第二章
ヴィルヘルム王臨席の御前試合は、宮殿前庭にて半年に一度行われる大事な行事だ。
近衛兵や腕自慢の貴族の子弟たちが、ここぞとばかりに日ごろの鍛錬の成果を見せようとする。もしかしたら、武勇を好む王の目に留まり、取り立てられることを計算して。
王は葡萄酒を片手に、その様を見下ろしていた。ヴィルヘルム王は鬼神のような男だった。堂々たる体躯の持ち主だから、だけではない。刃のように鋭く冷酷な青い瞳のためだ。眉間には気難しそうな深い皺が刻まれている。フランツと髪の色こそ同じだが、彼のそれは炎のように逆立っていた。血のように赤い軍服を身にまとい、家臣たちを睨みつける。
「御前試合」という優雅な響きとは裏腹に、必死であればあるほど、王は喜んだ。逆に儀礼的な、手を抜いたものであれば、烈火のごとく激怒する。その結果、試合は異様な迫力となり、血しぶきが飛び、大怪我をする者が出るのも珍しくはなかった。腕や脚を切り落とされることも、ままあった。
この日も医師たちは出場者の手当てに休む暇もなかった。
「次はフランツ王太子殿下でございます」
レーベンが恭しく王に告げた。
「ふん、あれが剣など持てるものか。この間の試合はひどい猿芝居だったぞ。今回は少しはましな対戦相手を選んでほしいものだな」
王の言葉に、レーベンはニヤリと笑った。
「殿下のお相手は、『竜眼の騎士』ジークフリート・ヴァルデンナハト少尉にございます」
王の眉がピクリ、と動いた。
「『竜眼の騎士』が相手だと?」
「お相手に不足はないかと」
「不足だと?はっ!酒がまずくなる余興だな」
王は杯をあおった。が、その手を止めると、ふいにニヤリと笑った。「…そうでもないな」
「陛下?」
「何でもない。それでは両名をこれへ」
ラッパが吹き鳴らされ、フランツとジークフリートが王の前に進み、ともに跪いた。
「両名とも立つが良い」
二人とも同時に立ち上がる。群青の軍服をまとったジークフリートは黒く長い髪を束ね、まっすぐに王を見た。謎めいた黒い瞳は、いつものように表情が無い。
フランツはといえば、青ざめた顔でチラチラとジークフリートの方を見ていた。だが、ジークフリートはこちらを見ようともしない。
フランツは小さく溜め息をついた。これから始まる試合が怖いのではない。ただひたすら、申し訳なかったのだ。騎士のごとき誇り高きジークフリートにしてみれば、茶番そのものの王子との御前試合など正直、願い下げだろう。それがフランツには悲しかった。
「申し訳ない…ジークフリート」
フランツは小さな声で囁いた。だが、小さすぎたのだろう、ジークフリートは聞こえなかったのか、何の反応もなく、正面を見たままだった。フランツは、唇を噛んだ。
「相変わらず覇気が感じられぬな、フランツ」
その様を見咎めるかのように、王が大声で言った。途端に、フランツは直立不動になる。
「そ、そんなことは、ございません、父上」
「少しは鍛錬したのか?」
「わ、私なりに…」
「そうか」
王が顔を歪めて笑った。「それでは、その成果とやらを見せてもらおう。『竜眼の騎士』よ、前へ」
ジークフリートが、短い返事とともに前に進み出る。王は、彼に向かって言った。
「その方に預けている『竜眼の剣』を、王太子に貸してやってくれぬか」
フランツとジークフリートは、驚きのために同時に顔を上げた。
どういうことだ?
