらいわたくしには分かるんです。そりゃあそんなに大した力はないけれど、わたくしだって保食神(うけもちのかみ)の眷属ですもの』

「……うけもちのかみ?」

 何だというのだろう、この狐は。

「わたしはこの光を受け入れないといけないの?」

『いいえ、そうじゃない。その光は、既に嘉音さんの中にある。がんばって光ろうとしなくていいんです。自然でありなさい。あの軍人さんは、そう多くをあなたに求めません、だいじょうぶ』

 嘉音は訊かなければならない気がした。

「みょうぶさん、スーリヤがいなかったら、この街はどうなるの」

 狐はひくりと鼻を動かした。

『太陽なき世界は暗闇ですよ。混乱が続くでしょう。その光はあなたのもの、譲渡はできないのです。あなたが誰かを心配するなら、危険を承知の上で、あなたは太陽でいる必要があります』

「どうしたらいいか、わからないよ……わたしはただの、学生だよ。みょうぶさんが神様なら教えてよ、どうしてわたしなの?」

 困っているように見えた。首を傾げ、尻尾を揺らし、命婦は言葉を選んでいる。

『どうして。それはわたくしにも分かりません。軍人さんはなぜ嘉音さんを選んだんでしょう。知っていますか?』

 それは、聞いた。知っているといえば知っていることになるのだろうか。

「夢で、女の子に会って……それはもしかしたらわたしかもしれなくて。その子がわたしを、スーリヤだって言ったって、そう聞いたけど」

 狐はぐいと伸び上がり、嘉音の胸元を覗き込んだ。

『あぁ、夢を渡る人なんですね。だからわたくしに会えた。いつもわたくしは見ているだけなのに、どうしてだろうと思いました』

 自由に見られない夢を渡れても。自由に渡れない夢の世界に入れても。

 そんな不安定な力、いったい何の役に立つというのだろう。

『嘉音さんは今、わたくしの現在の夢にいらっしゃってる。わたくしが夢見る過去を垣間見られた。不要な情報でしたか?』

「いいえ……お祖父さまがお母さまに反対されたとしても、スーリヤを求めていたことが分かったわ。誰かがお祖父さまを殺したことが分かったわ。大勢の人が巻き添えになったことが分かったわ。……でもみょうぶさん、わたしがそれを知って、何になるの。泣けないわ、怒れないわ。そんなの八つ当たりだもの。わたし、そんなに子どもじゃない」

 すたんと命婦は前足を地面に下ろした。そして、くるりと嘉音のまわりを回った。

『泣いていいのです。怒っていいのです。それを受け止めてくれる人がいるでしょう』

 嘉音は拳を握りしめた。

『恐れなくていいのですよ。自信を持って。この街には太陽が必要です。灰色を照らす明かりが必要です』

 命婦は尻尾でガラスの地球を撫でた。ふわりと淡い光が地球儀の中に生まれる。その光に吸い込まれるように、地球儀はどんどん小さくなって、手のひらにのるほどの大きさになった。

 それは、つい、と空を滑り、嘉音の前にやってくる。

『忘れないでください。あなたは過去を知る』

 ぶわ、と光があふれ、嘉音の胸に吸い込まれていく。

 眩しくて、目を閉じた。腕を眼前で交差させた。

 それでもやっぱり眩しくて。

「みょうぶさん――!」

 はっとして目を開けた。

 そこは暗い、小さな建物の中だった。

「ここが、みょうぶさんの、わたくしの、屋……?」

 祭壇のようなものが置かれている。外から僅かに入ってくる光しか光源はなく、さっきの眩しさはどこへいったのか、確かに暗闇に近い状態だった。

「わたし、夢を見たの?」

 命婦と名乗った狐は、神様だったのだろうか。自己紹介された気もするが、何だかよく分からなかった。信仰心のない嘉音にとって、異境の神様は理解の範疇(はんちゅう)外だった。

