もう1人の自分
戻ってきた近藤と再び、取調室に入る田辺。
青年は、朝と同じように左手の親指と人差し指を擦り合わせ、それをジッと見ていた。
「今、サイバー犯罪対策室に依頼して、近代伝承のススメっていうHPを見てきたよ」
近藤が、静かに話し始める。
「君の言う『見たら発狂する動画』って話は、あったけど、残念ながら、動画へのリンクは存在しなかった」
ッ!
思わず、近藤の方を見る田辺。
俺が見たところで、削除されたのか?
驚いている田辺を不思議そうに見た後、近藤が続ける。
「もちろん、途中で削除された可能性を考えて、対策室の人に更新を調べてもらったんだけど、ここ1年、更新は滞っているみたいだったよ。だから、君が動画を見たのは、1年以上前ってことでいいのかな?」
「...」
青年は、まるで話を聞いていないように、無言だった。まるで、朝の状態に戻ったような感覚を近藤は覚えていた。また、田辺が怒鳴るのではないか?と田辺の様子を伺うが、予想と反し、無言で何かを考えているようだった。
「さて、君が今回の事件は、右脳がやったと主張したいって事は、理解できた。じゃあ、右脳の奴は、なんでこんな事件を起こしたんだろう?一緒に考えてくれないか?」
「...」
近藤が、優しく、青年の主張を認めつつ、動機を聞き出そうとするが、青年は無言のままだ。ちらりと田辺の方を伺うが、田辺は、心ここにあらず、といった状態だった。
田辺は、ずっと考えていた。
確かに自分は、都市伝説のサイトから、動画まで飛び、その動画を見た。あまりにも不気味な動画だった。だが、近藤はリンクはなかったと言っている。スマホでしか見られないのか?いや、対策室の連中はプロだ。そんなことに気付かない筈がない。
訳がわからない。
さらに、動画と事件について考える。
右脳を活性化させる動画。
それぞれ、違う人格を持つ左脳と右脳。
当初、左利きと思われていた犯人像と右利きの青年。右脳派の人間は左利きになると言うのは有名な話だ。
右脳は、芸術家肌だとも言われている。あの殺害現場は、ある意味アート的とも言えるのではないか?
青年の言っている事は、本当は、全て真実だったのではないか?
...もし、全て真実だったとしたら、動画を見てしまった俺は、どうなる?
「...さん、田辺さん!」
「ん?...ああ」
「どうしたんですか?ぼぉっとして!こいつ、またダンマリですよ!」
「ああ」
おもむろにパンツのポケットを探り、消しゴムを取り出す田辺。バンッと机の上を叩く。その音に、青年が田辺を見る。自分の方を見ている事を確認して、消しゴムを青年に向かって軽く投げる。
放物線を描きながら、自分のところへ飛んでくる消しゴムを青年は、両手でキャッチし、田辺へ視線を戻す。
田辺は、青年の持つ消しゴムを指差して、投げる動きをし、続いてキャッチする動作をしてみせる。要は、投げ返せというジェスチャーだ。
青年は、首を傾げた後、消しゴムを見て、投げ返す。...左手で。
消しゴムをキャッチした田辺が近藤に告げる。
「近藤、今のこいつに何を言ってもムダだ。こいつは、今、右脳だ。言葉は喋る事も出来ないし、そもそも、理解もしていないだろう。言語野と繋がってないんだから」
演技だとしたら、大したもんだ。
田辺はそう思い、予定よりも早く、近藤に取調べの終了を告げた。本当は、今の状態の青年から、絵なり何なりで、いろいろ聞くべきだろうが、正直、田辺は青年と関わりたくなかった。特に、今の状態の青年とは…。
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「結局、自白させる事は出来ませんでしたね」
近藤が、悔しそうに話す。
「まあ、仕方ないさ。起訴には持ち込めそうなんだから、それでヨシとしよう。あとは、検察の仕事だ」
あの感じだと、心神喪失は認められないだろう。内容はともかく、会話に不自然な点がない。ただの演技だと思われるだろう。だが、実際に動画を見てしまった田辺は別だ。あの青年の話のすべてを嘘だと決めつける気持ちは、もう消えていた。
それほど、あの動画のインパクトが強かったのだ。今でも、あの映像が頭の中で回っている。そういえば、イメージなどは、右脳の管轄と言われている。あの映像が、ずっと頭の中で、回っているという事は、右脳が活発に働いている証拠でもあると言えるのかもしれない。
田辺は考える。
あの右脳の活性化を狙って作られた動画が、実は右脳の暴走を促す効果を持っていたとしたら、と。
なぜ、対策室の連中が動画へのリンクを見つけ出せなかったのかはわからないが、あんな動画は二度と見たくない。
「田辺さん、調書、調書」
近藤に言われ、机の上の調書を見る。先程の取調べをまとめようとしていたのだ。調書には、訳の分からない記号が書かれていた。そして、左手にはボールペンが握られていた。
いかんいかん、無意識に落書きしてしまったようだ。
…左手...で?
田辺は、慌てて落書きだらけの調書を捨てるために席を立つ。
気がつくと、田辺は席に座り、席にはコーヒーが置かれていた。
「なっ!?」
慌てて、椅子から転げ落ちる。
「何やってんですか?さっきから」
近藤が眉をひそめて、話し掛けてくるが、それどころではない。自分の中で、時間が飛んでいることが理解できた。
先程の青年の言葉が蘇る。
…用意してもいないコーヒーが目の前にあったり、
気がつくと見知らぬ場所にいるという恐怖…。
田辺は、自分の左手を見ながら、呆然としていた。
完