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王のカノン  作者: 秋主雅歌
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第三章

 また朝が来た。

 まだひんやりとしているが、夏の気配は少しずつ濃度を増している。

 フランツは寝床の中で、夢ともうつつともつかぬ心地で漂っていた。

 そろそろ起きなければ。「長身部隊」の将校たちを見るために窓を開けて…。早くしなければ、またレーベンが来てしまう。

 だが、前日の御前試合の疲れからか、なかなか眠りは体から離れてくれない。

「殿下」

 誰かの声がした。低く、穏やかな声。レーベンの、狂った犬のような恐ろしい声ではない。

「殿下、フランツ殿下」

 再びの呼びかけに、ハッとフランツは跳ね起きた。この声は。

「お目覚めになられましたか」

 傍らに跪いていたのは、黒髪のジークフリート。フランツは真っ赤になって、慌てて寝台の上に正座をした。

「お、おはよう。ヴァルデンナハト少尉」

「もう決して早くはありません。早々にお着替えください」

 ジークフリートは笑みもなく、事務的に答えると、すぐに召使いに合図をして着替えを持ってこさせた。

 無駄の無い動きに、空気がピリリと緊張する。

 だが、急いで身なりを整えながら、フランツは自然に笑顔がこぼれるのを抑え切れなかった。

 夢ではないのだ。黒髪の騎士がここにいる。確かに、今、自分の側に。


 昨日の御前試合が終わった後、ヴィルヘルム王は各試合の勝利者や健闘した者に褒美を与えた。そして最後に、フランツの番になった。ジークフリートは既に持ち場である宮殿の警備に戻っていて、フランツのみが王の前に跪いていた。

 父であるヴィルヘルム王は面白くなさそうに黙っている。

 人の良いマイヤーが、沈黙に耐えられずに口を開いた。

「陛下、引き分けではございますが、あの『竜眼の騎士』が相手ですから、フランツ殿下の勇気も賞賛に値するのではないかと…」

「ふん」

 王はギロリとマイヤーを見た。だが、怒るでもなく、渋々その意見に同意した。「確かにフランツ、お前にしては今日は上出来だった。褒美をとらせる。何が良いか言ってみろ」

 王の前に跪いていたフランツは耳を疑った。そんな言葉を掛けられたことは生まれてこの方、一度として無かったのだから。

「褒美…ですか?」

「聞こえなかったのか?さっさと答えろ!」

 ヴィルヘルム王は苛立ちながら言った。

 本当はフランツになど目をかけたくはなかった。だが、少し手なづけておかねばならぬ、とも思ったのだ。王は先ほどの試合で、フランツの目に猛々しい自分への殺意が燃え滾るのを見たのだ。これまでは、ヘナヘナとした「女のくさったような」息子だと思っていた。非力で、優柔不断で、自分の息子だというのに、どうにもいけ好かない。弱々しくて情けない。

 だが、もしかしたら、奴は侮ってはいけないのかもしれない…。

 ほとんど動物のような勘で王は思った。なぜかしら、いつか自分はこの息子に殺されるような予感さえもよぎったのだ。

「何でも欲しいものを言うが良い。剣でも、馬でも」

「…は、はあ」

 フランツは一度唾を飲み込むと、思い切ったように前を向いた。

「さ、先ほどの、ジークフリート・ヴァルデンナハト少尉を、わ、私の教育係にしてください」

「何だと?」

「何ですと?」

 王と、レーベンは同時に答えた。レーベンは、その言葉を聞いた瞬間に、怒りで真っ赤になった。

「殿下!」

 レーベンは割れ鐘のような声をギャンギャンと張り上げ、フランツを責め始めた。「それでは、私はお払い箱ということですかな?これほど殿下に尽くしてきた私が!覚えの悪い貴方様のために、まさに、手取り足取りお教えしてきたご恩をお忘れとは、何と嘆かわしい!厳しいことも申し上げたかもしれませぬが、それは殿下のためを思えばこそ!殿下は、そんなことも分からぬお人でございましたか!」

 レーベンの荒々しい語気に、気圧されてしまいそうなフランツだったが、精一杯の勇気を振り絞って言った。

「ち、違います、レーベン大佐」

 生まれて初めて、フランツは誰かに異を唱えた。体が震え、頬が火照るが、今を逃しては一生、運命に従うしかないのではないか。そんな気がして、ギュッと拳を握った。

 どもらないように、一言一言力を込めて続けた。「レーベン大佐には、深く、感謝しております。ただ、大佐ほどのお方を、私のもとに長く留めおくのは、もったいないこと。申し訳ないのです。私はこのたび、王の剣『竜眼の剣』を手にする僥倖を得ました。だからこそ、ヴァルデンナハト少尉から竜眼の剣の扱い方を学びたい。そう思ったのです」