「わたしはわたしのままでいいなんて……はじめて言われたわ」

 だが、危険だとも言われた。

 どうしたらいいのだろう。九曜に帰って、何事もなかったように小さくなっていればいいのか。

求められるままにスーリヤを演じることはできない。それは無理だと思い知った。わたしはわたし以上の何にもなれない。

 扉を開けると、空が白んでいた。朝の空気が冷ややかで、とても寒いが心地よい。

「Angel we have heard on high,

 Sweetly singing o’re the plains

 And the mountains in reply

 Echoing their joyous strains.」

久しぶりに、腹から声を出した。そんな気分だった。

「Shepherd why this jubilee,

 Why your joyous strains prolong

 What the gladsome tidings be,

 Which inspire your heavenly song?」

 声は高く澄んで伸びやかに空に吸い込まれていく。

 朝日が差した。

「Come to Bethlehem and see,

Him house birth the angels sing

Come adore on bended knee,

Christ the Lord the newborn king.」

 クリスマスソング以外に神を讃える歌は、これ以外知らない。さっき出会った命婦に捧げるために、声を張り上げる。

 大きく息を吸い込んだ。

「See him in a manger laid,

Whom the choirs of angels praise

Mary, Joseph, lend your aid,

While our hearts in love we raise.」

 太陽の光がきらきらとこぼれて、小さな社を明るく照らしてゆく。

「Gloria, In Excelsis Deo

いと高きところに、栄光が、

神にありますよう Amen」

 祈りの言葉を置くと、胸に引っかかっていた何かが取れたようだった。

「みょうぶさん、わたし」

「姫!」

 来生の声が聞こえた。逆光で見えていなかったのか、確かに男はそこに所在なさげに立っていた。


 二人は社の入り口の階段に腰を下ろしていた。

「歌が好きなのか?」

「下手の横好きっていうのよ。知ってる」

「いや……知らない歌だったが、きれいな声だった。またいつか、聞かせてほしい」

 世辞を言い慣れていない来生は思ったことしか口にできないのだろうが、讃辞を言われ慣れていないほうの嘉音は顔を真っ赤にして俯いた。

「ほめても何にも出ないんだから」

「無理をさせたな」

 来生は海の方を向いていた。だから、嘉音はその横顔しか見ることができなかった。

「……別に」

「スーリヤは、早瀬少将のいない九曜にとって「希望」だ。俺たちはそれを姫に押しつけた。逃げ出すほど、苦しかったんだろう」

「知ったようなこと、言わないで。わたし、良い子じゃないわ。だけど、泣いたり怒ったり八つ当たりするほど子どもじゃないの。わたしの問題よ」

 嘉音も海を見た。朝日を受けてきらきらと光っている。

「シェアラに聞いた。病院の連中が好きなことを言っていたようだ。謝る」

 精悍で厳しい顔が、嘉音の方を向いた。嘉音は顔を逸らしていた。

「来生さんが謝ることじゃ、ないわ」

「だが……」

「お祖父さまが、わたしを呼びたいって言ってる夢を見たわ。お母さまに反対されたとしても、ですって。それでもわたしを望んでくれた」

 今度は来生が嘉音の横顔を見る側になっていた。嘉音の目はまっすぐ、朝日の方を向いている。

「白い狐のみょうぶさんが教えてくれたの。わたし、まだまだ聞きたかった。どうしてわたしなのか知りたいって思った」

「――ここのご神体に会ったのか」

「それ何? わたし、知らない。ここにお祖父さまが来ていたみたいなの。みょうぶさんはそれを見ていたんですって」

 夢かうつつか分からなくなりそうな夢だった。

「わたしの胸が光って――みょうぶさんはわたしを太陽だと言ったけど、なるんじゃなくって、そのままでいいんだって。受け止めてくれる人がいるって」

 たぶん、そういうことを言いたかったのだろうと思う。

「来生さんは、何もできないわたしでも、必要としてくれる?」

 鳶色の嘉音の瞳が光ったように来生には思えた。力がそこにはあった。

「姫は求められ慣れていない。必要だと言って縛りたくない。だが、俺は姫がスーリヤであって良かったと思っている。姫はいろいろと謙虚に過ぎる」

 嘉音は来生の方を見た。来生は嘉音の横顔を見つめていたから、ふたりの視線が交差した。

「求められるものになれる自信なんて、ひとつもないの」

 期待されたことがない。ルートヴィヒの名は重くはあったが、いつか捨てることのできる重さだった。だが「スーリヤ」は、嘉音個人に重く覆い被さってきた。

「わたし、はじめて誰かに必要とされたの」

 嘉音は母の愛情を知らなかった。家族の縁も薄かった。いつもひとりで、頭を撫でてもらえる学友たちを見ていた。

「お祖父さまに来てほしいって言われたときは、嬉しかった。どんな人なんだろうって、どきどきしたわ」

「出迎えが早瀬少将でなくてすまなかった。――少将が迎えに出ていれば、少将は死なずにすんだ」

「それはもういいの。お祖父さまには夢で会える。お祖父さまはわたしを呼んでくれた。今でも見ててくれてるんだって。だけど、誰も「嘉音」を望んでいたわけじゃなかった。望まれたものになれるよう、がんばってみたの。でもやっぱり、どうしたら期待に応えられるのか、分からなくなって」

 期待なんてされたことがなかったから。

 ルートヴィヒの娘なのだからできて当たり前だといわれることは多々あったけれど、それは嘉音個人への期待とは違っていて。

「ここへ来たのは偶然よ。そう、わたし、逃げ出したの。なのに――お祖父さまが殺されたのだと分かって、わたしを呼ばないために大勢の人が亡くなったのが分かって……迷ってるの。コンスタンティノポリスへ逃げ帰るか、お祖父さまの仇を討つか」

 力が欲しいと思った。力に屈しない心が欲しいと思った。

「やはり、人為的事件か」

 来生の表情が険しくなった。

「姫は姫以外の何かになる必要はない。迷って、結果、帰ることになってもかまわない。だが、もし夢を見たなら教えてほしい、誰がこの大崩落を画策したか。俺は、俺たちは、報復する準備がある」

