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王のカノン  作者: 秋主雅歌
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第二十章

 目の前には、天をつくような険しい山脈。だが、この山々を越えさえすれば、異国はもう目の前だった。

 だが、山間の寒村でジークとフランツは暫く足止めを食らうことになった。

 最初の一日は、吹きすさぶ吹雪のため。

 二人は、宿である農家の離れの粗末な藁布団の中で、ひたすら抱き合っていた。一度互いの肌を知ってしまえば、あとは歯止めはきかぬ。天候を理由に、食べることも眠ることも放っておいて、互いをむさぼるように愛し合った。

 時間が惜しい、と二人とも思っていた。もしかしたら、国境警備の兵士たちが追いついて、この離れに踏み込むかもしれない。今、まさにこの、抱き合っている瞬間に。

 幸い、夜は幸せなまま更けていき、そして明けた。

 朝には吹雪は治まっていた。だが、出発することはできなかった。フランツが高熱を出してしまったためだ。二人は二日間、離れで休息を取ったが、フランツの熱は一向に引く気配が無かった。

「…ジーク…」

 フランツは苦しい息の下で愛する人の名を呼び、手を伸ばした。彼の騎士はすぐに枕元に駆けつけ、その手を力強く握る。

「フリーダ、大丈夫です。私はここにおります」

 ジークはフランツの額に触れた。眉が厳しく寄せられる。まだ熱は引いていない。ジークはフランツの頭部の包帯を取った。傷が以前よりも膿んでいる。おそらく熱はこの傷から来ているのだろう。

(私をかばったゆえに負った傷…)

 ジークは唇を噛み締めた。回復していたように見えたが、ここ数日の逃避行の疲れが、傷を化膿させたのだろう。油を塗って布を取り替えてはいるが、治癒するどころか悪化しているように見える。

(このままでは、手遅れになる。薬が、いる)

 宿の主人に頼むしかない。だが、すでにジークは金目のものはすべて手離していた。剣をつるすベルトも、マント留めも…。それでも、宿の主である気難しそうな老婆は「こんな物しかないのかい」と蔑むように言った。

「これなら、今までの宿代にしかならないね。それなのに食事まで出してやってるんだ。感謝してほしいもんだね」 

 薬が欲しい、と訴えた。だが、老婆は吐き捨てた。

「分かってるだろ?ここは山の中で、物が足りないんだ。何の代償もなしに薬をもらえるだなんて、そんな甘えた考えは持っちゃいないだろうね。連れが死にそうだ?そんなの、あたしにゃ関係ないね。ただ、うちで死ぬのは止めとくれ。縁起でもない」

 老婆は、けんもほろろにジークを追い返した。

 離れに戻ったジークは、藁の中に隠していた竜眼の剣を取り出し、その緑の石を見詰めた。

 瞳のような石。いや、確かに、かつて砂漠にいた少年の瞳だった石。

(私はこの石に選ばれたのだ、と思っていた。この石のためなら、何でもできるような気がした。誰にも渡したくなかった。私こそがこの石と話せる選ばれた男なのだと…)

 これまでの孤独な人生の中で、唯一心が許せる存在だった、緑の石…。

 が、どうしたことだろう。そう、ジークは思った。

 あれほどに執着していた石なのに、フランツと結ばれた今となっては、そうした感情は遠のき、ただの石として見られるような気がした。

「…ジーク…ジーク」

 フランツが荒い呼吸の中で彼を呼ぶ。ハッとしてジークはフランツの枕元に駆け寄った。

「私はここにおります。痛みますか?」

 ジークはフランツの頬を撫でる。フランツは熱に浮かされた目でジークを見た

「…大丈夫だ。ジーク、それよりも…もう、出発しなければ…。もう何日もここにいる。私のせいで…」

「まだ大丈夫です。そんなことは気にせず、どうか少しお眠りください」

 ジークはフランツの汗に濡れた額に口付けた。

(確かにあの石は愛しい。けれど、この人以上に愛しい存在などありはしない)

 ジークはフランツが再び眠りに落ちるのを見届けた後、離れの隅に置いてあった鍬に剣の柄を叩き付けた。途端に、柄から緑の石がコロコロと転がり落ちる。

 ジークはその石を拾うと、それを持って再び老婆のもとへ行った。

「何度もしつこい男だね。こちとらも食うや食わずなんだ、何も払えない輩に高価な薬を渡すわけにはいかないんだよ」

 ジークは黙って、その石を見せた。

 老婆は一瞬、息を呑んだ。そしてジークの顔を見、石に手を触れた。眼鏡を持ってきて、まじまじとその石を見る。

「…これは、随分と変わった石だね。緑の中に黒いものが見える。卵のような…。いや、目玉みたいだ…。これは、本当に、本当にお前さんのかい?」

「盗品とでもいいたいのか?」

 ジークの目がギロリと光った。

「いやいや、そうじゃなくってさ」

 気迫に押され、老婆はコロリと態度を変えて手を振った。「長年生きてきたが、こんな石はついぞ見たことなかったからね。いやいや、気に障ったら許しておくれよ」

「我が家に伝わる家宝だ。だが、妻の命には換えられぬ」

「そうそう、そうでしょうよ。分かりましたよ。うちの薬で良かったら、どんどん持っていっておくれ」

 老婆は、今まで見せたこともなかったような作り笑いを浮かべると、奥から匂いのきつい薬草を持ってきてジークに恭しく手渡した。「これは万能薬だよ。傷の消毒にも化膿止めにも使える」