王族の試合は、不測の事態を避けるため刃を潰した剣を使うのが慣例だ。だが、『竜眼の剣』は敵の血をあまた吸ってきた、まさに現役の剣だ。
「…ち、父上、私は…そのような恐ろしい剣は…」
「恐ろしいだと?」
王の目に苛立ちが走った。「次なる王の身分で、お前は剣を恐ろしいと申すのか?」
フランツはグッと言葉が詰まる。
「…も、申し訳…」
「恐れながら陛下!」
かたわらにいたマイヤーが見かねて助け船を出した。「『竜眼の剣』はあまりに大振りであり、かつ鋭利。まだ少年である殿下がお使いになるのは…」
「無理だと申すのか?マイヤー」
「まだ危険にございます」
「マイヤー、それは、王太子に向かって無礼ではないか?」
王の言葉に、マイヤーも引き下がる。
「…申し訳ございませぬ」
「フランツ、王太子たる者、多くの敵を屠ってきた剣を操れなくてどうする。そなたは『竜眼の剣』を使うのだ。そしてヴァルデンナハト、そなたは今、マイヤーが持っている剣を。刃を潰した剣などというふざけたものを使ってみろ、即刻打ち首にしてくれるぞ。ヴァルデンナハト、王太子だからとて手加減はするな。それこそ、無礼であるからな」
王は大声で笑った。その目は酔いを帯びて、憑かれたような輝きを見せていた。
「王のご意志のままに」
だがジークフリートは何も感じていないかのように無表情で頷く。そして、自分の腰から竜眼の剣を引き抜くと、フランツの前に捧げ持った。
「恐れながら、殿下」
「受け取れ!フランツ」
王の厳しい声が飛ぶ。
フランツは仕方なく、腕を伸ばした。が、手が震えてうまく掴めない。
恐ろしい剣だと思った。
刀身は自分の脚よりも太く、長い。それが日の光を集めて、鈍く輝いている。あまたの血を浴びてきた剣ゆえだろうか、妖しい反射だった。そして、柄に埋められた深い緑の石。これが異様な光をまとっていた。石の中には赤黒い塊のようなものが見え、まるで竜の眼そのもののようだ。しかも、こちらを見ているような気がする。
フランツの首筋がチリチリと引き攣った。恐ろしい。
けれど、ジークフリートは止めてはくれない。父の命令に従うばかりで、救い出してはくれない。
フランツの水色の瞳が潤んだ。
ジークフリートは、手加減はしない、と王に約束した。彼の剣はきっと自分を傷つけるだろう。もしかしたら、先ほどの試合の敗者のように、腕や脚が切り落とされるかもしれない。
フランツはすがる思いで父王を見た。だが、彼の目は期待に満ちて、熱く潤んで燃え上がっていた。彼は楽しみにしているのだ。気に入らぬ自分の息子が、血を流し、苦しみ、のたうち回り助けを請う姿を。
ジークフリートはといえば、何の表情もなく、剣を捧げ持っている。彼が見ているのは剣のみで、フランツを見もしない。存在していないかのように。
フランツは心を決めた。
いっそ、ジークフリートの剣で貫かれたい。そして、こんな世界を終わりにしたい。
フランツの手の震えが止まり、むずっと柄を掴んだ。
途端に、稲妻が走ったかのように、緑の石が手の中で熱く震えた気がした。ハッとして、一瞬手を引いた。ジークフリートも何か感じたように、弾かれたように驚いてフランツを見た。
「何をしている!フランツ!」
父王が野次のように叫ぶ。
「な、何でもありませぬ!」
フランツは再び柄を掴んだ。今度はひんやりと冷たい、普通のただの石の感触だ。だが、やはり重い。両手でなければ、扱えない。
ジークフリートがマイヤーの剣を手にしたのを見て、審判を務めるレーベンが立ち上がった。
「フランツ殿下、ヴァルデンナハト、両者ともに位置へ!」
二人は王の前で向かい合うと、ともに数歩離れ、剣を忠誠の証として十字のように胸元で構え、天へ向けた。
「それでは、始め!」
ジークフリートが剣をこちらへ向けた。だが、フランツが竜眼の剣を構えるには両手がかりだ。不恰好なのは仕方がない。フランツはやっとの思いで剣を抱え、ジークフリートを見た。
ジークフリートに近付く気配はない。フランツが来るのを待っているのだ。その瞳はゾッとするほど冷たく、まるで獲物を追う動物のように感情が見えない。
「さっさと前進しろ!フランツ!ヴァルデンナハト、遠慮するな!」
