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王のカノン  作者: 秋主雅歌
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第五章

 「そんな物は捨てておしまい!」

 王女ゾフィーの鋭い声が、夕暮れの宮殿の廊下に響き渡った。彼女は自室にいるのだが、その大きな声は開け放った扉からあちこちに轟き、召使いたちも立ち止まってこわごわと聞き耳を立てている。

「ですが、姫様、せっかくの公爵様からの贈り物を…」

 女官が必死でとりなすが、王女はさらに苛立って怒鳴る。

「捨てておしまいと言ったのが、分からないの!これ以上言うなら鞭をくれてやるわ!」

 偶然王女の部屋を通りかかったフランツが、慌てて駆け込んだ。

「姉上、いかがされたのですか?」

 そこには鞭を振り上げた姉と、泣きながら顔を両手でかばう年若い女官がいた。

 フランツは顔を歪めた。いつものこととは言え、気持ちの良いものではない。この二つ年上の姉は癇癪もちで、弱い者ほどいたぶりたがる。そんなところが、父と姉はひどく似ていた。

「あら、フランツ。何か御用?」

 ゾフィーは美しい眉を動かし、露骨に嫌そうな顔を見せた。一見、彼女とフランツは似ていた。プラチナブロンドの髪、大きな青い瞳、少し唇は尖っているが、端正な顔立ち。フランツが小柄で細いこともあって、女性にしては長身な彼女と双子のように見えなくもなかった。だが、印象は百八十度違っていた。ゾフィーの瞳はフランツよりももっと濃い青で、もっと強い光を孕んでいた。その態度は父王に似て高慢かつ冷酷。自分に従わない者は滅ぼすのみ。彼女には怖いものは何もない。

 そんな尊大な王女だが、それを偉大な指導力とみる者も少なくなかった。それゆえ、王宮内では王太子であるフランツよりもゾフィーの人気が高い。「ゾフィー王女が男だったならば王国は安泰だったのに」との声も地下水脈のように存在し続けていた。

 そんな周囲の思惑を感じ取っていたこともあるが、フランツはこの姉をどうしても好くことができなかった。父親と同じ思考、同じ種類の人間である姉の前に立つと、フランツは自分が萎縮してしまうのを感じた。

「…こ、声が聞こえたので…。何かお困りかと思って…」

「ええ、困っているわ。ああ、丁度いいわ。あなた、これを捨てて来てちょうだい」

 ゾフィーはフランツに向かって薄紅色のドレスと、続いて真珠の首飾りを投げつけた。ドレスはフランツの顔に当たり、首飾りは額にぶつかった後、床に転がった。

「姉上、こ、こんな立派なものを捨てるのですか?よ、良いのですか?」

 フランツは慌てて拾うと、女官を見た。彼女は涙を拭いながら頬を押さえている。その頬には赤い筋が刻まれていた。フランツが来る前に、すでにゾフィーに鞭打たれたのだろう。女官は目を伏せて、小声で言った。

「そ、それは、カイザーリンク公爵様からの贈り物なのです…」

「お黙り!」

 鞭以上に鋭い声が飛んだ。「あのうつけ者は、この私にそんなピラピラとした軟弱な物を送りつけたのよ。何と人を馬鹿にしたことを。胸くそ悪い」

 王女はわざと下品な言葉遣いをした。フランツは改めてそのドレスを見た。しなやかな絹の感触、霧のように繊細なレース模様、控えめだが手の込んだ刺繍、たくさんの蝶のようなリボン、花が綻んだような柔らかな色合い。首飾りも一連ではあるが、ドレスに合わせて薄い桃色の光を帯びた大粒の真珠だ。相当な品であることは確かだ。

「う、美しい品に見えますが…」

「そんなちゃらちゃらとした品が私に似合うとでも?それにたった一連の首飾りなんぞ、今さら欲しくもないわ。けちくさい男だこと」

 フランツにはゾフィーが激怒した理由が、うっすらと分かった。妖精がまとうような薄紅色のドレスは、大概の少女たちには似合うだろうけれど、長身できつい印象の彼女が着たなら滑稽に見える。それを彼女自身も分かっているだけに、許すわけにはいかないのだろう。それに、美的な感性が鈍い彼女は贈られた真珠の価値が分からないに違いない。分かるのは、イングランド王家に嫁いだ従姉妹は、もっと長い真珠の首飾りをした肖像画を寄越していたということだ。それが、怒りにさらに拍車をかけたのだろう。

「…で、ですが、姉上、これは、こ、婚約者殿からの贈り物でございましょう?」

「まだ正式には婚約者ではないわ。そうよ、なぜ、この私があんな男と結婚しなければいけないの?金だけはあるのでしょうけれど、あんな腰抜け男の妻になってたまるものですか。私が欲しいのは、戦いと勇敢な軍隊よ。そうすれば、世界を良き方向へと導くことができる。ドレスなんて、何の役にも立たない。…生まれながらにして、王冠を頭上に頂いているあなたには分からないでしょうけれど」