「何という薬草だ?」

「美しき聖母」

「聞いたことがないな」

「そうかい。でも、うちにはこれしかないんだ。嫌なら返しとくれ。滅多にとれる草じゃないんだ」

「…分かった。信じよう」

 ジークは引き下がった。今は老婆を信じるしか道はない。彼女に言われた通り、薬草をすりつぶし、油を加えて意識が朦朧としていたフランツの頭部に塗りこんだ。さらに湯を入れて煎じ、飲み薬にした。

「フリーダ、お飲みください」

 ジークは匙ですくってフランツの唇に薬を寄せたが、フランツは無意識に顔を背けた。

 やはり、とジークは溜め息をついた。煎じた薬湯は、腐ったどぶのような匂いがするのだ。

「ご無礼をお許しください」

 そう言うと、ジークは薬湯を口に含み、傷に触れないようにフランツの頭を抱えて彼に口づけた。唇を開かせ、ゆっくりと喉に薬を流し込む。薬湯は喉が焼けるほどに苦かった。フランツは眉を寄せて首を振る。が、ジークはそれを許さず、柔らかく押さえ込み、鼻を塞いで飲み込ませた。

 フランツが咽る。けれど、ジークはやめなかった。

「申し訳ございませんが、すべてお飲みになるまで離しません」

 さらにもう一口含み、再びフランツの唇に薬湯を注いだ。親鳥が雛にえさを渡すように、何度もそれを繰り返した。

 フランツの唇は、下がらない熱のためにひび割れていた。

「おいたわしい…」

 ジークは舌でその唇を潤した。

 そして、涙が滲んだ睫に、目尻に、苦しさに歪んだ眉間に、そっと口づけを繰り返した。それで痛みや苦しみが消えることを祈りながら。

 腕の中にあるフランツという小さな命が消えてしまわないよう、夜を徹して口付けを繰り返した。


 そのころ、宿の主である老婆…名はアンナと言った…は、母屋にはいなかった。村の長であるハインリヒのところに赴いていたのだ。

「ちょっと、これをご覧よ」

 アンナは、ジークからもらった竜眼の石を見せた。ハインリヒはその石を受け取ると、ランプにかざして、まじまじと見る。

「こりゃまた、随分変わった石だな。美しいが、何だか気持ちが悪いな」

「ああ。あたしゃ、これでも相当宝石は見慣れてるんだ、何と言っても昔…」

「昔、高貴なお姫様に仕えてたんだろ?その話はもう百万回くらい聞いてるよ。アンナ婆さん」

「話の腰を折るんじゃないよ。いいかい、こんな風に美しいが禍々しい品っていうのは、だいたい王様の物なんだ。特別な力があるからね。あの旅人は家宝だって言ってたが、違うね」

「それじゃあ、盗品ってことかい?」

「…さあね。あの男は農夫のハンスって名乗ってたけど、そりゃ嘘だね。あの身のこなし、目配りは軍人だ」

「脱走兵かな?」

「そうだね。そしてあたしが思うに、あの連れの女はお姫様だ。それも相当に高貴な身分の…そう、王女様かもしれないね。誘拐したのかもしれないし、駆け落ちの軍資金に、王家の宝を持ち出したのかもしれない」

「おいおい、厄介ごとはごめんだよ、アンナ婆さん」

 腰が引けたハインリヒの背を、アンナはバンと叩いた。老婆とは思えぬほど顔に生気がみなぎっている。

「何が厄介なものかね。いいかい、ハインリヒ、お前はこの石を持って、今すぐ麓の役人のところに行くんだ。もし、あの女が本当に王女様だったら、奴らはおそらく血眼になって探しているはずだ。きっと賞金をたんまりもらえるよ」

「そんなうまくいくかね…」

「試してみたところで、損はないだろうさ!いいかい、賞金をもらえたら、あたしにも半分よこすんだよ。あの二人は足止めしておくからね」

「足止め?」

「そうさ。薬をやったんだよ。よく効く傷薬を欲しがってたからね、本当によく効く薬を選んでやったんだ。あたしゃ嘘は言わないさ。体を治すには、眠るのが一番だ。あの薬のおかげで、あいつらは一両日くらい眠ってるよ」

 アンナの笑い顔が、ランプの明かりで歪んだ。

 その言葉通り、薬を飲んだフランツも口移ししたジークも、抱き合ったままいつのまにか深い沼のような眠りに落ちていった。

 二人はさらに一両日、ピクリとも動かずに眠り続けた。



 

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