第七章
ゆっくりと、時は秋へと移ろっていった。王宮を覆う木々は鮮やかな赤や黄色に色づき、空は高く透き通るようになった。
フランツとジークの朝の乗馬は、途切れることなく続いていた。
葡萄園では、フランツは剣の稽古にもいそしんだ。決して目覚ましい上達は見られなかったけれど、ジークと剣を合わせることが、フランツには喜びだった。彼の黒い瞳の中に自分の姿が映ることが、嬉しかった。二人の間にあるのは主従の絆であり、フランツが夢見たような中世の姫と騎士のそれではなかったけれど、それでもジークとともにいられることが、フランツを強くした。
フランツは思った。あの歌をジークに捧げたい、と。
彼が以前に歌ってくれた、異教の女神の歌。夫を身代わりに差し出して、黄泉の国から蘇った女神の歌。恐ろしい話なのに、なぜか切なく心揺さぶる節で語られる、あの歌。
ジークが望んだ、幸せな結末を捧げたい。喜んでもらいたい。そして、少しでも私を…。
だが、なかなか納得できる結末は思い浮かばず、ジークに語れないまま時は過ぎていった。
そして、木々は黄金色の雨を降り注ぐように落葉し、冬の気配が近付いてきた。
「レーベン、竜眼の騎士をフランツに付けさせたのは正解だったようだな」
ヴィルヘルム王は満足そうに言った。
何かと理屈をつけては臥せってばかりの、弱々しい不肖の息子が、最近は剣の修業に精を出し、乗馬も欠かさず、鍛錬を続けているという。召使いたちが語る、そうした報告は、王を大いに喜ばせた。
実際、ジークと馬で出かけるようになってから、フランツは目に見えて健康になっていった。それが、王やレーベンという強圧者から逃れる時間がもたらした恩恵であることを、王自身は知ろうともしなかったが。
「そうは思わぬか、レーベン」
「はっ。まさに仰せの通り。私めも、王太子殿下には竜眼の騎士のような厳しい軍人の教えが必要なのではないかと、常日頃思っておりました」
レーベンは恭しく頭を垂れた。利にさといレーベンは決して王には逆らわない。以前、王太子の教育係を降ろされたことに激しく抗議したことも、ジークの陰口を宮殿中にばらまいたことも、一切おくびにも出さない。
そんなレーベンの卑屈な視線を知りながら、王は冷酷そうな青い瞳を細めて頷いた。
「やっと、あの馬鹿息子も王太子たる自らの責任に目覚めたようだ。王たる者、この世で最も強き男、男の中の男であらねばならぬ。国を統べるとは、そういうことだ」
「仰せの通りにございます、偉大なる我が王よ。王太子殿下のご様子、大変結構なことにございます。私の苦労もやっと報われたように思えます」
「お前がいつ苦労した?」
「教育係のころは、気をもむ日々の連続でございました!殿下の弱々しいご様子に、このままでは立派な王になれるのだろうか、もしかしたらルドルフ様のように…」
「その名は口にするな!」
王は突然、烈火のような声で一喝した。「そのような王家の名誉を汚したおぞましい名は、二度と私の前で口にするな!」
「も、申し訳ございませぬ!」
レーベンは縮み上がって跪くと、頭を低く垂れた。「出すぎた口を叩いてしまいました。このレーベン、陛下を思うあまりの、忠義ゆえにございますが、言葉が過ぎました。どうぞ、お許しいただけますと…」
「ふん」
ヴィルヘルム王は鼻を鳴らした。「分かれば良い。そういえば、オーストリアでは女が帝位に就いたそうだな。愚かなことだ。王冠とは神がこの世で最も強い男に授けるものであるのに。かの国は神から見離されたな」
「仰せの通りにございます。強き王を戴くことができる我が国は、まこと幸せにございます」
歯の浮くような賛辞を並べ、レーベンは額を床に摺りつけんばかりに頭を下げた。
あからさまな追従であるのに、王は満更でもなくレーベンのおべっかに聞き入り、満足気に頷いた。
「それにつけても、ノルデンシュタットをどうするかよの…」
王は立ち上がると、表情を曇らせた。
ノルデンシュタットは最も北の国境に位置する砦だ。冬の寒さは想像を絶するほど厳しく、赴いた者の半数は生きて帰れない。ノルデンシュタットに行くのは、罪人か、食い詰めた傭兵しかいなかった。そのノルデンシュタットでは今、敵の侵入が相次いでいた。国境に目を光らせ、砦を立て直すことが急務だった。
「ノルデンシュタットには、誰よりもすぐれた軍人を派遣せねばならぬ。そうだろう、レーベン」
王は意味ありげにレーベンを見た。
レーベンはギクリとした。ノルデンシュタットはもうすぐ雪に閉ざされる。王命だとしても、そんな寒さの厳しい場所で野垂れ死になどはしたくはない。死なないとしても、なぜそのような辺境の地で耐え忍ばねばならぬのか。
「そ、それならば陛下!」
