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王のカノン  作者: 秋主雅歌
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第四章

 すべてが夢のようだ、とフランツは思った。救いの騎士は現れた。灰色だった日々は一斉に花が咲いたように薔薇色に変わった。それは夏がやって来たからだけでは決してない。

 フランツとジークは毎朝、乗馬での散歩に出かけるようになった。

 宮殿から見える場所までは、フランツは堂々と先立って馬を走らせた。が、宮殿が豆粒ほどになり、誰にも見咎められないと見るや、馬の歩みを緩め、ジークに話し掛ける。

「ジーク、それでこの間の続きなんだけど」

「殿下、前を見てお進みください。また落馬しますよ」 

 首をねじって後ろを向いたフランツに、ジークがピシャリと言った。だが、フランツはもううろたえない。

「ならばジーク、君が早く横に並んでくれ。私が後ろを向かなくてもすむように」

 悪戯っぽく笑うと、フランツは自分の傍らを指差した。

「ご命令とあらば」

 淡々とジークが答える。だが、右頬に浮かぶ小さな笑くぼを、フランツは見逃さなかった。それだけでフランツは嬉しくなる。ジークもまた不愉快に思ってはいないのだと知ると、それだけで自分が嫌いではなくなる。その証拠に、言葉もどもらずにスルスルと出てくる。

「君が歌ってくれた、あの歌なんだけど、異国の旋律だと思うんだ。ペルシャとか、エジプトとか、どこか遠い東の国」

「そうかもしれないですね」

「ジーク、君は行ったことがあるの?」

「ありません」

 即座にジークは言った。だが、少し考えてから再び口を開いた。「ですが、この石は知っているかもしれません」

「石が知っている?」

「はい」

 大真面目に言うと、ジークは竜眼の剣の柄に触れた。竜の、いや人の瞳のような緑の石。「この『竜眼』は十字軍の騎士が、かの地より持ち帰ったものと伝え聞いております。神に背く異教徒の血を存分に吸った、持ち主に神の武運をもたらす守り石なのだと」

「そ、そう。ちょっと…怖いね」

「怖い?私は、この石は嫌いではありません」

「そ、そうだよね。陛下から賜った、だ、大事な剣だものね」

 フランツはまた言葉を詰まらせた。調子に乗ってしまい、ジークを不機嫌にさせてしまったのかもしれない。ジークが誇りに思う石を「怖い」などと。

「この石が、私を選んでくれたのです」

 だが、ジークはフランツの焦りなど気に留めぬ様子で話を継いだ。「この剣を握ると、私は己の力以上の力が出るように感じます。だから今、私はここに将校の一人としていられるのです」

 その言葉に、フランツはハッとした。父王は、ジークは平民の出だと言っていた。その平民の子が選りすぐりの貴族の子弟ばかり集めた部隊に名を連ね、あまつさえ王の剣を持つほどに重用されている。それでも文句が出ないのは、比類なき剣の腕ゆえなのだと、あらためて気付いた。

「ヴィルヘルム王よりお聞き及びと思いますが、私は本来ならば殿下と馬を並べて許されるような身分ではございません」

 ジークもまたそのことを言った。

「そ、そんなことは…」

「私の父は東の国から来た傭兵で、剣は彼から教わりました。彼は私が十四歳の時に戦場に行ったきり、帰ってきません。母は町の産婆でした。薬草の知識が豊富で、いろいろと頼られていましたが、それが仇となったのでしょう、流行り病の患者を治そうとして、逆に病をもらって死にました」

「そ、そう…。立派なお母様だったのだね」

「さあ、どうでしょう。愚かなのだと私は思います。神父たちも見捨てた患者を一介の産婆が治せるわけがない。分不相応にも、神が定めた運命に対抗できるとでも思ったのでしょう」

 ほとんど感情を見せないジークが、引き攣ったような苦々しい笑いを見せた。

「違うよ!」

 フランツは馬を止めると、大声でそれを否定した。そうしなければ、彼が暗い影に飲み込まれてしまいそうで。「勇者だったのだよ、君のお母様は」

 ジークは弾かれたようにフランツを見た。普段は大人しい王太子の突然の大声に、驚きで目を丸くして。

「…勇者、ですか」

 ジークはフランツの言葉を噛み締めた。その瞳が風の奥を見るように宙を追う。「…そんなことは考えもしなかった。母が亡くなってからは、生きることで精一杯でしたから」 

「…ご、ごめん。知った風な口を利いて」

 フランツはもぞもぞと口の中で言うと、ジークから顔をそむけ、再び馬を歩ませ始めた。

 フランツは恥ずかしくなった。世間知らずが分かったような口をきく。そう思われたに違いない。確かにそうだ。私は王宮の外は何も知らない。流行り病がどんなものかも知らないのに。

