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王のカノン  作者: 秋主雅歌
20/25

第十九章

 フランツは最初、木枯らしの音だと思った。

 軋むように、遠くから響いてくる、その音。けれど、段々とそれは形を持ってくる。

 ああ、あの歌だ。


 …立ちはだかりし門番は 女神の宝 奪いたり…

 …最初の門で失うは 王の冠なりにけり…

 …第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り…

 …第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り…


 あの歌が響いてくるのは、随分久しぶりのような気がした。


 …第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り…

 …第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り…


 どうしたことだろう。その一節だけが、まるで時間が止まったかのように繰り返される。

 やがて、地の底から響く地鳴りのような笑い声がした。

 耳の奥がざわざわとする、呪いのような笑い声だ。

 最初は何を言っているか分からなかった。けれど、次第にそれは言葉になっていく。

 …受け取ったぞ。受け取ったぞえ。わらわの真珠…

 …これぞ、わらわの奪われし宝。朝焼けの海から生まれし、真珠の首飾り…

 …炎はわらわの舌。炎はわらわの魂。ああ、確かに真珠の首飾りを、贄とともに受け取った…

(お前は誰だ?何を言っている?)

 フランツは叫ぶが、真空のような圧力の闇に覆われ、声にならない。

 …これで七つ宝のうち、三つを手に入れた。さあ、残りの宝を、わらわの聖なる炎に投じるがよい…

 地獄から湧くような笑い声はすぐ側から、吹き出ている。

 フランツは必死で声のするあたりに目を凝らした。

 すると、闇が固まりはじめ、塔になった。かつてルドルフ伯父上が閉じ込められていた塔だ。

(…違う…。竜だ)

 真っ黒な翼をした、赤い炎のような目の巨大な竜がいた。

 …我が名はイシュタル。黄泉に落ちたる豊穣の女神。さあ、残りの宝を差し出すが良い…

 竜の舌が、フランツの顔へと近付いてくる。

「うあああ!」

 フランツの叫びが、やっと形になった。


 「殿下!」

 ジークの呼び声で、やっとフランツは我に返った。

「ジ…ジーク?」

「大丈夫ですか?随分うなされておいででした」

 気付くと、フランツはジークの腕の中にいた。心配そうなジークの顔が目の前になる。

 慌ててフランツは顔を背けた。我に返って周囲を見ると、当然ながら竜などいなかった。

「…だ、大丈夫だ。嫌な夢を、見ただけだ」

「殿下…いえ、フリーダ、貴方もですか?」

「ジークも?」

「…はい。夢というほどしっかりしたものではありませんが」

 ジークは眉を寄せた。片方の腕でフランツを抱きながら、もう片方の腕を伸ばして、竜眼の剣を手に取った。彼がビリビリと緊張しているのが、フランツにも感じられた。

「ジーク…」

「しっ!」

 ジークの目が、洞穴の暗闇の中で鋭く光った。

 外からは特に何の音もしない。が、空気が何かを含んでいるような気がする。

 そう、音がしないのだ。昼日中であるのに、外では鳥の声もしない。フランツの背中に冷たいものが走る。

 ジークが小声で囁いた。「音を立てずに、身支度を整えてください」

 フランツは無言で頷くと、立ち上がってマントをまとい、帽子を被った。ジークもまた慎重に外套を羽織り、袋に身の回りの物を詰める。

 その時、外でワルキューレが微かに鼻を鳴らした。まるで、フランツたちに注意を促すように。

 彼らは顔を見合わせた。何か、危険が近付いている。

 そっと二人は穴から外を見る。すると、それを待っていたかのように、番兵のように穴の前にいたワルキューレが駆け出した。彼らがこれまで歩いて来た方向へ。まるで雪の上に残る彼らの足跡をかき消そうとするかのように。