父王の、焦れた声が響く。
もう、いい。フランツは思った。
誰も私を救ってはくれない。もう、いい。世界なんて壊れてしまえばいい。ジークフリート、その剣で私を貫くがいい。
フランツが剣を振り上げたその時だった。
また、手の中で石が熱く燃えた。そして声がした。
…殺せ…
…すべてを、壊せ…
…お前を蔑み、踏みつける、すべての者を、血祭りにあげろ…
その声は、手の中から響いてくる。
緑の石から。
「うあああああ!」
フランツは振り払うように叫び声とともに、剣を振り下ろした。
鈍い音がした。ガツン、と剣がぶつかり合う。ジークフリートの剣だった。重い衝撃が、両手に響く。が、竜眼の剣はフランツの手から落ちはしない。まるで掌に吸い付いたかのようだ。剣に自分の意志があるかのように、剣そのものがひらりと動く。
竜眼の剣は立ち向かおうとした。ジークフリートではなく、父王へと。
…殺せ…
…お前を踏みつける者たちを…
石が、フランツの手の中で叫ぶ。
剣が動く。憎むべき人物の方へと。
その時だった。
ジークフリートの剣がフランツの持つ竜眼の剣を阻んだ。
ガシン、という剣がぶつかり合う鈍い大きな音がして、二人の剣が一緒に空へと飛んだ。
剣はくるくると回り、観客の上に落ちてきた。慌てて、皆がどける。
回り中が呆気に取られていた。ひ弱な王太子が、『竜眼の騎士』の剣を弾き飛ばすことが出来るなどと、誰も想像もしていなかったのだ。
「お見事でした!」
マイヤーが手を叩いた。「これは引き分けですな、陛下、レーベン大佐」
「…ふん、そうかもしれぬな」
渋々ながら、王はそう言った。「まあ、面目は保ったかもしれぬ。おい、酒を持て!」
「ですが、陛下」
レーベンは慌てて囁いた。「おかしくはございませぬか?王太子殿下はまだしも、『竜眼の騎士』ともあろう者が殿下に剣を飛ばされるとは…」
「良い、レーベン」
王は面白くなさそうに赤い葡萄酒をあおって言った。「いくら王太子が操っているとはいえ、魔剣とも言われる『竜眼の剣』を受け止められたのも、ヴァルデンナハトの手柄だろう」
「ですが…あれは八百長では…」
「レーベン、何か文句があるのか!」
「い、いえ。そのような…」
「ならば、もう良い」
王は憮然として言った。
ヴィルヘルム王は分かっていた。フランツの剣は一瞬、確かに自分に向かった。『竜眼の騎士』が止めなければ、どうなっていたか分からない。
あの、フランツが自分に切りかかろうとしたとは。
「『歪んだ真珠』のくせに…。奴にそんなことが出来ようとはな…」
誰にも聞かれぬような声で、王は一人ごちた。
一方、フランツは飛ばされた竜眼の剣を取りに行った。
そしてゆっくりと柄に触れてみた。不思議なことに、今はもう緑の石は冷たくなり、剣自体もなぜか先ほどより、ずしりと重さも増していた。確かにあの時は、自由に動いたはずなのに。
(あの声は何だったんだろう。確かに響いてきた、あの声は)
フランツはもう一度、緑の石に触れてみた。
やはり熱くはない。だが、ほのかに温かい。自分の体温の名残りだろうか。いや、まるで石が息づいているかのように温かい。
その時、歌が頭の中に流れてきた。
今まで聞いたこともない、切ない旋律。
時はついに来たれり
麗しの豊穣の女神 冥界へくだれり
何の歌だ?
だが、その歌は風にかき消されるように、すぐにどこかに消えた。
フランツは、その一節を口ずさんでみた。聞いたことがないのに、どこかで知っているような、懐かしい旋律。
振り返ると、そこにはジークフリートが立っていた。
「…ありがとう。君の剣を使わせてくれて…」
フランツは目を伏せたまま、竜眼の剣を彼に捧げた。両手で持たなければ重くて持ちきれない。そして冷たいジークフリートの視線も見たくはない。
だが、ジークフリートはなかなか剣を手にしなかった。不審に思い、見上げると、驚きのために目を見開いている彼がいた。
「あ、あの…ジークフリート、何か…」
「殿下」
ジークフリートが口を開いた。「なぜ、その歌を?」
「歌?」
「先ほどの、女神の歌です」
そうして、初めてジークフリートはフランツを見た。闇のように黒く謎めいた瞳で、しっかりとフランツを捕らえていた。