「…いえ、ありがとうございます」

 だがジークの声は穏やかだった。フランツが恐る恐る振り返ると、ジークの右頬に笑くぼが浮かんでいる。

「そのようにおっしゃっていただけるとは。…光栄です」

 フランツはホッとした。

「…それではジークにはもう、家族はいないの?」

「はい。兄弟もいましたが、行方も生死も分かりません」

 また、感情を感じさせない淡々とした声が返ってきた。「天涯孤独の身をヴィルヘルム王に拾っていただけたのは、僥倖にございます」

「…寂しかったろうね」

「そのようなことは感じたことはありません。それに今、私には部隊の仲間もいます」

「…私も、寂しいと思ったことはなかった」

 フランツは独り言のように言った。

 ジークは答えない。川のせせらぎの音と、ひずめの規則正しい音がするのみだ。だが、ジークが聞いていてくれる気配はする。フランツは続けた。「私も今まで、寂しいなんて思ったことはなかった。父上は私がお嫌いだし、母上も私を捨てて異国へと行ったきりだ。宮殿中が私を軽んじ、蔑んでいることも知っている。それでも寂しいとは思わなかった。でも、今は…」

 フランツは言葉を区切った。「今は、違う」

 ジーク、君がいない時は寂しい。とは、フランツは言えなかった。そこまで近付いては、いけない気がして。

「ジーク、今日はどこまで行くの?もう一時間も乗っている」

 フランツが話題を変えると、ジークは前方を指差した。その先には鬱蒼とした蔦に覆われた門が見える。

「あそこの、石造りの門がある葡萄園まで行きませんか?」

「いいけど、あそこは…」

 フランツは言いかけてやめた。

「何か?」

「いや、あそこは今は廃園のはずだ」

 微かに顔が強張るが、ジークは気付かない。

「ええ。ですから剣の稽古には最適かと」

「…そう、だね」

 フランツは引き攣った表情でジークとともに葡萄園の門の前まで馬を歩ませた。

 フランツの言葉通り、葡萄園は使われなくなって久しく、訪れる者は管理人以外ほとんどいないようだった。その管理人も、あまり勤勉ではないと見え、石の門には生命力にあふれた葡萄の蔓が逞しく這っていた。

 ジークは門の鍵を開けるが、頑丈な蔦のために人一人分しか入れない。仕方なく、二頭の馬は門の側につないでおいた。

 園の中は雑草だらけだったが、少し歩くと、開けた場所に行き着いた。管理人が使っているのだろう、小さな東屋がある。中にはベンチもあった。ジークはその表面に積もった砂埃を払うと、フランツに腰掛けるように勧めた。

 ジークは跪いたまま、バスケットをその前に置いた。

 そこには白いナプキンに包まれたパンとチーズがあった。質素な食べ物ではあったが、フランツは「ああ、おいしそうだ」と心の底から言い、パンに手を伸ばした。

 嘘偽りなく、フランツはそう思ったのだ。今まで朝はどんな豪勢な食事でも、まったく食べる気になれなかったが、ジークとの散歩の後は、腹が減るのだ。

 ジークは、右頬に微かな笑くぼをつくりながら、フランツにカップに注いだミルクを渡した。

「乗馬は殿下に合っているようですね」

「そうかな」

 パンを頬張りながらフランツは首を傾げた。「少しは、うまくなっているのだろうか」

「思ったより筋は良いと存じます。この分だと、泊りがけの遠乗りも大丈夫でしょう」

「『思ったより』、という言葉が気になるけど」

 フランツは口を少し尖らせてみせた。「それでも、君に褒めてもらえるのはうれしい。君も食べてくれ。こんなに美味なパンは私は初めて食べた」

「それでは、ご相伴に預かります」

 ジークもパンにチーズを乗せて口をつけた。

「おいしいだろ?」

「はい」

 ジークの右頬にまた、笑くぼができた。「いつものパンと同じだと思いますが、確かに、今まで食べてきた中で一番うまいパンのような気がします」

「そうだよね!」

 フランツはさらにパンに手を伸ばした。ミルクも、チーズも、口に入れるものすべてが甘美な味に感じた。乗馬をしたから、だけではない。側にジークがいるからだとフランツは知っていた。