 途端に、銃声が響いた。

「馬だ!馬がいるぞー!」

 ジークは洞穴に隠れたまま目を細めて、外を見た。麓の方に、一団になって動く人影が見えた。二十人以上はいるだろう。時折、太陽を浴びて光っているのは銃に違いない。

「おそらく国境警備隊です」

 ジークが呟いた。「殿下、すぐにここを出ましょう。ワルキューレがおとりとなって彼らを引きつけているうちに」

「でも、それじゃあワルキューレを見捨てることに…」

 フランツの言葉を、ジークは遮った。

「大丈夫です、ワルキューレは賢い馬だ。彼らをまいて、すぐに私たちを追いかけてくるでしょう。さあ」

 促され、フランツはジークとともに国境警備隊に見られないよう、身を屈めて洞穴を出た。

 銃声が、再び響く。

「急いで!」

 ジークに手を引かれながら、フランツは木々に隠れるようにして斜面を登っていった。

 フランツはもちろん、ジークも分かっていた。ワルキューレはもう帰っては来ない。

 そして、その通りになった。

 白く輝くワルキューレを、警備隊の男たちは血相を変えて追いかけていた。

「あんな立派な馬が、なんでこんな国境の山の中にいるんだ?」

「敵の斥候の馬じゃないのか?」

「だけど、ありゃ相当な身分の連中の馬だぞ」

「誰か乗ってるのか?」

「ここからはよく見えない」

「どちらにせよ、逃がしちゃまずい」

「撃て!脚を狙え!」

 銃声が間断なく続く。

 ワルキューレは兵たちを挑発するように、近付いては遠ざかり、鹿のように軽やかな足取りで、フランツたちのいる場所から離れていった。

 だが、小一時間もそんな駆け引きを続け、フランツたちから相当な距離が離れたころ、一発の銃弾がワルキューレの首を貫いた。

 そして、神の使いのごとく賢く白い馬は、どう、と雪の上に倒れ込んだ。

 周囲の雪が、ワルキューレの血で赤く染まっていき、二度と馬は立ち上がらなかった。


 どこをどう歩いたのか、ジークにも、ましてフランツにもよく分からなかった。

 警備隊の目をかすめるように、木々の間に隠れて移動しながら、とにかくより高い場所へ、山の懐へと歩き続けた。この山を越えさえすれば、どこか違う世界へと行けるはずだ。そう信じて二人は雪の中を歩いていた。

 街道と違い、踏み固められていない雪に、足は一歩踏み出すたびにズボリ、ズボリと埋まっていく。

 寒いはずなのに、体は汗ばんでくる。だが、足を止めることはできない。少しでも休むと、息が整った次の瞬間には猛烈な寒さがやってきて、汗で濡れた体から体温を容赦なく奪っていくからだ。

 半日ほど、ひたすら歩き続けた夕方、二人は山間の小さな村に辿りついた。

 これ以上、歩き続けるのは危険だとジークは言い、フランツもそれに従った。

 ジークは、農民「ヨハン」と名乗って村人に宿を請うた。宿はないと言われたが、幸いなことにある農家の粗末な離れを借りることができ、その夜の宿とした。村の名を住民に問うたが、ジークもフランツも、その名を聞いたことがなかった。ただ、まだそこはヴィルヘルム王の国であり、そこからさらに険しい山を越えねば、異国へはたどり着けないことが分かった。

 ジークはフランツを小脇に抱えるようにして、離れへと入った。

 農具置き場も兼ねたその小屋には、藁の上にシーツを敷いただけの粗末なベッドと形ばかりの暖炉があるだけだった。今にも壊れそうな壁の隙間からは、冷たい風が吹き込んでくる。それでも野宿よりはましだった。

 ジークが暖炉の火を起こしながら言った。

「お疲れになられたでしょう。どうぞ横になられていてください」

「いや、大丈夫だ。今夜はここで休むのか?もう歩かずに?」

「はい。その方が良いかと存じます。だんだん山道も険しくなってきましたので雪明かりだけでは危険です。それにもう、こんな山奥までは追っ手も来ないでしょう」

「そうだな…」

 「追っ手」という言葉に、フランツはワルキューレを思い出した。何発も、何発も響いた銃声。フランツは指を組み、眉を寄せて目を閉じた。「私のためにおとりになって…。私のせいで…」

