終章
冬の遅い夜明けが近付き、暖炉の火は燃え尽きようとしていた。
「これが、私の愚かな生きざまのすべてです」
年老いた王は溜め息とともに、長い物語を語り終えた。そして水色の瞳を、希代の音楽家アッシェンバッハに向けた。
「何とか、あの歌…ジークが歌ってくれた歌の結末を作ろうと思いました。黄泉から戻った女神は悔い改めて、身代わりにした夫を救い出す。そして二人はともに永遠に愛し合って生きる…。そんな幸せな物語を…ジークが喜んでくれるような、そんな歌を…。けれど、私が編む言葉は、偽りにしかならないのです。どれほど考えても、どんな詩を探しても、ジークの魂が頷いてくれるような言葉が見当たらない」
フランツは眉間に皺を刻むと、ゆっくりと首を振った。「ですから、あの歌の続きを、先生、貴方に作っていただきたいのです」
フランツは当惑しているアッシェンバッハの手を取った。「私は患って長い。私の残された時間は、もうあまりないだろうと感じております。ですから、先生、お願いします」
「は、はあ…」
アッシェンバッハがとりあえず頷くと、フランツは安心したように穏やかな微笑みを浮かべた。
「それでは先生、お休みなさい。長々とお付き合いさせて申し訳ありませんでした」
足を引き摺りながらフランツは引き上げて行った。
大王が部屋の扉を閉めるや否や、アッシェンバッハは大きな溜め息をついた。聞かねば良かった、と音楽家は心底後悔した。
アッシェンバッハには、雇い主の要望に応じてどんな音楽でも作れる自信があった。今までだって、自らの豊富な引き出しの中から、適当な音と言葉を探し出し、縫い合わせるようにして作れば、誰もが喜んでくれた。
だが、あんな話を聞いてしまった後で、歌なぞ作れるものだろうか。
何十年もあがき、苦しみ続けた人間の心に、どんな言葉が、どんな音楽が届くというのか。そう、大王の心に届くのは、「ジーク」という青年の言葉以外にあるわけがないのに。
世慣れた音楽家でありながら、アッシェンバッハは最後のところで芸術に誠実だった。
二週間アッシェンバッハは悩み続けたが、結局何もできなかった。
そう告げると、フランツは寂しげに笑って頷いた。
「…いいのです、先生。分かっていました。あの歌の続きは、誰にも歌えないのだと…」
フランツは真冬の寒さをものともせずに、テラスに出ると、視線をはるか彼方へ泳がせた。遠い昔、少年だったころ、朝靄の中から現れる騎士たちの姿を待ったように。だが、ジークはもう来ない。
(分かっているのに、分かっているはずなのに何十年を経ても納得できない)
(あの歌を捧げたら、もしかしたらジークは蘇るのではないか。何食わぬ顔をして、彼が再び現れるのではないか)
そう、フランツは思っていた。何度打ち消しても、そんな馬鹿げた夢を見続けてしまっていた。
「やはり、私は愚かさだな。ジーク…私は無限に、君を追い求めてしまう。二度と、来ない君を」
フランツが小さく独りごちた。
「…陛下、恐れながら」
傍らに、アッシェンバッハが跪いた。手には、王愛用のフルートを持っている。「陛下、恐れ多いことではございますが、もしよろしかったら、せめてものお詫びに、私に陛下の伴奏を務めさせていただけないでしょうか。陛下は笛の名手とうかがっております」
フランツは小さく微笑んだ。寂しさも悲しさも、もはや表面には現れはしない。静かに心の中に堆積するだけだ。
「…私はそんな大層なものではありませんが。でも、せっかく偉大なるアッシェンバッハ先生をお招きしたのですから、ぜひお言葉に甘えましょう。どの曲が良いかな?先生のフルート小曲集ならば、おおかた吹けますよ」
「もったいないことでございます」
アッシェンバッハは深々と頭を下げた。「ですが、恐れながら陛下、できますれば、『あの』曲を吹いていただけますでしょうか」
フランツは弾かれたように顔を上げた。水色の瞳がうろたえて震える。だがアッシェンバッハは構わずに悠々とチェンバロに向かった。
「陛下、せめてもの、お慰めになれば」
そしてアッシェンバッハの指が鍵盤を滑り始めた。
その場にいた誰もが、感動とともに顔を上げた。まるで天上から舞い降りてくる黄金色の光の粒のような音たちが、周囲を包む。その音に導かれるように、フランツはフルートに唇を寄せた。自然に、あの曲が楽器から零れていく。切なげに震える旋律は、かつての葡萄園の塔を吹いていた風を思わせた。
フランツは吹きながら、そっと目を閉じた。すると、アッシェンバッハのチェンバロが自分のフルートの音にそっと寄り添ってくる。
やさしい音だった。かつてジークが何も言わずに寄り添ってくれたように。
あの時背中に感じた、ジークの体温のように。
吹きながら、フランツの頭の中であの歌が響いてくる。
誰かが歌っているかのように。
…時はついに来たれり
女神イシュタル くだり給うや冥界へ
現われたるは 七つ門
立ちはだかりし 門番は
女神の宝 奪いたり
最初の門で失うは 王の冠なりにけり
第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り
第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り
第四門で消えたるは 輝く星の胸飾り
第五の門で盗られたり 地上を統べる金の帯
第六門で消え失せる 麦穂の腕輪 足飾り
最後の門で 夜の衣をはぎとられ
かくて女神は冥界へ
死霊 笑って申すには
門をくぐりし者は皆
戻るは決して能わずと
冥府の掟 破るなら
よこし給え 身代わりを
死霊とらえしその男
女神の愛しき夫なり
夫は闇へ 引き込まれ
冥府の色に 染められる
かくて女神は取り戻す
失いしもの そのすべて…
フランツは自らの笛の音に耳を澄ませた。
蘇るのは、ジークの顔。闇のように静かで、真っ直ぐな瞳、そして右頬にできる笑くぼ。
そして、彼はハッとした。
…フリーダ…
…フリーダ、フリーダ…
確かに、そう呼ばれている気がしたのだ。
チェンバロの宝石のような調べの中から、その呼び声は聞こえてくる。アッシェンバッハの音楽は、巧みに「フリーダ」という声の響きに似た音を織り込んで、フランツの笛に付き従っていた。
(彼が名を呼ぶ。私の名を。私の本当の名を!)
フランツの水色の瞳から涙がつう、とこぼれ落ちた。
そして、曲は終わった。
フランツはそっと唇を笛から離した。笛を傍らに置くと、穏やかな微笑みを浮かべ、音楽家を見詰めた。
「…ありがとう、偉大なるアッシェンバッハ先生」
「本当に申し訳ありません。陛下のご希望に叶う歌を作ることができず…」
「それは、もう良いのです。代わりに、先生のおかげで…そう、とても良い夢を見ることができました」
その言葉に、アッシェンバッハは深々と頭を垂れた。
フランツはふと、視線を感じて振り返った。
背後の壁には、あの竜眼の剣が飾られていた。
見ていたのは、竜眼の石かもしれなかった。だが、もうそれもどうでもいいことだとフランツは思った。
(ジーク、私が君を思っている間は、君は側にいる。君のかけらが側にいる。だって君は誓ったのだから。命が尽きてもずっと側で守っている、と)
それから数日後、老王は彼がこよなく愛した離宮のテラスで、一人息を引き取った。
傍らには、一本の笛。そして、緑の石が嵌めこまれた大きな剣がまるで寄り添うように置かれていたという。