 その時突然、鋭い笛の音がした。

 フランツは顔を上げ、ジークはすぐに剣を手にして身構えた。誰もいないはずの廃園で、なぜ。

 ジークはしばらく鋭い眼差しで周囲を睨みつけていたが、やがて緊張を解いた。

「風の音です、殿下」

 ジークは先ほど越えてきた石造りの門とは反対方向を指差した。来た時は気付かなかったが、そこには緑の森に覆われた煉瓦造りの高い塔があった。「塔の上部の窓が崩れています。おそらくそこに風が吹き込むと、先刻のような高い笛のような音が出るようです。ご安心を」

 塔はもう随分前から見捨てられているのだろう、ここしばらく誰も出入りした形跡がない。木の扉も塔全体も、やはり頑丈な蔦に抱きかかえられていた。

 フランツは塔の窓を見上げた。

「…この塔はここにあったのか。初めて見た」

 含んだようなフランツの言葉にジークが顔を上げた。

「有名な塔なのですか?」

「…幽閉された王子の幽霊が出る。そんな噂は聞いたことないかい?」

 ああ、という表情をジークは見せた。

「以前、マイヤー隊長から聞いたことがあります。その王子はフルートを愛していて、亡くなった後も塔の側に近付くと、悲しげなフルートの音が聞こえる。それを聞いた者はすぐに立ち去らねばならぬ。さもないと、王子に塔に招き寄せられ、魂を奪われる、と」

「…だから、今は誰もこの葡萄園には近付かない」

「ですが、噂は単なる噂です。風の音が障害物によって笛のように高い音を立てる。それだけです」

「幽霊は噂だろうけれど、幽閉された王子は本当だよ。ルドルフという。私の伯父上、つまり父上の兄上だ」

 フランツの言葉に、ジークは眉を寄せた。

「すみません、そうとは存じ上げずに耳汚しの噂など失礼を」

「いいんだ。だけど、そんなに昔の話の話じゃないんだ。伯父上は私が生まれる頃に死んだ、と聞いている。十年以上、この塔に閉じ込められていたそうだ」

 フランツは片頬を歪めて、自嘲するように笑った。「おしゃべりな老臣たちによると、私に似ていたそうだ。外見も、女の腐ったような軟弱なところも。彼は…ルドルフ伯父上は、かつては王太子だった。だが、軍隊にも政治にも興味はなく、フルートだけを愛していた。そして宮廷に出入りする、一人の青年音楽家を寵愛し、常に侍らせていた。彼が…隣国の間諜とも知らずに」

 ジークはじっとフランツの言葉に耳を傾けている。フランツは続けた。

「王太子と言えども、いや、王太子だからこそ、許されない過ちだ。伯父上は王太子の地位を失い、一人の狂人としてこの塔に死ぬまで閉じ込められていた。だから、誰もこの塔には、いやこの葡萄園には近付かなかったんだ」

「そのような方がいらしたとは、存じ上げませんでした」

「そうだろう。父上の前でルドルフ伯父上のことは禁句だから。きっと父上は私がルドルフ伯父上に似ているからお嫌いなのだろうと思う。私も、不思議なことにフルートが好きなんだ。父上に『軟弱だ』と取り上げられてしまったけれど」

 フランツは目を伏せた。すると、ジークは食事を入れていた籠の中から、布にくるまれた物を取り出し、フランツの前に捧げ持った。

「これは?」

「どうぞお納めください。マイヤー隊長から、殿下にお渡しするように、と」

 フランツは驚いてその布を解いた。中から現れたのは木製のフルート。かつて彼が使っていたものだった。

「ジーク!こ、これは、父上が去年、私から取り上げた…」

「はい。ヴィルヘルム陛下は、殿下にもっと強くなってもらおうとフルートを禁じたのだとマイヤー隊長から聞いております」

「ああ、その通りだ…。あの時は、私もルドルフ伯父上がフルートを吹いていたとは知らなくて…。ああ、私の笛、てっきり捨てられたのだと思っていた」

「確かに陛下の指示は捨てるように、とのことだったそうです。ですが、隊長は密かに保管しておりました」

「ありがたい!」

 フランツはフルートを撫で、頬を寄せた。確かに、かつて指になじんだ笛だ。「君たちには何と感謝して良いか分からない。でもなぜ、父上に逆らってまで、こんな私のために…」