「それは、私も同じ気持ちでございます」

 ジークはフランツの手に手を重ねた。「ですが、まずはお体の回復が先です。宿の主人に食事をいただいて参ります。少しはマシなものが食べられるでしょう」

 わざと明るい声でジークが言う。せめて、その気持ちに応えなければ、とフランツは無理に笑って見せた。

「そうだな。この真珠と交換して…」

 フランツは荷物に手を入れて、ハッとした。

 真珠を入れていた袋が見当たらない。さあっと顔が青ざめる。

「どうされました?」

「真珠がない…。落としたのかもしれない」

 ジークの顔も強張った。

「落ち着いて、よくお探しになってください」

 フランツは泣きたい気持ちで袋の中身をすべて暖炉の前に出すが、やはり見当たらない。

「…無い。やっぱり、無い…。…多分、あの洞穴で落としたんだ…。暗かったし、急いでいたし…」

 何度も、何度も探しても見当たらない。フランツの目から涙がポロポロと零れ落ちた。どうして、自分はこんな風に足手まといになることばかりしてしまうんだろう。

「…ごめん、ごめんなさい。ジーク…」

 だが、ジークは怒るでもなく、ポンとフランツの頭に手を乗せた。

「大丈夫ですよ。ここの宿代くらいは私の方で何とかします。ご安心ください」

「でも…ジーク」

「そうそう、私はヨハンですよ、フリーダ」

 ジークは、フランツの真っ赤に腫れ上がった目と額にそっと口付けた。「だから安心して、今夜はゆっくり休みましょう」

 そのさまは、まるで初々しい夫婦に見えた。

 ジークは言葉通り、宿の主人から、ささやかな量ではあったが、温かなスープとパン、そしてワインが入った小さな水差しを持ってきた。二人はそれを小鳥のように分け合って食べ、体が内側と外側から温まると、粗末な藁のベッドに体を横たえた。

 最初は、疲れがとれるように、二人は少し離れて眠ろうとした。

 だが、夜が更けてくるに従い、次第に外の風の音が強くなってきた。ゴウゴウという唸りとともに、隙間風が雪もろとも小屋の中に吹き込んでくる。死神の息のように冷たいその風は、情け容赦なく二人の体温を奪っていく。暖炉の火は、いつのまにか消えていた。

 フランツは溜め息とともに、手を擦った。疲れているはずなのに、足が、手先がかじかんで寝付けない。

「…眠れないのですか?」

 ジークが顔をこちらに向ける気配がした。

「い、いや。大丈夫だ。君は気にせずに…」

 フランツの否定を無視して、ジークは腕を伸ばしてきた。そしてフランツの頬に触れた。

「冷え切っておられる」

 ガサガサとした、逞しい武人の指がフランツの柔らかな頬を包み込む。フランツの鼓動が、突然に跳ね上がる。

 暗闇でよかったと、フランツは思った。そうでなければ、真っ赤になった顔を見られてしまう。

「だ、大丈夫だから…」

 けれど、ジークの手はさらに藁の中にあるフランツの手に触れてきた。

「指が氷のようです。もうひとくべ、焚きましょう」

「い、いや、大丈夫だ。それに、あまり薪を使ってはいけない。宿代がかさんでしまう」

「…おっしゃる通りですね」

 ジークはそう言うと、フランツを抱き寄せた。その指に息を吹きかけ、擦り合わせた。「少しは暖かくなりましたでしょうか?」

「…そう…そうかもしれない」

 フランツの声が震えた。目の前に、闇のようなジークの瞳があった。暗闇に溶けてしまうような黒い瞳と、美しい白目が光る。指が、体が、おののく。

「震えておられる」

 ふわりとジークの腕が、胸が、フランツを包んだ。シャツを通して、ジークの鼓動がそのまま胸に伝わってくる。

 フランツは観念したかのように目を閉じ、ジークの胸に頬を寄せた。このまま眠れるならば、これが、幸せでなくて何だろう。

 だが、風の音は収まる気配もなく、どんどんと高くなっていく。

「離れごと、飛ばされそうだ」

 フランツは呟いた。

 温かなジークの腕の中で、まどろもうとした。だが、吹きすさぶ風が小屋を揺らすたび、その眠りは破られた。

 半分眠り、半分起きているような感覚の中で、フランツは何者かが小屋の扉を蹴破って踏み込んでくる夢を見た。それは夢とも現ともつかぬ感覚だった。そして、踏み込んでくるのは、かつて自分が手にかけた男の…血まみれのグラーツのような顔をしていた。

 フランツは風が呻くたびに、悪夢に体を引き攣らせた。

「フリーダ?」

 ジークが囁いた。

「あ、ああ…」

「汗が、ひどい」

 ジークは布を手にとると、フランツの額や首筋の汗を拭った。凍えているはずなのに、冷たい汗が流れていた。「悪い夢をごらんになっていたようだ。大丈夫です。私がおります。ご安心を。恐ろしい者たちが来ても、常に私が貴方をお守りします」

