第二十一章
夜明けが訪れた。それは、最も厳しく冷え込む時間でもある。キン、と空気が窄まり、寒さは金属のような硬さになる。
顔に突き刺さるような空気の冷たさに、ジークはカッと目を見開いた。
傍らにフランツの寝顔があった。規則正しく繰り返す寝息は穏やかで、あれほど高かった熱も引いているようだ。一瞬、ジークはホッとした。
が、次の瞬間、愕然とした。一体、いつの間に眠ったのか。全然覚えていない。まるで記憶を斧で乱暴に断ち切られたようだ。
(まさか、あの薬…)
ジークは改めてフランツの寝顔をまじまじと見た。安らかそうで、奇跡のように回復した様子だった。あの老婆の薬は、確かに効いたのだろう。だが同時に、強烈な催眠作用もあったのかもしれぬ。もともとそういった薬草なのか、それとも、あの老婆が作為的に眠らせたのか。
もし、わざとだとしたら…
ジークの背中に、冷たいものが流れた。
薄暮の中、注意深く周囲の気配を観察する。
確かに夜明けの気配がする。それは間違いない。
なのに、明け烏の声が聞こえない。先ほどから、まるで何もかもが息を潜めているかのようにシンとしている。けれど、何かの気配はする。ビリビリと。
ジークは傍らの剣に手を伸ばした。石を失い、力も無くしたかのような、かつての竜眼の剣。
その動きに、フランツが眠そうに瞼を開けた。
「…ジーク?」
「シッ!」
ジークの黒い瞳が、獣のように光った。ビクリとするフランツの耳元で小声で囁く。
「何か、様子がおかしい。すぐにお支度を」
言いながら、ジークも素早く上着に袖を通した。フランツも起き上がり、慌てて衣服を何とか纏ったその時、離れの扉がバンと開いた。
誰かが立っている。
暗くてよく見えないが、一人ではない。数えられぬほど大勢だ。軍服を着ている。
フランツはその場で凍りついた。ジークはそんな彼を背で隠し、剣を構えて、その影に対峙する。
影が口を開いた。
「ジークフリート・ヴァルデンナハト!王太子誘拐と脱走の罪で逮捕する!」
フランツは耳を疑った。それは聞き慣れた声だった。
「レーベン…?」
思わずフランツが呻いた。父ヴィルヘルム王のお気に入りの将軍レーベンが、何故ここに。
その声にレーベンが顔を向けた気配がした。
「ほう、…そちらは殿下であられるな」
レーベンは鼻で嘲笑った後、小馬鹿にしたように言う。「てっきりどこかの農婦かと思いました。不思議な格好をされておられるが、ご無事で何より」
質素なスカートとシャツのフランツは、レーベンには滑稽な道化にしか見えなかったのだ。
そう、すべてが道化芝居のようだとレーベンは思った。フランツとジークフリートを捕らえるよう、ヴィルヘルム王に命じられ、オーストリアとの国境近くに赴いてはや一週間。さっさと撤退したいと思っていたころ、早馬の知らせが届いた。王太子とジークフリートの行方の情報だった。正直迷惑だったが、仕方なく行き先を変え、さらに北へと向かった。
寒さと吹雪にいい加減うんざりしていたところに、ガーランド山脈という魔法使いしかすまないような険しい山間の村に住む強欲そうな老婆がやって来た。取り合う気などなかったが、老婆の持ってきた宝石が「竜眼の石」となれば話は別だ。
老婆には金貨一枚をくれてやった。「これっぽっちかい」と思い切り毒づく老婆に、賞金は後払いだと言って、納得させた。すべてが片付いたときには、生かしておく気などないが。
「謀反人を捕らえ、殿下を保護しろ!」
レーベンが叫んだ。すると、十人以上の兵士たちがドヤドヤと小さな離れに入って来た。皆、剣を構えて、ピタリとジークを狙っている。おそらくその倍以上の兵士が、離れの外で待機しているはずだ。