「笛をやめたからといって殿下が強くなれるほど、武人の道は甘くはありません」

 ピシリ、とジークが言った。思わず、フランツは吹きだした。

「まったくだ、ジーク。君の言う通りだ」

 ジークの右頬に、軽く笑くぼができる。

 フランツは喜びに震えながら笛にそっと口を寄せた。だが、小さな音をさせただけで唇を離し、視線を落とした。

「鳴りませんか?」

「いや…。ジーク、私はこれを吹くのを禁じられているのだ。吹いているのが父上に知られたら…」

「殿下、何のために私が怪談のある塔へお連れしたと思っておいでですか?大丈夫です。ここで吹けば、皆、亡き王子の亡霊だと思ってくれますよ」

 フランツは驚きで目を丸くした。そして泣きそうな笑顔になる。

「ジーク、君って男は…。とんでもないことを考えつくんだな」

「お褒めにあずかり光栄です。ですが、これは半分はマイヤー隊長の入れ知恵です」

「君たちには何と礼を述べていいか分からぬ」

 フランツは楽器を再び愛しげに触った。微調整をした後、おもむろに小夜曲を拭き始めた。それは梢を揺らす風の囁きにも似た、繊細で優しい音。

 ジークは目を閉じて聴いていた。

 短い演奏を終えると、フランツは不安げな目でジークを見上げた。

「…偉そうなことを言って、この程度の演奏しかできないのだが」

 ジークは目を開けると、フランツのもとに跪き、その手の甲に口付けた。

「私は自分のしたことが正しかったのだ、ということを確信いたしました。この笛は殿下、貴方の言葉であり、叫びなのですね。その叫びは…私にも響きます」

 フランツの胸が、ビクリ、と大きく高鳴る。ジークは、その黒とも紫ともつかぬ瞳で、フランツをまっすぐに見上げた。

「殿下、先日申し上げた、あの女神の歌を吹いていただけますでしょうか」

「冥界へ降りる異教の女神の歌、だね」

「はい」

「だが、ジーク、もう私は正確な旋律は思い出せなくて…」

「…そう、そうですよね。申し訳ございませぬ」

「だから、君が歌ってくれないか。私は、それで覚えるから」

「私は、歌は…」

「この間、歌ってくれたじゃないか。頼むから、もう一度」

 しぶしぶ、ジークは再び口を開いた。低い途切れ途切れの声で、切なく不安げな旋律を紡ぎ始める。

 フランツの笛の音が、それに重なる。

 一緒に音を紡ぎながら、フランツは現実ではない不思議な流れの中に引き込まれていくのを感じた。

 フランツの頭の中に、遠い異国の光景が浮かんでくる。まだ一度も見たこともない砂漠の国。かたわらに、緑色の、あの竜眼そっくりの瞳をした少年がいる。

 少年は歌の終わりを聴きたがっている。あの緑の瞳を潤ませて。

 歌は、やはり唐突に終わった。女神が愛しい人をどうしたのかは分からぬままだ。そして音楽が消えると、幻の少年もフランツの脳裏から消えていた。

 ジークは言った。

「殿下、幸せな歌の最後をどうか作ってください」

 フランツは驚いた。ジークの言葉は、竜眼の少年と同じではないか。あの少年は一体誰なのだろう?ジークには見えているのだろうか?

「ジーク、君は緑の瞳の少年を知っている?」

「緑の瞳?」

「あの、竜眼の石と同じ瞳の少年なんだ」

「やはり、殿下にも見えるのですか?」

 ジークはフランツの目を覗き込む。なぜかフランツは慌てて目を逸らした。

「そ、それよりジーク、君も一緒に最後を考えてほしいんだ。私一人では荷が勝ちすぎる」

「ありがとうございます、殿下」

 ジークはフランツの手の甲に再び口付けた。フランツはその返礼に、ジークの額にそっと口付けた。ジークの力になれることなら、何でもしたかった。

 その時だった。フランツはどこかから視線を感じ、ゾッとした。振り返ってみたが、そこにあるのは崩れかけた高い塔。誰もいないはずだ。なのに、どこかから見られているような気配がヒリヒリとする。

「ジーク、誰かが…いるような気がする」

 フランツの怯えた様子に、ジークは厳しい視線を周囲に投げたが、やがて言った。

「風の音ではないかと思います」



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