第2話 トランシルヴァニア
そもそもすべての発端は、遡ること2年前のこと。──ちょうど極東の地にて、日ノ本の國が露西亞大帝國を相手に勝利を収め、世界中がその話題に沸きに沸いていた頃のことであった。
「君と会うのもおそらく今夜が最後。今夜ばかりは過去の遺恨も忘れ、素敵な夜にしようじゃあないか」
その日、ヴラドの屋敷を訪ねた客は、歓待しの席にてそのように口を開いた。
「それは、余も同じ。──しかし、かつての宿敵とこうして卓を共にする日が来ようとは」
ヴラドがそのように答えるのも無理もないこと。彼が歓待している相手こそ、彼を退治せんと幾度も戦いを挑んで来た宿敵──天敵とも云う──ヴァン=ヘイレン=ヘルシング教授その人であったのであるから。
何故、ヘルシング教授がヴラドのもとを訪れたのか。降伏であろうか? 否。彼はそのようなあきらめのよい男ではない。
では、和平を結びに来たのか? それもまた異なる。──まあ、実質的に戦いの終わりを告げに来たようなものではあったが。
「わしも思ってもみなんだよ。──だが、君とわしはずいぶんと過去にやり合った仲だ。別れも告げずに去るなどと云う不義理なことは──」
「新大陸に招かれたる大変名誉ある教授としては、断じてあってはならぬと云うことか?」
「そう云うことだ」
そのように云うとヴラドとヘルシングのふたりはどちらからともなく笑い、互いの杯を打ちつけて乾杯を行うのであった。
血のように紅い酒──極上の喬治亞葡萄酒である。串刺し公秘蔵の逸品──最上級の作法を持って、ヴラドは宿敵の門出を祝っていたのである。
大変名誉なことに、ヘルシング教授は新大陸の大学に名誉教授として招聘される次第となったのである。
「貴公ほどの者を招くとは、よほどその大学は教育に力を入れているものと見受けられるが、はて……何と云う名前であったかな?」
なにしろ5世紀も生きているのである。記憶の混濁、混同が時たまヴラドには生じる。耳慣れぬ言葉を失念することは、仕方のないことであった。
「ミスカトニック大学だ。数多くの古い文書がそこの図書館に秘蔵されておると聞く。──じつに、楽しみなことだわい」
齢60を超えてもなお、教授の探究心は衰えぬとみえ、その瞳には少年のごとき輝きがみえた。
「余を滅する法も、書かれているのかな?」
ヴラドはややいたずらな質問を投げかけたが、
「さて……それはわしにもわからぬ。なにしろ並みの手段では読めぬ本もあると聞く。──はたして、読破するまでわしの寿命が持つかどうか」
と、ヘルシングははぐらかすように、その質問には答えぬのであった。
「人間とは、不便なものよ。限られたみじかい生命しか持たぬ」
そのようにヴラドは云うが、
「だが、それがいい。限られた生を精一杯生きる。これが人の理だ」
と、ヘルシングは答えるのであった。
さて宴も酣。互いに酒がまわってきたものとみえ、両者の口数は増えていった。
「思い出したがヘルシング。ひとつ忠告しておく。新大陸に棲む吸血鬼はマニトゥと云い、我ら一族の理は通じぬが故、充分に警戒致せ──あれらは、我が眷属に非ざる者。『始祖』たる余とて、あれらを従わせることはできぬのだ」
「忠告、ありがたく受け取っておくよ。しかし驚いたな。君の云うことを聞かない吸血鬼がいるなんて」
「貴公の云うことを聞かぬ学生もいるであろう。それと同じだ」
「ぬう……そう云われれば、そうだな」
ふたりは、楽しそうに笑い転げた。──いったい誰が、ついぞ数年前までこの両者が互いの生命を賭けた戦いをくり広げていた間柄などと信じるであろうか。
そこには、旧友同士が別れを惜しむようにしか見えぬ光景があった。
「──しかしドラキュラ。君はどうしても血を飲むのをやめられぬのかい?」