 フランツは顔を紅潮させ、けれど目を逸らさずに王を見た。それもまた、フランツにとっては初めてのことだった。

 王は黙ってフランツを睨む。

「…レーベンほどの勇者は、他にはおらぬぞ。それを分かった上で言っているのか?」

 フランツもまた、王を睨み返した。あのような粗暴なだけの男が勇者だと?そう言いたかったが、もちろん口には出さない。

「私は、是非に、ヴァルデンナハト少尉を」

「ヴァルデンナハトは何の身分も無い、卑しい平民の子だ」

「そんなことは構いませぬ。彼は父上の剣を扱う騎士であられる。それで十分です」

「…ふん」

 王は口を曲げ、面倒そうに立ち上がると、踵を返した。根負けしたのだ。不肖の息子は自分の腹心のレーベンに監視させておきたかったが、ヴァルデンナハトもまた、王の剣を携える身だ。自分を裏切りはしないだろう。「好きにするが良い!レーベン、今までご苦労だった。お前は明日から将軍としてわが軍を率いるのだ。マイヤー、ヴァルデンナハトに伝えておけ。明日からは王太子付きとなるとな」

 フランツは、呆然として王の背を見送った。彼が初めて何かを自分の力で獲得した瞬間だった。


 そして今、黒髪の騎士が傍らにいる。

「ま、待たせて申し訳ない、ヴァルデンナハト少尉」

 フランツが身なりを整えると、直立不動の姿勢でいたジークフリートがこちらを向いた。

「殿下、朝食はいかがされますか?」

「朝食?」

 すぐに剣の稽古をさせられると思っていたフランツは、拍子抜けした声を出した。

「いつもほとんどお召し上がりにならないと、聞いておりましたので」

「あ、ああ。朝は…あまり食べられないんだ」

「それでは、遠乗りに行きましょう。外でも召し上がれる簡単な朝食を用意させました」

「遠乗り?」

「はい。馬も苦手ですか?」

「い、いや。でも、剣の稽古を…」

「殿下はまず体力をつけるのが先かと。そのためには馬が一番良いと思います」

 ジークフリートは生真面目な表情で言った。

「それで…本当にいいのか?」

「殿下がお望みならば」

 ジークフリートの目がまっすぐにフランツを見た。光の加減で不思議な色を見せる瞳だった。真っ黒のようでいて、黒真珠のように緑とも紫ともつかぬ光を帯びている。

「も、もちろん!ぜひ!」

 慌てて答えるフランツに、ジークフリートの右頬が微かに引っ込んだ。フランツはハッとした。それは厳格な勇者には少し不似合いな、笑くぼだった。

 

 フランツは白い馬で宮殿の外の川沿いの道を駆けていた。だが、彼が想像した「楽しい」遠乗りとは、残念ながら少々違っていた。

 ジークフリートは何も言わずに、ピタリと彼についてきた。スッと伸びた彼の背筋は確かに美しかったが、その姿が視線の端に入るたび、フランツは緊張せずにはいられなかった。

「殿下、肩と腕がまた硬くなっています。もっと、ゆったりと手綱をお持ちください」

 彼が口を開くのは、馬の乗り方の指導のみだったのだ。

「あ、ああ。そうしているつもりなのだけれど…」

 フランツは顔を引き攣らせた。乗馬は、というよりも体を動かすことはすべて得意ではなかった。剣よりはましだけれども。そして不恰好な姿をじっと見られているかと思うと、いたたまれなくなった。