 それだけでいいと、強く言い切った。

「セヴィンに聞いてちょうだい。この建物を話し合いの場所にしている団体はどこか。みょうぶさんはここで話を聞いたって言っていたわ」

 そして嘉音は、慎重に言葉を選んだ。

「お祖父さまの仇を討つまでは、東京市にいることにする。あとのことは、そのあと考えるわ」

 明確に敵がいることが分かったから。

 この東京市の勢力図を塗り替えてもいいと思った。

「戻りましょう、九曜に」

 そう言って嘉音が立ち上がったとき、ちかりと何かが光った。

「危ない!」

 来生が嘉音の腕を引いて、その胸の中に抱き止めた。そして階段の下まで飛び降りて、地面に伏せる。

 同時に、ガシャンパリンと言う音が響いた。

「襲撃?」

 腹に響く音がして、命婦(みょうぶ)のお社が破砕した。バリバリ、ガラガラと辺りを引き裂く音を、嘉音は来生の胸の下で聞いていた。

『あああ! わたくしは誰も恨みたくないのです……!』

「来生さん、みょうぶさんが!」

「じっとしていてくれ」

 木片が、ガラスが、降りそそぐ。社は無残に壊された。嘉音はただじっとしていることしかできなかった。

 おおおんと腹の底に響く低い地鳴りのような音が周囲に響いた。

「しまった、このご神体を怨霊とする気か!」

 あかるいはずの朝日が陰っている。巨大な影が社のあった一帯に被さっていた。

 暗く、かなしい、啜り泣くような声が聞こえる。

『恨みとうない……』

 あの白い狐だ。みょうぶさんだ。後ろ姿が引き裂かれ、中からどろりとしたものがあふれ出る。無理やり引きずり出されたそれが、むくむくと巨大になっていく。

 来生の胸の下で目をつむっていたはずだった。

 なのに、どうしてそんな姿を見ることができるのだろう。

 命婦は夢の中で会った白い狐だ。実体化していない彼女を、どうしてこのような形で見ることができるのだろう。

 ――白昼夢か。

 命婦であった塊は、奇っ怪で醜悪な何かに変形していた。暗くぼうっと(かす)んだ何かをまとっている。

 怨霊だ、と思った。

 これは命婦が怨霊になってしまったものだと思った。

 恨みたくないという声を残して、彼女は変容してしまった。

「ひど、い……」

 嘉音は涙を流した。息が巧くできない。ひっくひっくとしゃくり上げるだけで、呼吸が整わない。

「誰、が……っ」

 声は出ていたのだろうか。

「……っ許さ、ない!」

 祖父を殺されるより、他の誰が死ぬより、ずっとずっとかなしかった。もっと話がしたかった。いろんなことを聞きたかった。

 ふわふわの尻尾と、ひくひくする鼻と、揺れる髭と、優しい眼差しとが。

 奪われてしまった。

 誰かによって。

 それは、嘉音にとって許せることではなかった。怒りが心の底からこみ上げてくる。怒りにまかせて立ち上がった。来生の重みを感じなかったのは思考の外だ。

 奇っ怪で醜悪な塊に対峙した。

「みょうぶさん! 聞こえる?」

 呼びかけても返事はない。これは命婦であったが、命婦ではなくなったものだ。

Gloria(グローリア), in(イン) excelsis(エクシェルシス) Deo(デオ)! Amen(アーメン)

 嘉音は声を張り上げた。命婦のために歌った歌だ。

 澄んだ声が辺りに響き渡った。靄の中から、朝日が射し込んだ。

 その朝日が嘉音を照らすと、嘉音の身体の中から光が湧き上がった。強い光は命婦であった塊を強く照らし、包み込んだ。

 淡い朝日と、嘉音の強い光。

 暗く淀んだその場所に、光が満ちあふれたとき。

『嘉音さん……あなたはわたくしの日御子(スーリヤ)です』

 ぐちゃぐちゃの塊の中から、白い毛玉が浮かび上がってきた。そしてひとこと言葉を漏らし、空高くのぼっていった。

 嘉音は地面に伏せて泣いていた。

 その嘉音を守るように、来生が銃を手に嘉音の上に伏せて辺りをうかがっていた。

 嘉音は命婦を呼んだあと、ただ泣いていただけだったが、重苦しい空気が一気に霧散(むさん)したのを受けて、来生は改めて身を起こした。

「すまない、姫。重たかったか」

「ふ……うぇ……わたし、みょうぶさん、を……っ」

 何が起こったのか、来生は分かっていなかった。

「ご神体は怨霊と化してどこかへ行ったのか……ここにはいないようだ」

「ひっく……ちが、ふぇ……空へ、帰っ……」

「姫?」

 別れが辛いとはじめて思った。そんなふうに人と交わってこなかった。

 ただただかなしくて、来生の胸を借りて泣き続けた。

 目と鼻の頭を真っ赤にして帰った嘉音は、まずシェアラの豊かな胸に抱きしめられた。

「かのんちゃぁん、ごめぇん!」

 とても長い間離れていたような気がして、嘉音はその豊かに揺れる胸に頭を預けた。


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