ヘルシングの問いに対し、
「それは英國人に茶を飲むなとか、独逸人に麦酒を飲むなと云うのとはわけが違うぞヘルシング。貴公らに麵麭を喰うのをやめろとか、肉を喰うなと云うことも同じであるぞ」
と、ヴラドは答えて云う。──そう、吸血鬼にとって血とは主食。飲むなと云われて、やめられるものではないのである。
「どうにも、ならないのかい?」
そのように云うヘルシングの眼には、悲しみのような色が満ちていたがため、さすがのヴラドもすこしの間おし黙り──その後に、
「どうにもならぬことはないが……しかし貴公の望む答えではない」
と、答えたのである。
「それは、どう云うことだい?」
ヘルシングの問いに対し、ヴラドは右手の人差し指を立て、
「ひとつは、蕃茄を圧搾し、果汁として飲むこと。──だがこれは一時凌ぎにすぎぬ。血の代用品とするには些か物足りぬし、こればかりでは栄養が偏って健康を害す」
と、云うのであった。
「しかし君たちは不死身じゃないか」
「不死身故に、健康を害するは色々とまずいのだ。貴公らは長くとも百年ほどで死んでしまうが、我らは何百年も生きる。──その間ずっと、病気と付き合っていかねばならぬのであるぞ? とても耐えられぬわ。それこそ、貴公らに殺してもらわねばならぬこととなる」
ヴラドは次に、人差し指と中指を立てて云う。
「ふたつは、葡萄酒を飲むこと。──これはひとつめと同じ理由で却下する。なるほど、慥かに酒は蕃茄よりは血に近いと云えぬでもない。しかし酒ばかり飲んでいると確実に健康を害す。さらに、酩酊の危険性も加わる。酒に酔った吸血鬼ほど、手のつけられぬものはない」
なるほど酔っ払い、理性の枷の飛んだ吸血鬼は危険極まる。彼らに比べれば非力な人間とて、ひとたび酔えば取り押さえるのに苦労するもの。素面の際の何倍もの力を発揮し、かつ痛みに鈍くなる。──人間のおよそ20倍の怪力を発揮する吸血鬼ならば、いよいよ人の手には負えぬ。
「最後のひとつは──何だい?」
ヘルシングの問いに対し、ヴラドはさらに親指を立て、
「みっつめ……これはやはり血を吸うことには違いないのではあるが、穢れを知らぬ乙女──しかも高貴なる身分の者の血を吸ったならば、かなり長い期間、絶食することができるのだ」
と、答えたのである。
「高貴なる身分……貴族かな?」
ヘルシングの言葉に対し、ヴラドは首を振り、
「いや、それでは足りぬ。平民とさほど変わったものではない。余の云う高貴なる身分とは──王族や皇族。それほどの地位のことなのである」
と、答えたのであったから、
「それは──」
と、さすがのヘルシングも言葉を切るに至る。
「左様。貴公が今考えておる通り、そのような行為にもし至れば、いかに余とて大逆罪に問われることとなる。吸血鬼一族の長、『始祖』として、そのような大それたことはとてもできぬ。──余が罰されるのみならばともかく、他の眷属累々に責が及びかねぬからな……とても、できぬわ」
ここトランシルヴァニアは些か事情が複雑である。ヴラドの出自も、そこに関わってくる。
もともと、ヴラドはここトランシルヴァニアの住人ではない。産まれも育ちも、森を抜けた南方のワラキアであった。今現在の羅馬尼亞の主力拠点である。
故に吸血鬼となった今現在にても、ヴラドは自分が羅馬尼亞の民である意識が強い。
一方、ここトランシルヴァニアは墺太利=洪牙利帝國領である。ここが羅馬尼亞領となるには、もうすこしの時を待たねばならぬ。
先に述べた通り、ヴラドはあくまでも羅馬尼亞に忠誠を誓っている。羅馬尼亞王家に対し牙を剥くなどと云うことは、彼の頭の中には存在せぬ。
故に狙うならば墺太利=洪牙利皇族と云うことになるが、しかしそれはあまりにも相手が強大すぎる。もしも事が露見すれば──
