第4話 眠り姫
「ま……まったく、ひどい目に遭った!」
全身を水に濡らし、下に垂れた髪をふたたびもとのように整えながら、ヴラドはそのように云うのであったが、
「ひどい目に遭ったのはこちらです!」
と、レナは抗議の声を上げる。無理もないこと。沈みながら下流へとどんどん流されてゆくこの長身の金槌紳士を捕まえたままに、流れに逆らい上流へと遡りつつ渡河をやってのけたは、紛れもなくこのちいさな娘。
どちらがより大きな苦労をしたかは、明らかであった。
「し、しかしレナよ。貴女が余を流れに放り込むような非道な行いをしなければ、このようなことにはならなかったのだぞ」
と、なおもヴラドは云うが、
「旦那様があのような破廉恥な行いをしなければ、こんなことにはなっていません!」
と、レナに返されては──いかにそれが不可抗力であったとは云え──それ以上の弁解は叶わぬのであった。
故にヴラドは、
「し、しかしこのままではいかぬ。服を乾かさねば……風邪をひいて死んでしまう!」
と、話を逸らしにかかる。──この企みはまんまと成功し、
「旦那様は吸血鬼ですから死にはしません!──ですがわたしは吸血鬼ではないのです! 風邪をひいて死んでしまうのはわたしです!」
と、今なお怒り冷めやらぬ様子ではあるものの、レナの注意は濡れた服のほうに向かうのであった。
「すこし待ってくださいよ……」
レナは歩きながら準備をはじめる。ヴラドも、その後を追って歩く。
「よい……しょ……」
裾の広がった腰布の下より手を突っ込むレナは、中より角燈を取り出し、燐寸を擦って火をつけた。
辺りが、ぼんやりと明るくなる。
「どうだ、明るくなったろう!」
ただ火をつけただけであるが、何故か得意気にレナは云う。しかしながらこの深い森の中にては月の光は樹々に遮られて届かぬ。
服を乾かすためには火を焚かねばならぬ。それにはこの角燈の火力ではとても足らぬ。燃やすもの──枯れ枝や落ち葉が必要なのである。
「不便であるな、夜眼が利かぬのは」
ヴラドは、そのように云う。──レナは吸血鬼ではないが故に、ヴラドのように闇の中でもものが見えると云うことはないのである。
しかし──
「では、旦那様はその夜眼を活かして枯れ枝や落ち葉をいっぱい拾ってきてくださいませ。わたしはここで、火の番をしておりますが故」
レナのほうが、1枚上手であった。
ぱちぱちと、落ち葉を燃やす火が走り、枯れ枝を燃やしてゆく。ある程度まで火力か上がると、後は早い。積み上げた枯れ枝の山が一気に燃え上がり、横に立てた杭に架けられた服をその熱をもって乾かしに入る。
「早く乾かぬか……このような情けない格好のまま朝を迎えるなどと云うことは、『始祖』としてはあってはならぬのだぞ……」
なるほどヴラドの云う通り。猿股一丁のあられもない姿にて多織に包まるその様は、まこと情けない格好である。
蒼白く血の気のない肌色がますますその様を加速させており、猿股の色が白いのがまたいただけぬ。色の相乗効果にて、どこからどう見ても、死にかけた半病人の姿にしか見えぬ。
まあしかし、鮮やかな色のついた下着が一般に広く用いられるようになるのはもうすこし後のことで、当時は清潔な印象を受ける白か、或いは淡い色か、若しくは汚れの目立たぬ黒と相場が決まっていたのであるから、これはヴラドの選別眼が悪いとかそう云う類のものではないのである。
その証として、レナの下着もまた同様に白いものであった。──しかしながら慎み深い乙女たる彼女はヴラドのように下着一丁の姿を人眼に晒すようなことはなく、帽布のついた法衣をその身に纏い、裸身を覆い隠していた。
たとえ主が相手でも、乙女としてそのような破廉恥な真似はできぬと云うことである。
「今しばらくお待ちください我が主。夜はまだ長うございます」
燃え盛る焚火の放つ光が、レナの顔を照らす。ヴラドとは違い、血色のよい肌が紅く染まっているのは炎のためか、或いは法衣の下は下着のみと云う恥ずかしさ故のことか──
それは、ヴラドにはわからぬ。
ただ確実に云えること──それは、目指す目的地はもうすぐそこにあると云うこと。
ふたりに焦る様子がそれほど見られぬのは、そのためであった。
赤々と燃え上がる炎が辺りを照らす光が、目的の館をぼんやりと照らしていた。
大きな館──広く、高い館の姿が朧気にその姿を現しはじめていたのである。
「──城か?」
夜眼の利くヴラドが、そのような感想をもらす。
「はい。登記上は館と云うことになっておりますが……これはどう見ても『城』ですね」
角燈にて書類を照らし、レナは答えた。
「税金対策の一環なのか、或いは王族でなくなった際の財産没収を逃れるためかはわかりませんが……いづれにせよ、これは館の皮を被った城です」
登記簿、古地図、図面──これら数々の書類はヘルシングが郵送してきたものの他、レナが役所より引っ張ってきたものも含まれている。
「税金?──あのステファンとか云う男、王家の財産など保有しておらぬと云っていたが……?」
ヴラドがそのような疑問を口にする。
「16世紀に、相続せずそのまま忘れ去られていたようですね。──保有者の名は……ええと……セ……サン=セバスティアン=カルボニア?」
書面に書かれた名を読んだレナの声に対し、ヴラドが反応をみせる。
「聖セバスティアン? 先ほど余が会った聖ステファンのことではないのかそれは?」
戦慄するヴラド。ただでさえ蒼白い顔がさらに蒼くなる。──あの者、ただの人間ではなかったのか?──そのような疑念が彼の心の中に芽生えたのである。
だが、それはどうやら早合点であったようで、
「いえ。それは偶然同じ名を名乗っているだけでしょう。聖セバスティアンは三百年も前に死んでおります。吸血鬼や屍生人としてこの世によみがえったと云う記録も残っておりません。──これはヘルシング教授が直々に墓まで調べて確認したとのことです」
と、レナは云うのであった。
「む……そ、そうであったか」
多織に包まり顔だけを露わとする情けなさの極みと化した始祖は、勇足のうろたえを取り繕うがごとき素振りをみせる。
「これはわたしの私見にすぎませんが、おそらく当時に城を財産目録より一度外しておき、後に王家復興を果たした暁にふたたび手に入れようとしたのではないでしょうか。──それならば説明がつきます。旦那様の眼に触れることもなく、羅馬尼亞王家にも墺太利=洪牙利帝國を統べるハプスブルク王家にも知られずに、この森の中に眠り続けていたことが……」
「うむ、なるほど」
ヴラドは納得がいったようで、そのような返事をした。
だがこの時、彼の頭の中にはひとつの疑問が浮かんでいたことも確かなこと。
(レナは気づいておらぬようであるが……そのような何百年も打ち棄てられ、忘れ去られていた城の中に今なお王族が暮らしているものか……?)
そのような疑念が渦巻く。
だが、ここまで来てわざわざ引き返すのは癪に障るのも、また事実。
(引き返すのは、深い森の中に眠る忘れられた姫君の姿があるか否かを確かめた後でもよかろう)
ヴラドはそのように思い、顔を上げて城を見上げる。
夜眼の利くヴラドには、城の姿がある程度はっきりと見えた。
(蔓……? 蔦……か?)
ヴラドの眼には、蔓性植物に覆われた城壁が映っているのであった。