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王のカノン  作者: 秋主雅歌
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第二十三章

 フランツが再び目覚めた時には、すべてが終わっていた。

 ジークの遺体は既に罪人として焼かれ、その灰は川へと流されたという。

 代わりに、フランツの牢には一振りの剣が運び込まれた。緑の竜眼の石が嵌め込まれた、血にまみれた剣。ヴィルヘルム王がフランツへの『慰め』として渡すように指示したという。

 もちろんフランツは知っていた。これが父王のやり方なのだと。ジークの血でフランツを脅し、二度と逆らわぬように警告しているのだ、と。

 フランツは剣に残るその血に口付けた。

 口に広がるのは、苦い鉄の味。何度も何度もその刃に口付け、剣を抱き締め、そして許しを請うた。

「ごめんなさい…。ごめんなさい、ジーク…。私があまりに愚かだったために…。私と関わらなければ、君は、君は…今も、光の中で…。王の騎士として…」

 その時、手の中の剣が熱くなった。

 フランツは涙に濡れた目を驚きで見開いた。確かに今、掌の中で剣が燃えるように息づいている。そこにあるのは…柄に嵌められた竜眼の石。

 緑の石が燃えている…!

 フランツは掌を開いた。緑の石から、陽炎のように光が揺らめいている。石の中に閉じ込められた、赤黒い何かが脈を打っている。ドクン、ドクンと。それはフランツの鼓動と重なる。

 石の言葉が…確かに石から聞こえてきた…フランツの頭の中に響いてきた。まるで、雷のように。

 …なぜ、私が?…

 …なぜ、私だけが、こんな目に?…

 それは、既に石だけの言葉ではなかった。次第に、石の叫びはフランツ自身の言葉と一体化していく。

 …私が、何をした?…

 …ただ、望んだだけじゃないか。あの人と二人で生きることを。たった、それだけのことなのに、なぜ?…

 …なぜ、私たちはこんな思いをしなければならない?…

 どこか遠くから、言葉が響く。

 …すべてを焼き払え…

 …私たちを踏みつけた、この世のすべてを焼き払え…

 …すべてを、叩き潰せ…

 その声は、フランツの頭の中で轟音となって、グワングワンと響いた。

「…そうだ」

 フランツは目を閉じて呻いた。「そうだ。その通りだ。ジーク、…私たちが何をしたのだ?」

 水色の瞳から涙が膨らみ、ハラリと流れた。


 その日から、フランツは父王に一切、逆らわなくなった。ことあるごとにヴィルヘルム王を讃え、「わが父にして偉大なる王の王のために、わが身が粉になるまで戦い続けましょう」と口癖のように言い続けた。

 父王の軍事行動には常に従った。かつて「歪んだ真珠」と呼ばれた気弱で繊細な王子は、いつしか冷徹で勇猛な王位継承者となった。そして父の望み通りに、英国の王女を妻にした。

 やがて人々は過去のジークとの逃亡事件を忘れ、王の後継者はやはりフランツを置いて他にないとまで言うようになった。

 そして、ことが起きた。

 あの逃亡事件から五年が過ぎた冬の夜だった。


 北方の砦ノルデンシュタットで、またもや戦が勃発した。レーベンが兵を率いていたが、戦況ははかばかしくなかった。業を煮やしたヴィルヘルム王は、ついにノルデンシュタットの砦まで喝を入れに来た。

 当然、その傍らにはフランツがいた。

 ヴィルヘルム王は苛立っていた。短気を起こして乗り込んだはいいが、厳しい寒さのため、膝が、腰が、じくじくと痛んでいたのだ。着くや否や兵士たちを怒鳴りつけた。

「お前らには武人としての魂がないのか!この程度の寒さが何だ!甘ったれるな!こんな程度で泣き言を言っていて、我らが美しい国土を守れるとでも思っているのか!それでわが国の誇り高き軍の一員のつもりか!」

 だが、豪華で暖かな毛皮に身を包んだヴィルヘルムの演説は、手足を霜焼けだらけにして、飢えながら戦う兵士たちの気持ちを逆撫でした。王の演説の最中、そっぽを向く者、唾を吐く者もいた。険悪な雰囲気に気付かず、王だけが口角に泡を飛ばし、寒空の下兵士たちを立たせたまま責め続けている。

