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王のカノン  作者: 秋主雅歌
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第一章

 教会の鐘が鳴ると同時に、少年フランツは寝台から飛び起きて窓を開けた。そして寝間着のまま窓枠に肘をつき、遠くに目を凝らす。

 ガリガリに痩せた貧相なその少年が、王太子だと気付く者は少ないだろう。十五歳になろうというのに、小柄で骨も細い。顔立ちは整ってはいるが、顔色は青白く、頬もこけている。顎の辺りで切り揃えられた髪は、ほとんど色の無いプラチナブロンド。大きな水色の瞳はおどおどとして、いつも恐怖に怯えている。そして、贅沢を嫌う父・ヴィルヘルム王の厳格な教えのため、寝間着は召使いも着ないような、着古してよれた木綿。

 癇症の父王は、覇気に乏しいこの不肖の息子の存在そのものが気に食わず、召使いの面前でも、いつでも平気で彼を怒鳴りつけ、殴った。フランツは怯え、そのおどおどした様子がさらに父王の怒りの炎に油を注いだ。フランツの細い体には、鞭や殴られた跡が絶えることは無かった。

 フランツにとって、王宮は牢獄だった。目を伏せ、息を潜めて生きている王子が、唯一前を向いていられる時間。それが、この朝のひとときだった。

 初夏とは言え、ひんやりとした朝靄の中、近付いてくる影が見える。ぼんやりと、やがてはっきりとしてくる姿。それは馬に跨り、王宮へと参内する兵士たち十数人の一団だ。近衛兵の中でも選りすぐられた、父王お気に入りの「長身部隊」だ。

 立派な体躯に落ち着いた気品ある物腰、剣をとれば一騎当千の彼ら将校たちは、中世の竜退治の伝説に出てくる騎士たちのようで、フランツの心を強く引き付けた。その姿が見たくて、フランツは毎朝、宮殿の二階にある自室の窓を開ける。

 彼らが黄金に縁取られた正門「平和の門」をくぐり、王宮へと入る。先頭に立つのは、白髪交じりの髪を後ろにまとめた部隊長のマイヤー。既に四十代半ばではあったが、勇壮にして誠実な人柄で王宮の老若男女の信頼を集めていた。だが、フランツのお気に入りは、いつも最後尾にいる黒髪の将校だ。部隊の中でも一番若いのだろう、二十歳を越えてさほど経ってはいないように見えた。決して出しゃばらないが、いつも誰よりも背筋が伸びて、堂々としている。闇のように艶やかで真っ直ぐな髪、切れ長の目は常に冷静でどこか謎めいてる。顎をくいっと上げた、誇り高く凛とした横顔。跨る黒い馬、ぴたりと嵌めた黒い手袋まで、すべて神話に出てくる英雄を思わせる。名はジークフリートと言うらしい。

(なんて騎士らしい名前だろう)

 つくづく、フランツは思った。

 そして、彼の通り名も知った。それは「竜眼の騎士」。大きな緑の石が柄の部分に埋め込まれた父王の剣「竜眼」の帯同を許された将校だからだ。

 ジークフリートが近付いてくるにつれ、フランツの胸は早鐘のように高鳴る。頬が熱くなる。彼と話したことはない。けれど、ずっと夢見ていた。自分は本当は魔法使いの塔に囚われた姫君で、彼は命がけで救い出してくれる騎士。火を噴く竜を倒し、やさしい笑顔を浮かべ、ゆっくりと手を差し伸べてくれる…。

「殿下!フランツ殿下!」

 突然、荒々しい声が部屋に響いた。教育係のレーベン大佐だった。

 フランツは、この男が苦手だった。筋骨隆々とした荒々しい大男で、年の頃は父王と同じ四十に手が届くころだが、大人の分別や穏やかさからは最も遠い。自分より弱い者は踏み潰しても構わない、そう信じているような男だった。その割れ鐘のような大声で咎められると、それだけでフランツは動けなくなってしまう。だが、似た者同士のためか、この荒くれた男は父王の覚えめでたく、王太子とはいえフランツなんぞは逆らえなかった。

