異界の扉
僕は、呆気にとられながら、その黒い球を見ていた。空間の穴なのか?それとも、単なる黒い球なのか?立体に見えるその黒い球は、まるで電気が放電するように、黒い何かがほとばしっていたが、その音はなく、目の錯覚だと言われれば、それまでのような気がした。
リコは、微笑みながら、その球に近付く。
「待った!それに近付かない方がいい…」
そんな得体の知れないものに近付くのは愚の骨頂に思えた。
だが、リコは、心底不思議だとでも言うような表情でこちらに振り向いた。
「キュー何を言ってるの?異界の扉が開いたのよ?これで私はTELLERになれるのよ?」
何を言っているのかがわからない。そもそもTELLERは、作り話だ。作った本人が言うのだから間違いない。リコは、現実と妄想の区別がついていないのか?
「何を言ってるんだ?TELLERは、作り話だ!その黒いのとは、無関係だ!」
「キューこそ、何もわかっていないのね…。TELLERは、もう現実なの」
…どう言えば、リコを説得できるのだろうか?
「…現実かもしれないね。そうなると、その異界の扉に近付くと、怪異になってしまう事になるよ。もう、異界の扉が出現する事は、確認できたんだ。ここらが、潮時だよ。2人で逃げよう」
とりあえず、リコの主張を認めつつ、2人で逃げる事を提案する。可哀想にリコは、クラスから孤立して、少しおかしくなってしまったのだ。なんとか、彼女を孤立から救い出して、正気に戻さないと…。
「ふふ、嘘吐き」
リコが笑顔で語りかけてくる。その笑顔まで狂気に侵されているような気になってくる。
「キューは、TELLERなんて信じてない。それでも信じた振りをして、逃亡の提案をしてきた。
…それは同情?
可哀想にこの娘は、狂っちゃったのね、とでも思っているのかしら?」
ギクリとするが、それが顔に出ないように努める。
「そんな訳ないよ。現にそこに異界の扉があるんだ。信じていない訳がないじゃないか?」
嘘だ。あの禍々しい黒い球体が、異界の扉とは思えない。あれは、もっと別の何かだ。
「キュー、私はね。この世界が退屈だったの。だって、そうでしょ?つるんでないと何もできない連中ばかり。教師だって、私の両親だって、私から見たら、みんな子供みたいに見えた。そりゃ、本に逃げたくなるわ」
唐突に語り始めるリコ。
「でもね。ある日、夢を見たの。すっごく怖い夢」
パキパキッ。
何か音が響き始める。
「その夢の中で、ーーを見たの。ーーは、私に尋ねてきたわ。『この世界から抜け出したいか?』って。
私はすぐに答えたわ。
『こんな退屈な世界大嫌い!抜け出せるものなら抜け出したい』って」
パキパキッ。
何を見たと言ったのか聞き取れない。リコは何に唆される夢を見たのか?
気がつくと、ロウソクの火はすべて消えていた。
「そしたら、『それ』は、教えてくれたの。クラスの久古って男子と怪談を作れと。そうすれば、この世界から抜け出せる方法が、自然とわかるって」
パキリッ。
ロウソクが音を立てて、崩れ始める。先程から聞こえていた音は、ロウが割れる音だったのだろう。
「そう。私は最初から、この世界を抜け出したくて、あなたに近付いたの」
崩れたロウが、少しずつ宙に浮き始める。
こんな事あり得ない。
でも、実際に目の前で起きている、この現象はなんなんだろうか?
「待てよ!何に唆されたんだか知らないけど、そんなのただの夢だろ!?」
リコは微笑む。
「じゃ、この現象はなんなの?あなたと作った怪異じゃないの?
裏百物語は、私の案だったけど、TELLERとして異界に行くってのは、あなたが考えた設定じゃないの?
ただの夢だったら、百物語が終わっても、何も起きなかったはずよ?」
宙に浮いたロウが、リコに寄っていく。
このまま、リコはTELLERになってしまうのだろうか?
いやだ。リコと離れたくない。
リコにはいつも側に居て欲しい。
そう、僕はリコが好きなんだ。
彼女と物語について話をしたり、彼女の笑顔を見るのが好きなんだ。
TELLERが、現実になってしまったとかは、この際、どうでもよかった。ただ、彼女が、リコが居なくなってしまうかもしれないというのが、たまらなく嫌だった。
「嫌だ!行かないでくれ!クラスの事は、僕がなんとかするから!僕は、僕だけは君の味方だから!」
僕は、リコに駆け寄ろうとする。
「来ないでっ!」
激しい声が響く。
「『僕だけは君の味方』?笑わせないで!何もしようともしなかったくせに!
私が苦しい時、辛い時、嫌な気持ちになってる時、あなたは何をしてたの?
高野達と遊んでただけじゃない!?」
リコの声が響く。
「違う!僕は…」
「いいえ!違わない!あなたは、私がクラスで孤立していくのを、傍観していただけ。
それなのに、2人になったら『僕だけは味方だ』なんて言って…。ちゃんちゃら可笑しいわ。
…キッカケは、すべてあなたの言葉だったっていうのに…」
リコの言葉が、心に刺さる…。
「違う!僕は、君を助けたいって…。春休みで作戦を考えて、ちゃんと、助けてあげようとしてたんだ!」
「助けてあげる?何様のつもりよ!結局、あなたは、自分しか見ていないのよ!」
「違う!僕は…君が…リコが好きなんだ」
言ってしまった。もっと、ロマンチックな告白を夢見ていたのに、勢いに任せて、こんなシチュエーションで…。
リコもきっと僕の想いに応えてくれる。それだけの時間を僕らは、過ごしたはずだ。僕は、リコの反応を待った。
「何か勘違いしてるみたいだから、教えてあげるけど、私は、あなたが大嫌いなの。
頭でっかちで、理屈だけ並べて、相手を見下して、自分を守って…。まるで、私の嫌な所を見せられてるみたい…」
一番聞きたくなかった言葉を、一番言って欲しくない相手に言われている。僕は、怒声を浴びせながら涙を流すリコを見ていることしかできなかった。
「いつでも、どこでも、自分、自分、自分!もう、あなたなんて、ウンザリだわ!…そして、こんな私自身にも…」
そこまで呟いて、彼女が力なく微笑む。
「もう疲れちゃったの」
宙に浮いていたロウが、彼女を覆い始める。
彼女の姿が、白いロウに包まれ始める。
足を、
体を、
指を、
首を、
顔を、
髪を。
彼女の全身にロウが纏わり付いていく。
…きれいだ。
僕は、そんな事考えてる場合じゃないってわかっているのに、その光景に見惚れてしまった。あんなにも自分を、自分の告白を全否定してきた相手だというのに…。
「じゃあね。せいぜい私の事、語り継いでね」
完全にロウに包まれて、全身真っ白になったリコが無表情で。そう言って黒い球体に触れる。
その瞬間、球体から眩い光が発生する。
思わず目を閉じる。
バイバイ。
世界が白い闇に包まれた時、最後にそう聞こえた気がした。
気がつくと、ロウソクもリコの姿も2人で綴ったノートの中身も、リコに関わる何もかもが消えていた。




