第二十二章
フランツは犯罪者のようにひっそりと、「護送」された。
押し込められた馬車の中で、彼は知った。なぜ、自分たちが見付かったのか。レーベンがしかつめらしく、だが愉快さを隠し切れずにとうとうと語ったのだ。
あの、真珠の首飾り。
カイザーリンク公爵からのゾフィーへの贈り物。薄い紅色の、大粒の真珠。
レーベンは言った。
「あの首飾りは、カイザーリンク公爵家の代々の宝。あれほどの真珠は、世界中を探しても滅多にございませぬ。それを、恐れ多くも卑しい農民どもが持っておりましたからな」
そして、フランツは知った。
あの、いつかの宿でやさしくしてくれた、ヨハンとロッテ夫婦がゾフィーによって真珠ごと焼き殺されたことを。そして、厳しいながら信頼の置ける老人ゲオルクもまた、真珠を持っていたがために宿ごと焼かれたことを。
そして、あの竜眼の石。
それが、フランツたちの潜伏先を教えたのだと。
フランツが持ち出した物たちが、自分たちの居場所を追っ手に告げる手がかりになっていたのだ。
良かれと思ってしたことがすべて仇になっていたことに、フランツは身中が凍りついた。
フランツが連れていかれたのは、王宮からほど近い、かつて伯父ルドルフが幽閉されていた、あの葡萄園にある塔だった。フランツもまた、朽ち果てた古びた塔の最上階に幽閉された。
大急ぎで修理されたであろう塔の部屋には、たった一つ小さな窓があった。だが、逃亡を防ぐためか厳重に錠が掛けられ、開けることもできなかった。狭い室内には寝台と机、椅子がそれぞれ一つ。あとは何も無かった。
扉の外には見張りが二人、塔の入り口にも兵が配置され、フランツは一歩も塔を出ることは許されなかった。暖炉もなく、毛布にくるまっても、寒さがじんじんと身を苛む。
けれど、フランツにとって、そんなことはどうでも良かった。ジークのことだけが気がかりだった。どんなひどい目に遭っているのだろうか。
フランツは食事を差し入れる召使いたちが来るたびに尋ねた。ジークのことを。そして彼らにヴィルヘルム王へのとりなしを頼み、ジークの無実を訴える王宛ての手紙を何度も押し付けた。
だが、誰もそれを受け取ってはくれなかった。それどころか、誰一人としてフランツの問いに答えず、耳さえも貸さなかった。まるで、フランツの声は聞こえないかのように。
彼など存在しないかのように。
ジークと引き離されてから、七日目。
夜明けだった。毛穴の一つ一つに針が刺さるような痛むほどの寒さに、フランツは目を開けた。眠ってなどいなかった。ジークと離れて以来、ほとんど眠れなかったし、眠ろうとも思わなかった。
フランツはふと、何かの予兆を感じたように窓を見た。
鉛のように重い体を寝台から起こして、窓へと歩み寄る。擦り切れたカーテンの隙間から冷たい空気が漏れている。フランツはカーテンを開けた。窓のガラスには凍った霜がびっしりとついていて何も見えない。
フランツはガラスの一部分を指でなぞった。体温で少しだけ霜が溶け、その間から夜明け特有の青い色彩が見える。
まさにその時、彼方から太陽が昇るのが見えた。日の光の最初の矢が青い闇を切り裂くと、みるみるうちに周囲は紫色に染まり、やがて薔薇色へと変わっていく。
遠くで王宮の屋根が曙を浴びて、きらきらと輝いている。
「え?」
フランツは、ふと眉を寄せた。
太陽が昇る方角から、何か黒い影が近付いてくる。鳥のようだった。だが、あまりにも巨大だ。
フランツは何度か目を瞬かせた。信じられない。だが、その影は消えない。見間違いではない。
…竜だ…!