「わ、私とて、できるならば…、あ、姉上にこの立場を献上したいくらいです」

「できもしないことを口に出さないでちょうだい!不愉快よ」

 ゾフィーの青い目が稲妻のようにフランツを睨む。彼女が王位につく可能性は、ないわけではなかった。だが、当然ながらフランツの方が継承順位は高い。フランツがいる限り、玉座は彼女には巡ってこないのだ。

「…すみません」

「本当に、どうして私が男に生まれなかったのかしら。なぜ、後から生まれたあなたなんぞに、私のものになるはずだった王国を奪われなければならないのかしら」

「…すみません、本当に」

 フランツは小さな声を絞り出すと、頭を垂れた。

「人の話を聞くときは、目を見なさい!それで王太子のつもりなの?」

 ゾフィーは厳しい声で言うと、鞭でフランツの顎を上げた。「あなたが、そんな情けない様子だから、下賎な平民がつけこんで、大きな顔で王宮にのさばるのよ」

「下賎?」

 フランツは弾かれたようにゾフィーの目を見た。「そ、それは、ジーク…ヴァルデンナハト少尉のことですか?」

「そんな名前なの?『竜眼の騎士』などと呼ばれていい気になっている、あの黒髪の男よ。お父様は気に入っているようだけど、私はそんな身分不相応な扱いには感心しないわ。異教の傭兵の子供だとか聞いた。そんな男を重用しては神が定めた秩序を乱すわ」

「姉上!」

 フランツはキッとゾフィーを睨みつけ、鞭を払いのけた。これまで一度も無いことだった。「そのような、ヴァルデンナハト少尉への侮辱は聞き捨てなりません。彼のご両親は立派な勇者なのです。何より彼は今、私の師です」

 一瞬、気圧されたゾフィーだったが、すぐに顎を上げてさらにきつい視線でフランツを睨みつけた。

「随分な惚れ込みようだけれど、あの男の戦場での所業を知っていて、そのようなことを言っているのかしら?」

「所業?」

「あの男は、前の『竜眼の騎士』が矢で倒れたのをいいことに、かの騎士を一太刀のもとで絶命させ、その剣を奪い取って自分のものにしたのよ。竜眼の剣を手にした彼は、確かに強かったけれど、あまりにも残忍で情け容赦なく、血に飢えた狂人か魔神にしか見えない様子だったとか。その時指揮をしていたレーベンの命令にも従わず、既に降伏した敵たちを情け容赦なく切り刻んだそうよ。騎士と呼べる礼節など何も弁えていなかったと…」

「そんなこと、姉上は見たわけではないではありませんか!」

「見たわけではないけれど、誰もが知っているわ。そんな恐ろしい下賎な男が、この王宮に我が物顔で出入りしているのかと思うと、ゾッとするわ」

「ヴァルデンナハト少尉は、そんな…」

「下々の者の考えていることは、己の欲だけよ。きっとあなたに取り入って出世を狙っているのでしょうよ。ルドルフ伯父上の愛した芸人のようにね。あなたのような世間知らずを騙すなんぞ、赤子の手を捻るより容易いことでしょうから」

「姉上!いくら姉上でもそんなことを言うのは許せません!」

「忠告してあげたのに、口答えする気?随分と偉そうですこと。不愉快だわ」

 ゾフィーはくるりと背を向けた。「用が済んだら、さっさと出て行ってちょうだい!そのごみはあなたが始末するのよ!分かったわね」

 そう言うと、ゾフィーはフランツを追い出し、女官に部屋の扉を閉めさせた。


 フランツは大きな溜め息をついた。胸に沸き起こった怒りのため、まだ鼓動が激しい。自分のことならばどんな侮辱でも慣れているけれど、ジークへの罵りは耐えがたかった。

 きっとレーベンだ。そう、フランツは確信した。

(レーベンが私の教育係の職を解かれた腹いせに、ジークの悪い噂を姉上に吹き込んだに違いない。父王にその声が届くことを狙って。本気にするのもおぞましい、卑劣な噂を流したんだ)

 憤っているうちに、フランツは自室についてしまった。

 結局、ドレスと首飾りもそのまま持ち込んだ。捨てろ、とゾフィーに言われたが、公爵の贈り物である以上、無碍にはできないだろう。オーストリアとの戦争も近いかもしれない。潤沢な資金を持つ公爵の機嫌を損ねたら、父とても厳しい立場に立たされよう…。

 フランツはどうしたものかと、首飾りを見詰めた。確かに決して派手なものではなかったが、一粒一粒の美しさは何と形容したら良いのだろう。見事な球形をした薄紅色の真珠。まるで健やかな少女の肌のような。

