第3話 サン・セバスティアン
「その者の名は、聖セバスティアン。ここトランシルヴァニアに住んでいるのさ」
ヘルシングの答えは、ヴラドとレナを大いに驚かせるものであった。
まさかこのトランシルヴァニアの森の中に、そのような王家の末裔が今なお生き続けていようとは──とても、信じられぬことであった。
だが、それは事実であった。別れの宴より数日後、ヘルシングが郵送してきた資料にはまさしくその王家の正当性──並びにその血脈を受け継ぐ者、そして現在の当主に当たる者の居所までがこと細やかに記されていたのである。
当主──世が世なら國王陛下たる者──とは云えど、今やいち平民のひとりである。
ヴラドがその者のところを訪ねるのは、容易いことであった。
その者は、教会にいた。
かつての王家の血を引く者の末裔は、僧籍についていたのである。
迎えるは、巨大な十字架。──一般的に吸血鬼の恐れるもののひとつではあるが、『始祖』たるヴラドには、そのようなもの蚊ほどにも感じぬ。
堂々と正面より訪ね、然るべき手続きを終えたる後に、大聖堂の中にてその者との面会に至る。
「余はヴラド=ドラクルア=ツェペシュ伯。この度、貴公の屋敷へと参上してもよろしいかな?」
当主……いや、今は出家して僧門に席を置くセバスティアン──と、これは英語読み。彼自身の発音ではステファンと読む──はヴラドの申し出を受け、
「どうぞ、どうぞ」
と、答えたのであったから、第1関門は突破した。──吸血鬼の作法として、家の主に来訪の許可を得ねばならぬのである。『始祖』たるヴラドも例外ではない。
だが1度来訪の許可さえ取りつけてしまえば最後。後はいかに前言を翻そうが拒絶の意志を明白としようが、吸血鬼の襲来を止めることはできぬのである。
「しかし、愚僧の屋敷に伯爵様がいかなる御用がおありですか?」
セバスティアン……聖ステファンはそのような疑問を口にしたが、
「いや、いや。聞けば聖者殿はかつては王家の血筋にあられた者と聞き及んだもので。我がツェペシュ家もかつては公爵の地位にあったものであるから、すこしばかり興味をそそられた次第である」
と、ヴラドは適当な理由をでっち上げ、ステファンを煙に巻く。──こうしたところを得意とするが、正統なる吸血鬼。『始祖』の面目躍如と云ったところか。
「左様でございましたか。いや、もと王家と云っても、それは何百年も前のこと。今はほれこの通り、冴えない司祭でございます」
「しかし、王家の血を引いておるは事実。さぞ、その際の宝物なども残っておりましょう」
まるで泥棒の下見のようなことを云うヴラドであったが、しかし不審に思わせぬのもまた、彼の話術のひとつ。
「いや、いや。そのようなものはございませんよ。──まあ、王の座より退く際の混乱で、知らぬうちに宙に浮いた不動産など、もしかしたら残っておるやもしれませんがね」
ヴラドの眼が、妖しく輝いた。
「もしそれが見つかれば、貴公も王位に返り咲くことができるかもしれぬな」
それは、並の者にはたいそう甘美に聞こえる魅力的な言葉であったかもしれぬ。
しかしながらすでに司祭となって幾久しい聖ステファンにはそれはまるで興味のないものとみえ、
「いや、いや。愚僧にはこの暮らしが合っております。とても王位に就くなどと云う大それたことは──身に余るもの。主よ、お導きくださいませ」
と、十字を切るのみであった。
「ふはははは! 約束は取りつけたぞ!」
月夜に外套を翻し、己の屋敷へと戻って来たヴラドを出迎える──ハズであった使用人レナは、しかし書斎に引きこもり、調べ物の最中にあった。
「むむ? レナよ。何を調べておるのか?」
「──旦那様がたった今訪問の約束を取りつけてきた屋敷についてですよ!」
まるで他人事のようなヴラドの態度に些か腹を立てたか、やや感情的な色がレナの声には込められていた。
だがどうしたことか、血を吸う相手たる女性の気持ちの機微に敏いヴラド伯、何故かレナのそうしたことには気づかぬようで、
「おお、そうであったか! いや、ご苦労、まことにご苦労!」
と、礼など述べるのみであった。
「それにしても、我が領地トランシルヴァニアの地にそのような王族が眠っていようとはな」
ヴラドがそのように云うと、
「──“灯台もと暗し” ですね」
と、資料から眼を離さずにレナは答えた。
「むむ? 今なんと? 灯台のもとには扉を照らす松明が赤々と燃え盛っておるではないか」
そのような間の抜けた回答をヴラドは返したが、
「旦那様の申しておられるのは港の灯台でしょう? わたしが申しておるのは、部屋の中の灯りのことです!」
と、苛立ちを込めた声にてレナは答える。
「む……そうであったか」
そもそも、夜眼が利く吸血鬼に照明器具について話すのが間違いではあるのだが、レナの剣幕に押されたヴラドはそれ以上突っ込んで訊くことを避けた。
「まあ、旦那様が気づかなかったのも無理はありません。──なにしろ、河向かいにその館はありますからね」
やや落ち着きを取り戻したか、レナは資料を眺めたままに、静かな声で答えた。
「河向かいか……なるほど、道理で知らぬわけよ」
吸血鬼は、河を渡ることができぬ。泳げぬのである。橋など架かっていても、やはり泳げぬことは水への恐怖を産み──あまり近寄りたくないと云う心理をもたらす。