「そんなに力を入れなくても、殿下のワルキューレ号は賢い馬です。信頼に値します」

「あ、ああ。けれど、乗り慣れていなくて…」

「そうですね」

 ジークフリートは率直に言った。「訓練が不足しています」

 その言葉に、フランツの胸がキリリと痛くなる。レーベンに罵られても耐えられたけれど、憧れていたジークフリートの期待に沿えないのは、情けなくてやりきれない。

「あ、あの…ヴァルデンナハト少尉」

「はっ」

「君は…こ、この任務は…やはり、不本意なのだろうね」

 フランツはどもりながら、その言葉を吐き出した。分かってはいるけれど、聞くのが恐ろしい答え。

 やはりジークフリートは一瞬、答えるのをためらった。

 その沈黙を、フランツは肯定だと受け取った。いくら馬鹿正直なジークフリートでも、「その通りだ」とは言えないだろう。胸がさらに苦しくなった。

「す、すまなかった。君は、父のお気に入りの『竜眼の騎士』なのに、私なんぞのお守りを頼んでしまって…」

 ジークフリートは何も答えない。

 馬の蹄の音だけが規則正しく、川のせせらぎにまじって響く。フランツには振り返ってジークフリートの表情を確かめる勇気は無かった。一つ、大きな溜め息をついて言った。

「き、君も知っているのだろう?私が父上や宮殿の者たちから、…何と呼ばれているか。…バロック王子、『歪んだ真珠』…。皆、そう呼ぶ」

「確かに、そんな例えを聞いたことはあります」

 淡々とジークフリートは答えた。フランツは小さく頷き、続けた。

「お、王太子なのに軟弱で、細くて、頼りなくて。剣も、弓も、銃も…武術といえるものは何一つ満足にできないし。き、緊張すると、どもる。何かといえば、熱を出して寝込む。怠け病と罵る者もいる。情けない、歪んだ真珠のような世継ぎだ。そう、皆が言っている」

 だんだんフランツの声が悲しげに震えていく。分かっていることなのに、口に出すとつらい。

「父上にとって私は、嘆きの種の、不肖の息子だ。欠陥品なんだ。皆が言う。姉のゾフィーこそ、男に生まれて来れば良かったと…私ではなくて」

「殿下」

 突然、ジークフリートが言った。「『皆が言う』とは、誰のことですか?」

「誰って…。宮殿の皆が言ってるじゃないか。父上も、レーベンも、女官たちも…」

「私は言ったことはありません。これからも言うことはないでしょう」

 その答えに、フランツは思わず振り返った。

 ジークフリートはまっすぐにこちらを見ていた。媚びるでもなく、フランツを見下すでもない視線。ジークフリートは続ける。

「お体が弱いのは殿下のせいではありません。それに殿下は剣をお取りにならずとも、我々がお守り申し上げます。そのために我々がいるのです」

「ヴァルデンナハト少尉…」

「ただし、殿下にも最大限の努力はしていただきたい」

 武人らしく、ビシリとジークフリートは言った。「ご病気ではないと、うかがっております。ならば、しっかりと食べ、学び、体を動かすことがまずは大事かと」

「は、はい!」

 思わず、フランツは叫んだ。その声の大きさに、ジークフリートはまた顔を僅かに綻ばせ、右頬に笑くぼを作った。

「殿下は勇気がおありです。だからこそ、レーベン大佐を追い払った。それは賢明なご判断かと」

 ジークフリートの言葉に、フランツは耳を疑った。だがジークフリートはつらっとしている。

「…君もなかなか言うんだな」

「言うべきことは言わねば通じません。それにレーベン大佐は私の上官ではありませんので、忠誠を誓ってもおりません」

 率直な物言いに、フランツも笑った。

「ヴァルデンナハト少尉…いや、その、…ジークフリートと呼んでもいいだろうか」

「ジークで結構です」

「そうか、ジーク…か。素敵な名だね」

 フランツは少し照れながら言った。急に黒髪の騎士の存在が近しく感じる。何か話したい。何か話題になるようなものを。必死でフランツは頭の中を探した。「そうだ、ジーク。この間の言葉はどういう意味なのかな?」

「言葉?」

「あの試合の後、歌がどうのって…」

 ジークはああ、という表情を見せた。

「実は私の方こそ教えていただきたいのです。殿下があの時、口ずさんでいたのは、女神の歌ではないかと思ったのです。あの歌は、一体何なのか、ご存知でしょうか?今まで知る者は誰もいなかったのです」