(こんな首飾りをつけたなら、私の貧相な青白い肌も輝いて見えるだろうか)

 そう考えた途端に、フランツの胸は高鳴った。

 急いでスカーフを取ると、そっと自分の細い首に首飾りを回した。鏡をこわごわと覗く。

 フランツは、あ、と小さな声を出した。艶やかで生き生きとした真珠の輝きが、まるで自分の体にも生気を与えるように見えた。真珠の色が移り、自分の頬も薔薇のように色づくのをフランツは見た。

 そして、先ほど姉に投げつけられたドレスを手に取った。どうして、こんな美しいものを投げつけられるのかとフランツは思った。頬に寄せると、しなやかな絹の感触が心地よい。おそらく相当な手間がかけられたであろう上質なそのドレスを、フランツはそっと自分の体に当ててみた。

(痩せ細った私だもの、体を締め付ける下着無しでも着られるかもしれない)

 そう思うと、フランツはその思いを抑えることはできなかった。

 扉が閉まっていることを確認すると、上着とブラウスを脱ぎ捨て、急いでドレスに袖を通した。花のようなドレスは、まるでフランツのために作られたかのようにピッタリと体に馴染んだ。

 フランツはゴクリと唾を飲み込むと、勇気を出して鏡に向かった。

 そこには貴婦人のように佇む自分がいた。大嫌いだった痩せた体も、青白い肌も、今はまるで陶器の人形のように愛らしく見える。多分、ゾフィーよりも可憐なはずだ。

(ああ、こんな私だったら、どんなに幸せだろう…!)

 夢心地でフランツは鏡の中の自分に触れた。

 こんな風に、姫君として生きていけたなら。そして、私のために命をも投げ打つ、美しく強靭な騎士が傍らにいてくれたなら。まるでジークのような…。

 だが、その時、ゾフィーの言葉が頭によぎった。

 …血に飢えた狂人か魔神…

 …あなたに取り入って、出世を狙っている…

 …あなたのような世間知らずを騙すことなど、赤子の手を捻ることよりも容易いこと…

 フランツは頭を振った。そんなことはない。ゾフィーはジークを知らないから、そんなことを言うんだ。戦場のジークだって見たこともないくせに。

 だが、戦場でのジークを知らないのは、フランツも同じだった。

 夏の宵なのに、背中を冷たいものがよぎる。

(ジークが何を考えているのか、どんな人間なのか、本当は私だって分からない…)

(本当の彼は、もしかしたら鬼のような残忍な男なのかもしれない。許しを請う敵を切り刻めるような。まさか、そんな!)

 その時、扉を叩く音がした。

「殿下、突然に申し訳ありません。入ってもよろしいでしょうか」

 他ならぬジークの声だった。

 フランツの血の気が引いた。この姿では絶対に駄目だ。だが、焦って声が出ない。

「殿下?よろしいですか?」

 ジークの声が畳み掛けてくる。フランツは慌てて扉に鍵をかけようと動いた。だが、その拍子にドレスの裾がテーブルに引っかかった。フランツは転び、テーブルの上の花瓶は派手な音を立ててひっくり返り、砕け散った。

「殿下!いかがされました!」

 一大事と勘違いしたジークが、部屋の扉を蹴り開けると、勢い良く飛び込んで来た。

 フランツは隠れることもできず、そのまま為す術もなく、床に倒れこんでいた。

 一瞬の沈黙があった。だがそれはフランツにとって痛いほど長かった。

「…ゾフィー様?」

 ジークは眉を寄せ、じっとフランツを見た。目の前にいる人物は、確かにゾフィーに似ていた。ゾフィーであるべきだった。そう納得する方が自然だった。

 けれど、そうではないことは誰の目にも明らかだった。

 フランツは動くこともできず、真っ赤になって震えていた。今すぐ消えてしまいたい。泣き出しそうになるのを、必死で堪えていた。

 ジークは扉をそっと後ろ手で閉めると、フランツに近付き、手を差し伸べた。

「殿下、お怪我はございませんか?」

 優しい声だった。咎めるでもなく、嘲笑するでもなく。

「…ごめんなさい、ジーク」

「なぜ、あやまるのですか?」

 フランツは唇を噛んだ。なぜ、よりにもよってジークが来たのか。一番見られたくない人が、なぜ今ここに。

「…出ていってくれ…」

「殿下」

「出ていってくれ!ジーク、お願いだから、見ないでくれ!」

 そこまで言うと、フランツの目から抑えていた涙が溢れた。そのまま顔を両手で覆うと、床に突っ伏した。

 ジークは何も答えられず、割れた花瓶の破片を集めると、そっと部屋を出ていった。


 

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