それは、古代の伝説に現れる竜のようだった。蝙蝠のような真っ黒で巨大な羽を広げ、大きく裂けた口からは火をチロチロと吐いている。溶岩のように真っ赤な目が、こちらをひたと睨む。遠くにいるのに、竜はただフランツを見ている。
恐怖のあまり、フランツは顔を背けた。
だが、再び恐る恐る目を向けると、竜はどこかに消えていた。何事も無かったかのように、静かで美しい暁の時が流れている。
…どうかしている。幻だ…。
フランツは安堵の溜め息をついた。だが、なぜか、背中に冷たい何かが這い上がってくるのが治まらない。
恐ろしい何かが近付いてくる。それは、災いの予感。
その時、扉をノックする音がした。
フランツの返事を待たずに入ってきたのは、レーベンだった。
「殿下、朝早くに失礼申し上げます。服をお召しを」
「え…?」
何故、とは聞かなかった。禍々しいことが起きようとしていることは分かっている。指が、ガクガクと震え、何度かスカーフを床に落とした。
「殿下、お手伝いを」
「い、いや、いい…。放っておいてくれ」
何とかフランツが自分で服を着たのを見届けた上で、レーベンはさらに重々しい口調で言った。
「ご報告申し上げます」
「な、何か…?」
「本日、恐れ多くも殿下を誘拐した大罪人ジークフリート・ヴァルデンナハトの処刑を執り行います」
「…え…?」
「処刑を、執り行います」
わざと、レーベンは繰り返した。
フランツの喉から、声にならない笛のような悲鳴が漏れた。レーベンはその動揺を楽しむかのように、平然と続ける。
「ヴァルデンナハトはかつて竜眼の騎士まで務めた軍人でありながら、隊から脱走したのみならず、オーストリアと通じて殿下を誘拐し、敵国へと引き渡そうと画策いたしました」
「…ち、違う…!」
「さらに殿下を守ろうとしたグラーツ少尉を殺害し…」
「違う!違う!それは、私が…!私が殺したのだ!」
フランツは叫び、レーベンに取りすがる。
そのレーベンの目に、残忍な喜びが広がった。
「筆舌尽くしがたい人質生活を強いられた殿下のお怒り、お嘆きはいかばかりか。そう、ヴィルヘルム王は大層お心を痛められました」
フランツは首を傾げる。何を馬鹿なことを。一体、何を言おうとしているのだ。
レーベンは一つ咳払いをすると、わざと重々しく告げた。
「つきましては、異例なことながら、殿下がご覧になれますようにこの塔の下でヴァルデンナハトを斬首いたします。殿下のお心が少しでも晴れるようにせよとの、陛下の仰せでございます」
「…何だって…?」
フランツは耳を疑った。「…何を、言っているのだ、レーベン」
「さあ、窓から下をご覧なさいませ」
そう言うと、レーベンは腰から鍵を取り出し、重い鉄の錠を外して窓を開け放った。剣のように冷たい空気が一気に入り込む。
フランツは急いで窓から上半身を乗り出した。
塔の真下には、かつてジークと二人でワルキューレに乗って駆けてきた道がある。その道を、ゆっくりと近付いてくる一団が見えた。馬に乗っているようだ。刻一刻と明るさを増していく朝の光に照らされているのは。
フランツの目が、大きく見開かれる。
大勢の馬上の兵士たちに取り囲まれて、一行の真ん中にいるのはジークだった。両手を後ろ手に縛られ、顔はやつれ、髪も乱れ、無精髭も見える。だが、その瞳はなぜか穏やかで、すがすがしささえ漂わせて前を見詰めていた。
「…ジーク!」
フランツは今にも落ちそうなほどに上半身を乗り出し、両手を伸ばした。だが、レーベンと、彼の従者がフランツを押さえつける。
「ジークは、ジークは何も悪くないんだ!すべて、すべて私のせいなのだ!」
だが、レーベンは何も言わない。そしてジークを乗せた馬とその一団は、どんどん塔へと近付いてくる。
「やめて!来ないで!頼むから、やめてくれ!」
その言葉には誰も従わない。
ついに、一行はフランツがいる塔の真下まで来た。そしてジークは馬から下ろされ、地面に跪かされた。
「やめて!やめて!お願いだから、やめてください!神様!何でもしますから!神様!」
だが、フランツの叫びはジークを除くその場にいる全員に無視された。神にさえも。
「やめて!嫌だ!駄目だ!」
その叫びに、ジークだけが顔を上げた。その顔に広がるのは、聖母のようにやさしい笑みだった。
「懺悔を」
傍らにいる神父が言う。
ジークの黒い瞳は、穏やかなままだった。泣き叫ぶフランツを真っ直ぐに見詰めると、口を開いた。
「殿下」
優しい低い声。けれど、しっかりとその声はフランツの耳に届く。
「ジーク!駄目だ!お願いだから、ジークを助けて!代わりに私を、私を殺してくれ!」
「殿下」
ジークが続ける。「いいんです。貴方さまのためなら、私は喜んでこの身を捧げます。ご案じなさいますな。このジーク、いついつまでも貴方さまをお守り申し上げます。たとえ、この身が消え失せても、永遠に貴方だけを。だから、誰も恨みますな。…私の、私の…」
最後の、囁くような言葉を聞き取れたのは、おそらくフランツだけだったろう。
私のフリーダ、と。
そう、ジークは言った。
「もう良いだろう」
冷たい声が、フランツの耳元でした。レーベンだったかもしれない。
そして、ジークの首に大きな剣が当てられる。竜眼の剣だった。
剣には再び、あの緑の石が嵌め込まれていた。あの山間の村の老婆から、レーベンが手に入れたものだ。石は再び、あるべき場所に戻ってきたのだ。
「やめてー!お願いだから!私を殺せ!」
石に曙の光が届き、緑の炎が陽炎のように周囲にゆらめく。まるで、緑の卵から、呪いの竜が生まれる瞬間のように。
ジークの背後にいた兵が、その剣を一度握り直す。刃が朝日を浴びて、ギラリと鈍く閃いた。
そして兵は大きく振りかぶると、まっすぐにジークの首へと剣を振り下ろした。
石に爪を立てるような悲鳴を残し、フランツはそのまま気を失った。ジークの最後の瞬間を正視する前に、フランツは部屋の床に崩れ落ちていた。