ジークはフランツを背中でかばいながら、じりじりと後ずさりした。だが、そこは壁しかなく、出入り口は今、レーベンが立っている場所しかない。
フランツは叫んだ。
「レーベン、聞いてくれ!ジークは、全然悪くないんだ!すべては私が…!」
だがレーベンは当然無視した。
「ヴァルデンナハト!王太子をさらったのみならず、王の宝剣である竜眼の剣を奪った罪、覚悟しておろうな!」
「レーベン、違う!違うんだ!あれは、私が…!」
「無駄です、フリーダ」
冷静にジークが囁く。「それよりも、私から絶対に離れますな」
ジークの右頬に笑くぼができるのを、フランツは見た。この状況でも、ジークは諦めてはいなかった。
フランツの胸が高鳴る。その横顔も、不屈の勇気も、すべてがただ愛しい。このまま、どこまでもついていきたい。そこが地獄であろうとも。
「正面を、突破します」
「捕らえろ!」
レーベンの声に、一斉に兵士たちが飛び掛ってきた。だが、ジークの動きはそれよりも早かった。
大きく剣を振りかざしたかと思うと、風を切る音とともに周囲をなぎ払う。幾人もの血が閃光のような剣の動きとともに迸った。剣は、竜眼の石を失ってもなお、剛の剣だった。
「フリーダ、こちらに!」
再びジークの剣が唸りを上げた。途端に、血しぶきと、兵士たちの腕が飛ぶ。
恐ろしい光景なのに、フランツは何も感じなかった。今はただジークの側にいる。どんなことがあってもジークとともに。
フランツは必死になってジークの後を追った。ジークの剣が旋風を巻き起こしながら、海を切り裂くように道をつくり、レーベンへと突進する。
「うぬう!」
火花が散り、ジークの剣が、レーベンの剣を叩き割った。兵士たちは呆気にとられて見ていた。いかな歴戦の将軍レーベンでも、鬼神のごときジークの力に押され、そのまま尻餅をついた。
「フリーダ、走って!」
ジークが、そしてフランツがレーベンの脇を抜け、離れから雪の上へと駆ける。
このまま、逃げられるはずだったのだ。フランツが、慣れないスカートの裾に躓きさえしなければ。
数日間続いた熱のため、足元が覚束なかったフランツは、崩れた体勢を立て直すことなどできなかった。フランツはレーベンの傍らで倒れた。
すると、一瞬の後、兵士たちは弱った獣に群がるハイエナのように素早く、一斉に、フランツを押さえ込んだ。
「フリーダ!」
「ジーク!」
ジークは、足を止めた。
途端に、兵士たちが彼に剣を向ける。
レーベンはゆっくりと雪を払って起き上がると、ジークに向き直った。
「さて、殿下は奪還いたした。ヴァルデンナハト、さあ、どうする?殿下を見捨てて、このまま逃げても構わぬぞ」
レーベンがニヤリと笑う。
「ジーク!逃げて!」
兵士たちに羽交い締めにされながら、フランツは叫ぶ。「頼むから、逃げて!私はいいから!」
だが、ジークは動かなかった。短く切った黒い髪が秀でた額を揺らしている。その黒い瞳は、穏やかだった。
「フリーダ、お約束したはずです。私は生涯、貴方をお守り申し上げる、と」
ジークは剣を雪の上に放った。そして顎を上げると、騎士物語の主人公のように堂々とレーベンの方に向かって歩み寄った。
「レーベン将軍、いかな罰でも、お受けいたします」
「ジーク、駄目だ!」
だが、レーベンはフランツの存在を徹底して無視した。
「それでは、ヴァルデンナハトに縄を!」
「駄目だ!ジーク!駄目だ!」
フランツは叫び続けた。だが、兵士たちはフランツをそのまま引き摺り、馬車へと押し込むと、外側から鍵を掛けた。
馬車は、すぐに王宮へと向かって走り出した。
フランツは泣き叫び、暴れたが、護送用の頑丈な馬車は彼の力くらいでは微動だにしなかった。誰も彼を解き放ちはしなかった。誰も、彼に教えなかった。ジークがこれからどうなるかを。