レーベンは引き攣った笑顔で言った。「それこそ、竜眼の騎士ジークフリート・ヴァルデンナハトが適任ではないかと。将軍として派遣するのであれば、平民のヴァルデンナハトとしては破格の大出世、存分に働いてくれるのではないかと」
「ほう、『身代わり』を考えたか」
「身代わりなどと、とんでもない。私めが老骨に鞭打って馳せ参じたいところですが、ヴァルデンナハトには適いませぬ」
「だが、レーベン、そういうわけにもいかぬ」
王は冷笑した。
「王太子殿下の教育係でございますか?それならば、不肖私めが再び…」
「そういうことではない。ヴァルデンナハトを、マイヤーが娘婿にしたいと申しておるのだ」
レーベンは言葉を失った。
「マイヤー卿が…ですか?」
「そうだ」
「ですが、ヴァルデンナハトは平民、しかも、卑しい傭兵の子にございます。伯爵であられる高貴なマイヤー家にはおよそふさわしからぬ…」
「確かにヴァルデンナハトは平民だが、王の竜眼の騎士だ。マイヤーの姫の相手には不釣合いではなかろうよ」
王の言葉に、レーベンはグッと詰まり、赤ら顔をさらに屈辱で赤らめた。マイヤーは伯爵であるだけでなく、王直属の長身部隊の隊長だ。恵まれた容姿と温厚な人柄で王宮での人気も高い。その婿となれば、王とても北の果てには送らないだろう。
沈黙したレーベンの心を見透かしたように王は冷酷に笑った。
「安心するが良い、レーベン。功成り名を遂げたそなたにノルデンシュタットに行けとは言わぬ」
レーベンの顔があからさまにパアッと輝く。その顔を王は見逃さなかった。
「嬉しいか?レーベン」
「そ、そんな。私といたしましては、蛮族どもをこの手で切り捨ててやりたいところでしたが…」
「そうであろう。その代わり、お前の甥であるグラーツに行ってもらおうと思う」
「グラーツを、ですか…?」
レーベンは今度は蒼白になった。そのさまを王は残忍な笑いを浮かべながら見ている。
「もちろん、そなたの言うように将軍として遇してな。それこそ、良い出世ではないか」
「は、はあ…」
レーベンは力なく頷いて王の御前を辞すると、声を荒げて召使いを呼び、大急ぎでグラーツを探しに行かせた。
「ジークが結婚…?」
その知らせに愕然としたのは、フランツも同じだった。
昼下がり、フランツの部屋に突然訪れたゾフィーがその噂を告げた。
「あら、ご存知なかったの?竜眼の騎士殿のことは、貴方はすべて知っていると思っていたわ」
父親とそっくりの、冷酷な青い瞳でゾフィーが笑った。
「マイヤー隊長のご息女…」
「ええ、そう。ギーゼラと言ったかしら。お気の毒にね、伯爵令嬢ならば、王家に嫁いでも不思議ではないはず。なのに、あんなどこの馬の骨か分からぬ男の妻にならねばならないなんて」
フランツは脚の力が抜けていくのを感じた。椅子に座ったまま、立ち上がれない。
ジークが結婚する。いつか必ず、その日は来るとは思っていた。しかし、それがこんなに突然に来ようとは。フランツは凍りついた笑顔を張り付かせて聞いた。
「…その方は…、ギーゼラ姫は、お美しい方なのですか?…お優しい方なのですか?」
「さあね。あまり記憶にないわ。大した器量ではなかったと思うけれど」
「…良い…良いお話では、あ、ありませんか。マイヤー隊長の姫ならば、心優しいお方なのでしょう。ジークは、…竜眼の騎士。姫に、終生忠誠を尽くされるでしょう…」
「あらまあ、フランツ、あなたはそれでいいの?」
「…どういう意味ですか?」
「あら、ごめんなさいね。私てっきり、貴方もルドルフ伯父様と同じかと思っていたわ」
「だから、どういう意味ですか、姉上!」
「さあね、勝手にお考えなさいな」
ゾフィーは扇子で口元を押さえながら高らかに笑うと、凍りついたフランツを残して去っていった。
翌朝、いつもと変わらぬふりをしてフランツはジークと馬を駆っていた。
葡萄園ではいつもと変わらぬ朝食をとった。フランツにとっては、まるで石を飲み込むようだったけれど。
聞かなければ。何食わぬ顔で。
フランツは何度か口を開きかけた。だが、なかなか言い出せない。
一体、何を聞けばいいのか。いつか必ず来ることだとは分かっていた。ジークの静かな黒い瞳、艶やかな髪、大きな背中、伸びやかで逞しい腕。何一つとして、自分のものにはならないことは分かっていたのに。
「どうかされましたか?」
ジークの問いに、フランツは慌てて手を振った。
「な、何でもない」
「ですが…」
フランツはグッと唾を飲み込んだ。やはり聞かなくては。
「ジーク、君は…マイヤー隊長のご令嬢と結婚するのか?」
渾身の力を振り絞って聞いたフランツだったが、ジークは顔色一つ変えずに答えた。
「まだ、決まってはおりません。そのようなお話を、光栄にもいただいてはおりますが」
「そうか…」