トランシルヴァニアの森がすべて焼け野が原となりかねぬのである。
「余だけの問題ではなくなるのだよ」
ヴラドはそう云うと、杯を煽った。
「……」
それよりヘルシングはしばらく、眼の前の杯に湛えられた葡萄酒の揺れるを眺めていたが──やがて視線をヴラドに向け、口を開き、
「──大逆罪に問われぬ王族がいるとすれば、どうかな?」
と、申したのであったから、さすがのヴラドも虚を突かれたようで噎せ込んだる後に、
「がはっ! も、耄碌したかヘルシング! そのような者がこの世にあろうハズも……」
「ない──と、云うのかな?」
「当然である! いかなる君主であろうと、それが玉座に就いておる限り君主である! 君主ならびにその一族を蔑ろにすることなどあってなるものか!──そのような國は、やがて滅びる!」
「それだよ、ドラキュラ」
今度はヘルシングが右手の人差し指を立てた。
「滅びた國ならば、誰も文句を云うまいよ」
ヘルシングの言葉は大変恐ろしいものであった。ヴラドは戦慄し、汗をたらす。彼がここまでのうろたえをヘルシングの前で見せたのは、今までに於いてその心臓に白木の杭を打ち込まれそうになった時以来であった。
「き、ききき貴様! まさか余に帝國を滅ぼせと云うのか!? お、愚か者! そのような大それたことができるか! 不忠である! 不忠の極みである! なるほど慥かに余が忠誠を誓うは今なお羅馬尼亞王家ただひとつなるが、しかしここが帝國領であることもまた事実! 帝國の禄を喰みながら叛旗を掲げるなど──」
「君は何か勘違いしている。わしがいつ、君に謀叛を勧めたと云うんだい?」
「今まさにこのまたたく瞬間──」
「違うよ。──やはり君は勘違いしている。わしが云いたいのは、國を滅亡させるのではなく、“すでに滅びた國の王族ならどうか?” と、云うことだよ」
ヘルシングの問いに対するヴラドの言葉は、
「王位にあろうとあるまいと、それは血の質に何らの変化もみせぬ。ただ代々受け継がれてきた血脈のみが、他との違いをみせるのだ」
と、云うものであったから、
「ならば、それらを探せばどうだろう?」
と、ヘルシングは云うのであった。
「──貴公……恐ろしいことを申すな。──いや、わずかな犠牲にて多数を救うは、王たる者の義務と呼べぬでもないが……しかし……」
ヴラドとて爵位を持つ者。ヘルシングの言葉をそのまますべて受け入れることはできぬ──が、それに理があると云うことを理解することができたのも、また事実。
そのような揺れ動く心情の中、次なる言葉が飛んで来る。
「ハプスブルク家ともホーレンツォレン=ジグマリンゲン家とも一切の関わりのない、すでに滅亡した王家の一族が今なお生きているとすれば、どうだね?」
卓に両手を着き、ヴラドは立ち上がって叫ぶ。
「そ、そのような者がおると云うのか!」
眼の前に突如として突き出された甘い餌に、ヴラドはまんまと喰いついた。
「そのとおりだよドラキュラ。遥か昔に滅亡し、今となっては平民と化した末裔が残っているだけ──君がいくら血を吸おうと、罪に問われることはない。誰も文句は云わない──このわしもね。わしは米國に移る。誰も、君の邪魔をする者はいないのさ……」
その時、ヘルシングの眼が妖しい光を帯びていたのを、レナは見ていた。
何かしらの策謀がそこに込められていたと云うことに、彼女は気づいたのである。
だが、彼女はただの使用人。何らの決定権を彼女は持たぬ。
決定権を持つ彼女の主ヴラドは──
「そ、その者はどこにおる! どこにおるのだヘルシング! 答えよ! 余と貴公の仲ではないか! 今すぐ即刻この場にてその者の名と居場所を答えい!」
と、宿敵ヘルシングに向けて詰め寄る始末であった。