「女神の歌?」

 聞いたことも無い言葉だった。

「ええ」

 ジークはなぜか顔を曇らせた。そして独り言のように呟いた。「誰一人として、知らない歌なのです。なのに、私は知っている。…結末以外は」

 フランツは馬の手綱を引いて、足を止めさせた。

「殿下?いかがされましたか?」

「ジーク、その、頼むから並んで歩いてくれないか。君の話を、もっと側で聞きたいんだ」

「そんな恐れ多いことは…」

「誰も見ていないよ。私の頼みだ」

「…殿下のご要望とあらば」

 渋々ジークは彼の黒い愛馬をフランツの馬の側に寄せた。二人は、そのままゆっくりと並んで歩き始める。

「…ジーク、私もあの歌は分からない。あの時突然に、頭によぎったのだ」

「殿下も、ですか」

 ジークは驚きの表情でフランツを見た。

「どういうこと?」

「私もそうなのです。あの、『竜眼の剣』の石が歌うのだと、私は思っています」

「石が、歌う?」

「はい」

 大真面目にジークは答えた。「あの柄を握った時だけ、あの歌は聴こえてくるのです」

 フランツは言葉を失った。そんなことがあるわけがない。

「そ、それならジーク、君より前の『竜眼の騎士』に聞いてみれば分かるんじゃないか?柄を手にした時、どうだったのか…」

 ジークは苦笑した。

「殿下、私の前の『竜眼の騎士』は皆、戦場で果てております」

 フランツはハッとした。勇猛なる『竜眼の騎士』は常に王の名代として前線に立つ。当然、戦果も挙げるが、その逆に一番最初に命を落とす危険な立場でもある。

「ご、ごめんなさい。そんなことも知らなくて…。やはり、私は王太子失格だな」

 残念ながら、ジークは否定はしなかった。

「気付けただけ、良いと思います」

「…ごめんなさい」

「その『歌』ですが」

 もうその話はやめましょう、とでも言いたげに、サラリとジークは話題を移した。「殿下は音楽がお好きだと聞いております。以前にあの歌を聴いたことはおありですか?」

 そのさりげない配慮に、フランツはホッとした。

「いや…。それにあの歌は今は思い出せないんだ…。ジーク、歌ってみてくれないか?」

 ジークが目を丸くした。

「私が、ですか?」

「ああ。もしかしたら何か分かるかもしれない」

 ジークは慌てて手を振った。

「私は、駄目です。歌はとても下手です」

「そんなことはいいよ。さあ、早く」

「それに、長い歌です」

「だから、いいよ」

 ジークがうろたえる姿が、フランツはうれしかった。ジークは仕方なく、何度か咳払いをした後、低い穏やかな小さな声で歌い始めた。

「現われたるは……」

 それは、もの悲しい旋律の歌だった。


 現われたるは 七つ門

 立ちはだかりし 門番は

 女神の宝 奪いたり

 最初の門で失うは 王の冠なりにけり

 第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り

 第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り

 第四門で消えたるは 輝く星の胸飾り

 第五の門で盗られたり 地上を統べる金の帯

 第六門で消え失せる 麦穂の腕輪 足飾り

 最後の門で 夜の衣をはぎとられ

 かくて女神は冥界へ


 地に光消え 花は枯れ

 民ら嘆きて 女神呼ぶ

 女神も叫び 抗わん

 わらわを戻せ 日の元へ

 わらわに返せ わが宝

 死霊 笑って申すには

 門をくぐりし者は皆

 戻るは決して能わずと

 冥府の掟 破るなら

 よこし給え 身代わりを


 かくて女神は 死霊とともに

 贄を求めて 地に戻る

 嘆きの民のその中で

 笑い歌う男あり

 怒りし女神 炎吹き

 死霊に男を指し示す

 我が身代わりは この男


 死霊とらえしその男

 女神の愛しき夫なり

 夫は闇へ 引き込まれ

 冥府の色に 染められる

 かくて女神は取り戻す

 失いしもの そのすべて


 それは確かに、あの試合の後、フランツの頭の中に響いてきた歌だった。

「これで、終わりではないのです」

 ジークは言った。「結末が、きっとあるはずなのです。夫を生贄にして地上に戻った女神は、どうしたのか。どんな思いだったのか。それが知りたいのです」

 フランツは今までの記憶を思い巡らせたが、一度もそのような内容の歌も、物語も聞いたことはなかった。

「すまない、ジーク。私は分からない」

 ジークは右頬に笑くぼをつくった。穏やかに、微かに微笑んで。

「どうぞお気になさらず。こんな馬鹿げた話でお時間をとらせてしまい、申し訳ありませんでした。お許しください」

「あ、あの、ジーク」

「何ですか?」

「私も、探してみたい。その歌の結末を。分からなかったら、私が作る」

「殿下?」

 ジークの黒い瞳が、驚きで見開かれる。

「そうだ、私がいつか作る。君が納得してくれる結末を」

 それなら、私にもできるかもしれない。非力で、何もできない私だけれど、そんな贈り物なら、ジークに捧げることができるかもしれない。そうだ、いつか捧げるのだ。

 フランツの目が初めて、燃えるように輝いた。ジークは我知らずこぼれる微笑みとともに、その姿を見ていた。




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