フランツは頷いた。穴が開いた風船のように、すべての力が抜け落ちていく。
「はい」
ジークはいつもと変わらぬ様子で答えた。
「美しい方なのか?…ギーゼラ姫と聞いたが」
「女性の美醜は、私にはよく分かりません」
ジークらしく率直に言う。「ただ、緑の目をしておられます。あの竜眼の石のような」
「竜眼の石…」
(その瞳が、ジークの心を引きつけたのだろう。私の瞳には、その力はない…)
「殿下?」
「何でもない。あ、そ、そうだ。あの歌、歌の続きを考えてみたんだ。君が気に入ってくれるかどうか、分からないけれど」
「歌の続きを?」
「あ、ああ。君が以前に歌ってくれた、死後に夫を犠牲に蘇った異教の女神の話だ。こんな話はどうだろうか」
フランツは努めて笑顔をつくった。「女神は…自分の間違いに気付くんだ。夫は身代わりとして黄泉にくくられた後でも、彼女を愛していたんだ。そして女神もまた、彼を愛していたことを思い知る」
フランツはチラッとジークを見た。ジークの黒い瞳が、怖いくらいに真剣にフランツを見ている。
ああ、とフランツは思った。
(どうか気付いて。君もまた間違っているんだ、と。結婚なんてしないでほしい。君が愛しているのは、本当は…)
「そして…、そして、女神は悔い改め、夫を地上に戻すように死霊に頼むんだ」
「でも、死霊は代償を求めるでしょう?」
フランツの思いに気付くはずもなく、ジークは問う。
「その通りだ。だから」
フランツは平静を装いながら続ける。「女神は再び宝を、この地上の宝を死霊に渡すんだ。でもきっと、それだけでは死霊は納得しない。夫の代わりに…そうだな、はやり病を患った浮浪者を差し出すんだ。そうすれば、地上は宝を失うが、清らかになるし…」
「それはなりません、殿下!」
ジークが突然、鋭い声を出した。フランツはビクリ、と震える。ジークの目が怒りを孕んでいる。
「ジーク…?」
「恐れながら、殿下。その結末では、私は…あの竜眼の石は、納得しないでしょう」
「わ、私は、何か間違っただろうか?」
「殿下は、いずれ王になられるお方。だからこそ、そのような手法で、世界を浄化しようと考えてはなりません」
「でも、はやり病は根絶しなければ…」
「以前にもお話をしましたが、私の母は病人を救おうとして、逆に命を落としました。病は憎むべきものですが、病を得た人間は救うべきものです」
「…あ…」
「浮浪者も、生まれながらの浮浪者はおりませぬ。戦争なり、病なり、そうしたつらい事情があって、家族を失い、家をなくし、さまようのです」
フランツは恥ずかしさに顔を赤らめ、俯いた。得意げに言ったことが、ジークを傷つけてしまった。自分の考えのなさが情けなく、いたたまれない。
「それに殿下。なぜかこの竜眼の石も、その結末は違うと言っている気がします」
「…ごめんなさい」
フランツの目に涙が溜まる。そのさまを見て、ジークの目が、穏やかになった。
「あやまるようなことではございません、殿下」
ジークはフランツの前に跪く。「私こそ僭越なことを申し上げました。どうぞお許しください。殿下のお心遣いには、深く感謝申し上げます」
「…私はどうして、こんなに何も知らないのだろうな」
こんな愚かな自分を、責めることなく慰めてくれるジーク。何とかそのやさしさに応えたい。せめてそのくらいは捧げたい。
その時、フランツはひらめいた。
「ジーク、その剣を持っていると、竜眼の石の気持ちを感じられるのだろうか?」
「はい。少なくとも私はそう思います」
「ならば、しばし、その剣を私に貸してはもらえぬだろうか。その石を、私も知りたい。その石の思いを」
ジークの顔が一瞬曇った。
「殿下、これはヴィルヘルム陛下よりお預かりしている剣。いかに殿下と言えど、お貸しするわけには…」
「一晩、一晩でいいんだ!私も石と向かい合ってみたい。石の声を聞いてみたいんだ。そうしたら、君が望む歌を作れると思うんだ」
フランツの頼みに、ジークは折れた。
「一晩だけですよ。それでは今晩、宮殿に戻ったら殿下の部屋に運びましょう」
「ありがとう!」
フランツはジークの首に抱きつくと、その額に口付けた。
その時だった。
ジークの肩がビクリ、と動いた。稲妻のように素早く立ち上がると、剣の柄を手に、フランツを背にかばい、鋭い視線を周囲に放つ。
「ど、どうかしたのか?」
フランツの問いにジークはすぐには答えず、じっと風の音に耳を澄ましていた。が、武装を解くように緊張をほどいた。
「いえ…。視線を感じたような気がしたもので」
「視線?」
フランツも周囲を見た。が、やはり塔を渡る風以外動いているものはない。「きっと、ルドルフ伯父上の幽霊だ。前にも感じたから」
「幽霊よりも、生きている人間の方が恐ろしいのですよ、殿下」
ジークは難しい表情のまま、そう言った。