 そう言うと、ジークはフランツの体に回した腕に力を込め、幼子をあやす母親のように背中をさすった。そして子守唄のように、あの歌を口ずさんだ。

「…立ちはだかりし門番は 女神の宝 奪いたり」

「…最初の門で失うは 王の冠なりにけり」

 穏やかな、低いジークの声。フランツも声を重ねた。

「第二の門で奪われし 太陽と月の耳飾り、第三門でなくしたり 海の真珠の首飾り…」

 一通り歌い終わった後、横たわったままフランツは呟いた。

「結末は、私が考えると約束していたのに。幸せな結末を考えると…。でも、ごめん。私はまだ考えつかない」

 フランツの言葉に、ジークは苦笑した。

「いいのですよ、今は。いつか落ち着いたら、一緒に考えましょう」

「いつか…」

 いつか。そんな日は本当に来るのだろうか。フランツのためらいと不安を打ち消すように、明るい声でジークは言った。

「それに、もういいのです。私は」

「もういい?」

「そう。もう、いいのです」

 ジークは、フランツの額にかかる白金のような髪をかき上げた。暗闇の中、ジークは、ただフランツを見ていた。フランツも見詰め返す。ジークの指が、フランツの頬を愛しげに撫でた。

「もういいのです、美しいフリーダ。私には貴方がいるのだから」

「え…」

「あの石…竜眼の石が見せる緑の瞳の少年の姿も、あの少年が聞きたがっていた七つ門の歌の結末も、もういいのです」

「もう、いいって、どういうこと?」

「不思議ですね…。今まで私を分かってくれるのは、砂漠に立つ竜眼の目の、あの少年だけだと思っていました。あの少年と私は一体だと、同じだと。竜眼の剣を手にした日から、ずっとそう信じていました。でも、今、私は貴方と手を繋いでいる。竜眼の剣の柄ではなく。そして、それだけで心が満たされているのです」

 ジークはフランツの手を取ると、小さな爪の一つ一つにそっと口付けた。

「ジーク…」

「貴方がいれば、私はそれでいいのです」

「ジーク、私は…」

 それ以上、フランツの言葉が出て来なかった。涙が溢れてくる。

「なぜ、泣くのですか?」

 柔らかなジークの声が頭の上から降ってくるのを、フランツは感じていた。

「…だって、私は…。私は、ずっと前から、君を…、君のことだけを見ていたんだ…」

「存じております」

「君に比べて、私ときたら何の力も、すぐれたところもない、醜い中途半端な『歪んだ真珠』で…。なのに、なのに、君の側にいたいと思ってたんだ…」

「もうその徒名はお忘れください。フリーダ、貴方はもう、美しいフリーダです」

 目を開けると、すぐ側にジークの顔があった。どちらからともなく、ゆっくりと唇が近付く。そっと、そっと、怯えるように唇が触れ合う。

「お側におります。我が命尽きるまで、貴方の側に。貴方をお守り申し上げます」

 ジークが中世の騎士の誓いの言葉のように言う。

「わ、私も!ジーク、私も、君の側に。永遠に」

 再び、唇を重ね合った。ジークの腕が、きつくフランツの体を抱き締める。フランツは小さな呻き声をあげた。

「申し訳ありません。痛かったですか?」

 ジークがうろたえると、フランツは慌てて首を振り、はにかむように微笑んだ。ジークは安心したように、その目元に口付けた。そしてフランツの長い睫に、髪に、華奢な鼻に口付けの雨を降らせる。

 ジークのガサガサとした唇が触れるごとに、フランツはその場所に薄紅色の花が咲いていくのを感じた。体中に無数の蕾が湧き上がり、はらはらと花びらが綻んでいく。

 ジークは口付けを繰り返す。フランツの耳元に、首筋に。

 穏やかにジークは言った。

「貴方はもう、怯えた『フランツ殿下』ではありません。強く、美しいフリーダです。私は貴方が愛しいと思う。貴方の想いのありようが。私のために命を差し出そうとしてくれた勇気と強さが」

 ジークはまた唇を唇に重ねた。「だから私は、側にいたいと思うのです」

「ジーク、私だって…」

 フランツはジークの背に腕を回した。重ねた肌から、思いが溢れてくる。抱き締められながら、目の奥が真っ白に燃えて落ちていくのを、フランツは感じた。

 このまま、死んでもいい、と思った。二人でなら、このまま引き裂かれて、砕け散ってもいい。永遠にこの夜が続けばいい。

 外では、誰かの泣き声にも似た風が吹きすさんでいた。



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