第5話 茨
城を覆っていた蔓性植物は蔦でも葛でもなく、鋭い棘に覆われた荊棘であった。それはさながら、要塞のごとき威容を誇っており、さすがの吸血鬼の腰をも引かせるほどの迫力を放っていたのである。
だが、ここで退いてはそれこそ誇り高き吸血鬼一族の沽券に関わる。
「ええい、たとえ荊棘の山、剣の山も何するものぞ!」
「たかが植物、ものの数ではありませんよ!」
ふたりはここに、要塞に張り巡らされた鉄条網のごとき荊棘の群れに挑むに至ったと云う次第である。
「つえぇい! せりゃっ! てやっ! うりゃっ!」
気合いとともに鉈を振るっているのは、吸血鬼始祖ヴラド──ではなく、彼に仕えし忠実なる使用人、レナであった。ヴラドはその後方にて、腕を組んだ姿勢のまま──ただ、配下を見守っているのみである。
これは断じて、怠けているのではない。
主たるヴラドは、伯爵の地位にある。それほどの位置にある者が自ら鉈や斧を振りかざすは、あってはならぬこと。──もしあるとすれば、それは彼の威光衰えて己の力のみにて生きてゆかねばならぬ時であり、それはすなわち吸血鬼一族の力がそこまで衰えたと云うことを意味する。一族の沽券に関わる事態を招きかねぬのである。
或いは、そうせざるを得ぬほどに追い込まれた時。──これもまた不名誉なこと。己の主をそのような状況に追い込んでしまったと、下僕の責が問われかねぬ事態を招くのである。
故に、そのような行いをヴラドは無闇やたらと行わぬ。慈悲深い主たる彼は己の下僕がいらぬ責を負わぬよう──その背後にてじっとただ見守っているのであった。
始祖は始祖で、大変なのである。
「せえいっ! ずえぁあ! むりゃあ!」
剣術の心得があるのか、振り下ろす鉈の軌道に揺らぎも澱みもみえぬ。
その威力もまたすさまじい。城壁を覆い尽くさんばかりに繁茂した荊棘の束を一撃にて断ち切っている。
「とああーーっ! つえぇぇい! くおおーーっ!」
ものすごい迫力。右手には鉈を、左手には角燈を握り締め、漆黒の法衣の裾を乱して斬りかかるレナの姿はまるで鬼神さながら。飛び散る樹液も棘の破片も何のその。瞬く間に蔓が斬り開かれてゆき、白い城壁を露わとしてゆく。
「行きますよ! 旦那様!」
城壁の頂点まで開かれた道を見上げ、レナが叫ぶ。
すぐさま、ヴラドが飛ぶ。城壁の上──張られた胸壁の上に降り立ったヴラドが手を伸ばし、レナを上まで引き上げる。
そのまま、城壁の向こう側へと飛び降り──
「ぐがあ! な! 何としたこと! この余ともあろう者が!」
喜び勇み、注意を怠ったがヴラドの誤り。城壁の向こう側にも荊棘は繁っていたのである。
それに気づかず飛び降りたがため、霞網の罠にかかった小鳥のごとく、ヴラドは棘に絡まり引っかかるに至ったのである。
「やれやれ……いつもいつも……世話が焼けますねえ!」
しかしレナの振るう鉈の斬撃が、たちまちのうちにヴラドを棘蔓より救う。
「おお! 救援まことにご苦労! 余は貴女のような下僕を持ってまことに幸せ者よ!」
礼を云うヴラドであったが、しかしレナは眼もくれず、
「旦那様。これはすこしばかり甘く見ていたようですね……」
と、角燈を掲げて前方を見る。──そこに広がっていたのは、幾重にも設けられた城壁と、それを包む無数の荊棘であった。
荊棘のみならぬ。さらに厄介なことに、城壁に挟まれた曲輪のあちこちには濠(空堀)が切られていた。
それらの先に見える凛とした宮殿とはうって変わった──まこと要塞と呼ぶべき守りの堅さ。
「どうするレナよ。──飛ぶか?」
夜眼の利くヴラドは城壁の遥か向こう側にそびえ立つ天守楼を睨みながら云う。
──あそこに、目指す姫君がいる。
そのように確信したが故の言葉であった。
だがレナは、