故にヴラドはわざわざ河向かいに渡ることをしなかった。──無論、飛翔すればその向かい側まで渡ることはできたであろうが、高空からは繁った深い森に遮られ、王族の眠る屋敷を見つけることが今までにできなかったと云う次第であった。
「それほど離れてはいませんね……ああよかった! あの時みたいに船便を手配しなくて済みそう!」
レナが云っているのは、ヴラドがかつて英國に渡った際のことである。泳げぬヴラドを海の向こう英國へと運ぶため、当時レナはかなりの苦心を強いられたのであった。
トランシルヴァニアの土を詰めた棺にヴラドを詰め、途中で蓋が開かぬよう内部より掛けられる鍵を用意し、信頼できぬ運搬船を手配することからその受け取り先の厳選まですべて、このちいさな娘が執り行ったのである。
──そのような苦労とは、此度は縁がなさそう。
レナはそう思った。
いや、そう思っていたと云うべきか──
「お、重い! おも〜〜いっ!」
夜の闇の中、ばしゃばしゃと立つ水音とともに、娘の声が森に響き渡る。
声の主は、ヴラドの忠実なる下僕にて頼れる相棒にして屋敷の使用人たるレナであった。
彼女の役目は、主たるヴラドを補佐すること。
吸血鬼であるが故に生まれた制約に縛られた主が自由に動けるよう、全力で支援するがレナの役目なのである。
そう──自力で河を渡ることの叶わぬヴラドを担いで渡河するも、レナの大切な役目なのであった。
「旦那様! すこし太られたのではありませんかぁ?」
「そ、そんなわけがあるか! 余はもう血をしばらくの間吸っておらぬのであるぞ! 太ろうハズなどあるものか!」
ヴラドの言葉は正しい。どちらかと云うと彼は細身の部類に入る。常人の20倍もの怪力こそ有すれど、体重そのものは身長から換算した平均体重を下廻っていたのである。
これは、両者の体格差によるもの。レナの身長は150糎に満たぬ。そのようなちいさな身体にて長身のヴラドを担げと云うのは、なかなかに酷な話であった。
第一、姿勢が悪い。うつ伏せの状態にして両肩に乗せるように担げばよいものを、よりによって仰向けにて一直線に身体を伸ばしたヴラドを両手で持ち上げるようにして運んでいたのであるから、これはもう、無茶と云うものである。
「棺に入っておいたほうが、よかったか?」
ヴラドはレナを気遣ってそのように云ったが、
「この上に棺の重さを加えろと申されますか! ああ、なんと非道な主を持ったものでしょうかねわたしは!」
と、肚の底から響くような力んだ声にてレナは答えるのであった。
どうも、ヴラドの提言は逆効果であったとみえる。
「むう……ならば余はいかにすべきか?」
仰向けのまま、まじめくさった顔にて考えを巡らすヴラドであったが、そのような彼に向け、
「でしたら、背負いますのでわたしにかぶさってくださいませ!──河を渡る前にわたしが云った通りに!」
「ぐう……」
これはレナの負担大きく減らすものには違いなかったのではあったが、しかしヴラドは渡河前にこれを却下した。足や尻、外套が濡れるを嫌い、かつ、水からすこしでも遠くに離れたかったが故のことであった。
だが、いざこうして河を渡ってみれば、思ったよりもレナの負担が大きかった。ヴラドはそれを見かねたのである。
──主たる者、下僕を労わらねばならぬ。
そのような『始祖』の誇りが、ヴラドを動かした。
「よしわかった。貴女の申すことまことにもっとも! このヴラド=ドラクリア=ツェペシュ、忠実なる下僕の進言に従い、今ここに水への恐怖に打ち勝たん!」
そう云い終わるか終わらぬかのうちに、ヴラドの身体がくるりと廻る。レナの右掌に乗った腰のあたりを支点とし、仰向けのまま回転し、そのまま両足を跳ね上げて空中にて後方回転をみせたのである。
これが吸血鬼の身体能力。空中にての姿勢制御は思いのまま。回転の勢いを利用し、そのままレナの背に飛び乗るとともに姿勢を丸め、そのままレナの身体に抱きつくようにその身を固定し──
「ひゃっ! きゃあああ!」
しかしこれは大いなる誤算。しがみついた場所が悪かった。
水に濡れるを嫌い、長身をちいさくまとめたがまた悪かった。
よりによって、ヴラドは背後からレナの胸のふくらみを両手にて摑むかたちとなり、また、長い両の足が下方より──下に襞布を穿いているため裾の広がった──腰布をめくり上げるかたちとなったのであるから、レナからすると突如として痴れ者に襲われたるも同じこと。
「変態いいいっ!」
反射的に、防衛行動をとってしまったのも仕方のないこと。脳髄の指令よりも先に身体が動き、両手にて背後のヴラドの頭を抱え、そのまま『首投げ』の要領で前方に投げ飛ばしたるを、誰が責められようか。
否! 誰にもできぬ。たとえそれが主たるヴラドであったとしても──
「はわっ! だ、旦那様っ!」
レナが我に返った時にはもう遅い。守るべき主はじわじわと沈みながら、
「ガボボボ……ば、莫迦なっ! この余が! 何世紀も先へ永遠を生きるべきこの余が……我が領地トランシルヴァニアの地に死するとは……」
などと散り際のひと言を遺しつつ流されてゆく最中にあった。
「旦那様っ! 旦那様ぁぁぁぁ!」
泳ぎ、主のもとへ駆け寄るレナ。
果たして伸ばしたその手は愛すべき主人を暗き水の淵より助け出すことが──できるのであろうか。