 フランツはその様を何も言わず冷静に見ていた。そして、ある大柄な若き兵士にそっと近付いた。

「すまないが、敵のことで少々聞きたいことがある」

「殿下!私に、ですか?いえ、それはあまりに恐れ多いことでございます。それならレーベン将軍が…」

 兵士は、突然の王太子の申し出に戸惑う。フランツは穏やかな微笑みを浮かべた。

「私は、君に言っているのだよ。ええと…」

「カッツェです。中隊長を務めております」

「そうか、カッツェ中隊長、後で私の部屋に来てくれ」

 そして夕食の後、カッツェはフランツの部屋にやって来た。戸口に立ちすくむカッツェに、フランツは暖炉の側に来るように言った。カッツェは当惑するが、命令通りフランツのすぐ側で跪いた。

「カッツェ、君だけに言う。誰にも口外しないでくれ」

「はっ!」

「僭越だとは思うのだが、私は、王のあの言いようはあまりだと思うのだ。君たちは、切れるような寒さの中で、十分な食事もなく精一杯闘っているというのに」

 カッツェは驚きで目を丸くした。

「王太子殿下に、そのようなことをおっしゃっていただけるとは…」

「私も霜焼けになったことがあるので、君たちの気持ちはよく分かる。あれは、つらい。今も時折、霜焼けの跡がしくしくと痛むのだよ」

「お労しいことを…」

「カッツェ、実は君に頼みがある。私はこれから王と話し合いをしようと思う。君には部屋の外で待機をしていてほしいのだ。もし口論になったなら、しばし様子を見計らった後、止めに入ってほしいのだ。王は最近でこそ体に痛みがおありのようだが、その腕力は並外れ、獅子のごとき強靭さだ。私ごときでは敵わぬからな」