「いえ、結局のところこの荊棘を斬り開かねばあそこへ取りつくことは叶いません。このまま真っ正面より突撃する他に手はないかと」
と、云うと、法衣の中へと手を突っ込み、中より白い布を取り出した。
細く長い布──『襷』である。レナはそれを腋下へと通し、背中にて交差させ反対側の腋下にてくくり上げた。袖が邪魔になるを嫌ったのである。
全力で、この荊棘に挑む構えであった。
「旦那様はそこで指示を出してください」
角燈の火を消し、ふたたび法衣の中へと納めたレナは、その代わりに斧を取り出した。二刀流にて挑むつもりである。
「行きますよ……」
右手に鉈、左手には斧。物騒極まる両腕を広げたレナは、そのまま上体を大きくたわませて前傾姿勢を取った。足は大きく開かれ、腰もまた深く落とされていた。
彼女の、本気の構えである。
「うむ。──狙いは正面! そのまま進めい!」
さながら二百三高地を奪取せんと旅順要塞攻略に向かう日本軍のごとき様相を呈しはじめたふたりの気合いは充分。──ここに突撃指令が下る。
「つえぇぇりゃあ! ちぇすとぉ! ちぇりおぉぉぉ!」
闇に視界は封じられども力は2倍! 瞬く間に荊棘が斬り開かれてゆく。後方に位置するヴラドはレナの眼となり、適切なる指示と向かうべき場所を伝えるに終始した。
主と下僕──互いが互いを補い合うこの連携行動は実を結び──日付変わってしばらくしたる後にはついに──目指す天守楼への道は完成したのであった。
「さて……いよいよ深層の姫君とご対面と云うわけか……」
吸血鬼の来訪には独自の作法が存在する。それは絶対的な掟のようなものであり、『始祖』ともなれば、それを破ることは許されぬ。
いかに相手が食物──餌たる血袋──とて、無下な扱いなどしてはならぬ。それは、下賤の輩の所業。始祖ともなれば、その者の部屋に足を踏み入れるその前にはすでに身なりを整えておかねばならぬのである。
ヴラドがここ天守楼に来るまでずっと下着一丁に多織を羽織っただけの情けない姿のままであったは、荊棘にて服が破れるを避けたため。断じて、下劣な露出趣味があったと云うことはないのである。
故に、ここに夜会服を纏い、吸血鬼の象徴たる外套をはためかせ、髪をふたたび纏め、正装にて姫君との対面に向かう。
下僕たるレナもまた同様。樹液や棘にまみれた法衣姿など以ての外。──なるほど法衣は魔法使いの正装のひとつには違いないが、彼女は魔法使いに非ず。己の立場、身分、職に合った服装を心がけねばならぬ。
故にレナは法衣を脱ぎ、白い下着姿となった後にその身を多織にて拭き清め、黒い下穿を穿き、腿の付け根まである長靴下を履いた上で、飾襞の施された留帯を嵌め、そこに鉈と斧を蔵う。
それから襞布を穿き、腰布を穿いた後に形を整え、その広がって裾の中へと角燈を蔵う。
そしてようやく上半身へと向かう。白い下衣を着、黒い上衣を着た後に白い前掛を羽織る。──このように、女性の身支度は数多くの行程を踏むのであるが、しかしながら時間をかけることは許されぬ。
主を待たせることは、あってはならぬのである。
急ぎ、髪の乱れを整え、髪留めをつける。──これら一連の流れを澱みなく済ませ、主ヴラドに遅れることなくレナは支度を済ませるに至った。
じつに、見事なる腕前であると云えよう。
「──では、参ろうか……」
互いの服装を確認し終えたる後、ヴラドは扉を開け、天守楼の中へと入る。
中は、きれいなものであった。放棄され幾久しき古城には必ずと云ってよい埃や蜘蛛の巣の類は、まったくと云ってよいほどに見られぬ。
(変──ですね……)
レナはそのように思う。あまりにも内部がきれいであることに違和感を覚えたのである。
だが、彼女の主たるヴラドはそのようなことを気にも留めず、ただひたすらに寝室を目指していた。
穢れを知らぬ王族の血──深窓の乙女の美しく甘美なる血を前にして、眼が曇っていたものとみえる。
それほどまでに、血の誘惑と云うものはすさまじい──
「ぎい」と音を立て、扉が開く。いよいよ寝室である。ゆっくりと跫音を立てず、しかし怪しさの類は一切見られぬ整然とした歩みにて、ヴラドは寝台へと歩を進めてゆく。
刺繍編みにてつくられた、半透明な白色の窓帷の奥に、姫君は眠っていた。
(む……)
そのあまりの美しさに、ヴラドは息を飲む。
ゆっくりと、窓帷が開かれる。
一歩、また一歩と、吸血鬼の足が姫君に迫ってゆく。
(おお……)
思わず感嘆の声を上げるところであったが、しかし寸前にてヴラドは堪えた。──夜這いをかける変質者ではないのである。そのような感嘆の声すら、吸血鬼には許されぬのである。
しかしながら、そのような声を上げそうになったことを誰が責められようか。まこと、この世の中の美しさを集めたかたちのひとつが、そこに横たわっていたのであるから。
栗色の、うねりを帯びた髪。扇状に広がった長い髪の下に、眼を閉じて眠る乙女。
レナのような亞細亞系の流れを汲んでおるとみえ、幼さを残す顔立ち。しかしながら鼻は高く──確証はないが──おそらくは羅甸系とみえる。
肌色は雪のように白く──はなく、健康的な瑞々しさを感じさせるものであった。レナよりもうすこし薄い。
長身ではあるが全体的に細身であり、肩を出す様式の黒い上衣に覆われたふたつの胸のふくらみは甜瓜のような大きさを誇ってはおらず、身体に見合った大きさにとどまっていた。──それが、じつに慎ましい。
しかしながら、腿にはよく肉がついており、引き締まっていた。これは、裾をめくり上げて確認したのではなく、姫君の纏う濃青色の衣装の裾がみじかいが故に、露わとなっていたが故のこと。──吸血鬼始祖たるもの、そのような真似はせぬのである。
神々しいまでの美しさ。王族であることは見紛うべくもない。
麗しき眠り姫の枕元へと近づいたヴラドは、左手を己の胸に当て、右手と右足を後ろに廻して一礼をする。吸血鬼の作法である。──頭を下げたままに、上眼遣いにて姫の顔を眺めながら、
「夜分遅くの参上、誠に失礼仕る。──不肖この私、名はヴラド=ドラクルア=ツェペシュと申し、もとはワラキア大公。今現在はトランシルヴァニアの伯爵を務めるものにございます」
と、自らの身分を明かして名乗る。
レナも続き、大きく足を開いて腰を落とすと左手は腰布の裾をつまみ、掌を上に向けたる右手を己の腿と平行に差し出すと、
「お控えなすって、お控えなすって。手前生國と発しまするは日ノ本の、豫州双海の産まれにて、姓は梶本、名は、レナ。人呼んで龍の下僕と申します。この世に生を受けた後、何の因果か船に乗せられ、外國に売られたるが運の尽き。今やご覧の通り、吝嗇で間抜けな伯爵の、供を務める卑しき身。本来ならばいやとても、あなた様のごとき高貴なるお方とのお眼通りも叶わぬ身分なれど、主の命とあれば是非もなし。どうか、あ、どうか、平に、あ、平にご容赦をォォ!」
と、彼女の祖國独特の作法をもって、身分を明かし名乗るのであった。
かくして、吸血鬼の作法は終わった。
後は、甘美なる血を心ゆくまで堪能するのみ。
ヴラドの眼が妖しき色を帯びる。
ゆっくりと姫君へとにじり寄り、その顔が姫君の首元へと迫り──
大きく、口が開かれた。
鋭い牙が月の光を浴びて輝き、麗しき柔肌を嚙み裂かんと──
「──!」
その時突如、ヴラドの頭に衝撃が走る。
「ぷぎゃっ!」
間の抜けた声が、ヴラドの口よりもれた。吸血鬼始祖にあるまじき行い!
しかしそれも仕方のないこと。衝撃走る次の瞬間には視界がものすごい勢いで飛び、それとともに彼の身体は高速にて飛ばされ──窓帷の張られた天蓋を超えて、壁へとたたきつけられたのであるから。
「な……な……」
何が起こったのか、その時ヴラドはわからないでいた。