 フランツはおどけて言った。

「御意にございます」

 だが、カッツェは俄かには合点が行かぬという顔をした。「恐れながら、そのような役目はやはりレーベン将軍にこそふさわしく、私なぞは…」

「いや、カッツェ。君にだから頼むのだ。私は見ていたのだよ。荒くれの兵士たちが、君の言うことには耳を傾けるのを」

 カッツェは顔を上げた。フランツは無言で頷く。

 確かにそうだった。ヴィルヘルム王の威を借りて、居丈高に怒鳴り散らすだけのレーベンよりも、兵士たちをまとめているのは彼だと、フランツは見抜いたのだ。

「光栄至極にございます!」

 カッツェは、誇らしさに顔を紅潮させた。その瞬間、頬に笑くぼが浮かんだ。フランツは何か眩しいものを見たかのように、目を細めた。

「殿下?」

「…いや、何でもない」

 フランツは頭を振ると、そっとカッツェの肩に触れた。「それでは、頼むぞ」


 フランツは王の部屋へと入った。

 王は赤々と燃える暖炉の側で、温めたワインを飲んでいた。青い冷酷な目が、苛立たしげにフランツを睨む。

「誰の許しがあって入って来た。ああ、ここは寒くて堪らぬ」

 王はあからさまに不機嫌だった。吐き捨てるように言うと、フランツに背を向ける。「さっさと下がれ」

 だが、フランツは何も言わずにその背に近付いていった。

「聞こえなかったか、下がれと…」

 王がそこまで言った時、フランツは竜眼の剣を抜くと、そのまま王の背中に突き刺した。何の前触れもなく。

「…な、何を…?」

 王が驚愕の表情で振り向く。だがフランツは平然と、顔色一つ変えずに剣に全身の力を込めた。その手の中で骨が砕け、内臓が弾ける音がした。

「…き、貴様…!」

 王は血反吐を吐いて倒れた。

 フランツは無表情のまま王の体に足を掛けて剣を引き抜くと、今度は思い切りその首に剣を振り下ろした。

 王の首は、血しぶきとともに胴体から千切れ、玉のようにゴロゴロと転がっていった。

 フランツは剣についた血を王の衣服で拭うと、大声でカッツェを呼んだ。

 駆けつけたカッツェは、部屋の惨状に言葉を失った。

 だが、フランツは悠々と口を開いた。

「兵たちの待遇改善と作戦の変更について話していたのだ。だが、突然に父上が殴りかかってきてな。つい剣を抜いてしまった」

 カッツェは血にまみれた王の骸と、平然としている小柄な王子の瞳とを見比べた。彼にも分かっていた。これが王位簒奪の場面であることを。

 だが、だから何だ、とカッツェは思った。今の王より、この王子の方がまだマシだろう。それなら、そちらに従うまでだ。

「殿下…いいえ、フランツ陛下。これは致し方ないこと。我らノルデンシュタットの兵は皆、陛下に従いましょう」

「それならば、カッツェ中隊長、貴殿にノルデンシュタットの将軍の座を与えよう。レーベンは…そうだな、きっと彼は、この楼閣で敵の射手に射抜かれて死ぬだろう」

 フランツの水色の瞳が冷たく光った。言外の命令を汲み取り、カッツェは武者震いした。これは革命なのだ。我々の。

「早晩、そうなりますでしょう」

 そう言って、カッツェは高揚した顔をフランツに向けた。頬にまた、笑くぼが浮かぶ。

 氷のように悠然としていたフランツの顔が、一瞬歪んだ。

「…カッツェ、君、君の名前は何という?」

「ジークムント・カッツェにございます」

「ジークムント…、ジーク、か…」

「そうお呼びいただければ、この上なき幸せに存じます」

「…ジーク…」

 フランツは唇を噛んだ。フランツ、お前は何を考えているのだ。彼のはずではないのだから。彼のはずは。彼はもう、この世にはいないのだから。

「…ジーク、君はこの歌を知っているか?」

「何でございましょう?」

「女神が冥界に下る歌だ、こんな旋律の」

 …第三門で無くしたり 海の真珠の首飾り…

 フランツは、あの歌の一節を口ずさんだ。

 だが、カッツェは悲しげに首を傾げるばかりだった。

「申し訳ありません、フランツ陛下。私は学の無い武骨者にて、音曲には疎く…」

「そうか」

 フランツは頷くと、目を細めた。遠くを見るように。「…いいのだ、悪かった」

「陛下、誰か詳しそうな者に尋ねましょうか?」

「いや、いい。すまぬ、それよりもしばし一人にしてくれ」

「御意」

 カッツェが部屋を去ると、フランツは竜眼の剣を抱き締めた。涙が零れ落ちる。

(ジークはいないのだ。もう、この世にはいないのだ)

 納得したことのはずだったのに、その事実がフランツの胸を引き裂く。仇である父王ヴィルヘルムをやっと成敗した。だが、憎い相手を殺したところで、ジークは蘇りはしない。そんなことはありえないと知りつつも、どこかで期待していたのに、やはり彼は蘇らなかった。

(ジークはいない!ジークはいない!ジークはいない!)

 フランツの震える手の中で、再び緑の竜眼の石が熱く脈打ち始めた。

(私に返せ!我が愛しい人を!)

 耳の奥で、慟哭が聞こえた。それはフランツの声であり、石に宿る叫びだった。

(すべてを、焼き払え!)


 そして、フランツは誰からも恐れられる非情な王となった。父王以上に。

 彼の軍隊はひとかけらの情けもなく敵を皆殺しにし、その地を焼き払った。領土は瞬く間に二倍、三倍に広がっていったが、彼の軍隊が通り過ぎた後の土地は、何年も収穫が期待できないほど荒らされていた。

 まるで王の怒りが大地を呪っているようだ、と誰かが言った。

 父王のお気に入りだった家臣たちは皆、追放されるか冷遇された。

 ゾフィーは孤島の修道院に幽閉された。彼女は二度と故郷に戻ることは許されず、フランツを呪いながら冷たい部屋で長い人生を終えた。カイザーリンク公爵はといえば、とっくの昔に彼女に愛想を尽かしていた。家宝である真珠の首飾りを粗末に扱ったことに、腹を立てていたらしい。

 やがてフランツの国は、内憂も外患もない、押しも押されぬ大国となった。いつしかフランツは「デア・グローセ(大王)」とまで呼ばれるようになった。

 国が落ち着くと、フランツは忌まわしい思い出の残る王宮を妃ごと捨てた。王都の郊外に自分のための小さな離宮を築き、選ばれた廷臣のみを出入りさせた。妃といえども、離宮には近づけなかったし、そもそも妃自身がフランツには何の興味も抱いてはいなかった。

 フランツが住む離宮は、訪れる人が意外に思うほど小さな平屋だった。人を威圧するところが微塵もない、春の日差しのような優しげな空間。

 その離宮は、かつて葡萄園と塔があった場所に建てられていた。遠い昔、王太子とその騎士が毎日遠乗りに来ていた場所。そして騎士が命を絶たれた場所。だが、そんなことを知る者は、今はもういない。

 

 王の周囲には、いつも背の高い男たちがいた。彼らはなぜか、どちらかに笑くぼがあった。

 彼らは決まって、王に問われたという。

「この歌を、知っているか?」

 王が歌うのは、たどたどしい、けれど胸が締め付けられるように切ない旋律だった。だが、誰もその歌を知らなかった。どんなに音曲に詳しい者でも。

 彼らが首を振るたびに、王は寂しげに微笑んだ。

 まるで無限に続くカノンのように、王は問い続けた。結果は分かっているはずなのに、長身の笑くぼがある男がいれば、いつも問うた。そして、そのたびに傷付いた。

 何年も、何十年も。



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