 レーベンはまっすぐにフランツに近付くと、赤毛の髭に覆われた鬼のような顔で見下ろした。

「殿下!本日は、早朝より剣の訓練をすると申し上げたはず!なぜお越しにならぬのです!」

「…すみません、今行こうと思って…」

「陛下の御前での試合はもう明日ですぞ!王太子ともあろうお方が、そんな腕前でいかがいたします!」

「…で、でも、あ、あの、熱が、あって…」

「熱がある方が、窓なぞ開けますか!」

 レーベンはフランツの腕を強引に掴んだ。その痛みに、小さな悲鳴を上げる。

「…ご、ごめんなさい…」

「また仮病ですな!まったくもって殿下は甘えておられる!そのような心根では、ヴィルヘルム陛下のような立派な軍人にはなれませぬぞ!」

「わ、私は、軍人になぞ、なりたくありません…」

「殿下!殿下は国の礎を蔑ろにされるおつもりか!」

 レーベンの顔が怒りでさらに赤くなる。

 フランツはレーベンの手を振りほどこうともがいた。が、丸太のように太い腕はそれを許してくれない。それどころか寝間着の襟元を締め上げられ、息ができなくなる。

 レーベンの目が血走り、フランツをなじる口の端から涎の泡が立つ。その歪んだ顔が、怒りから歓びに変わるのを、フランツは見た。レーベンのいつもの表情だ。弱い者をいたぶることが何よりも楽しいという、この男の。

 レーベンの腕はフランツの体をやすやすと持ち上げる。

「私が申すことをお聞きできないとあらば…」

 お前の首根っこなぞ簡単に折れるのだぞ、そう言いたげなレーベンだった。 

 フランツは恐怖と息苦しさで意識が遠のきそうな中、必死で手足をばたつかせた。細い両腕を宙に伸ばす。無我夢中のフランツの爪が、レーベンの左目を掠った。

「ぎゃ…!」

 レーベンは咄嗟に腕を離した。その瞬間、フランツの体は投げ出され、バランスを崩してそのまま二階の窓から放り出された。

「…あ…!」

 かすかな悲鳴だけを残して、フランツの体が落下した。

 フランツは自分の体がゆっくりと宙を舞うのを感じ、思わず目を閉じた。

 だが、彼の体が地面に激突することはなかった。

 逞しい二本の腕が間一髪で彼の体を受け止めたのだ。

 フランツは恐る恐る目を開けた。そして息を呑んだ。

 腕の主は、あの黒髪の将校。

 フランツとレーベンが言い争っている間に、長身部隊たちが窓の真下まで来ていたのだ。

「…あ…」

 フランツは言葉を失った。黒髪の将校が自分を見下ろしている。謎めいた黒い瞳は微かに紫がかっていて、深海に眠る黒真珠のようだ。

「殿下!お怪我はございませんでしたか?」

 部隊長のマイヤーが慌てて飛んできて、フランツのそばで跪いた。

「…だ、大丈夫だ」

 フランツの声を合図に、黒髪の将校は何も言わずに彼を地面に降ろした。

「す、すまぬ。お、おかげで、助かった…」

 フランツは黒髪の将校に声を掛けたが、彼はフランツを冷たく一瞥したのみだ。代わりにマイヤーが口を開いた。

「ご無事で何よりにございます、殿下。ジークフリート、でかしたぞ」

 ジークフリートは短く頭を垂れる。固い表情で、ひどく儀礼的に。

「あ、ありがとう。ジ、ジークフリート…」

 フランツは引き攣った笑顔で彼の名を呼んでみた。

 だが、ジークフリートはやはり冷たい無表情のまま、「ジークフリート・ヴァルデンナハト少尉にございます」とだけ、答えた。

「…ジ、ジークフリート・ヴァルデンナハト少尉、貴殿は、そ、その、何か、怪我でもしなかったか?」

「我々は、そのような柔な体ではございませぬ」

 ピシャリと、ジークフリートは言う。

「そ、そうか。そうだな。悪かった…」

 フランツは自分が情けなくなった。

 ジークフリートの目には、自分は寝間着のまま騒ぐ、無分別で愚かな王子に見えているに違いない。彼もまた、自分を軽蔑しているのだろう。多くの宮殿人たちと同じように。

 彼も、「違う」のだ。呪いの城から助けに来る騎士なぞではないのだ。

 涙が出そうになったその時、割れ鐘のような声が響いた。

「殿下!」

 レーベンが階下へと駆け降りてきたのだ。さすがに自分のせいで王太子の身に何かあってはまずいと考えたのだろう、鬼のような真っ赤な形相で駆けてくる。

 フランツが無事なのを見るや、レーベンは怒りで大声を張り上げた。

「殿下!情けのうございますぞ!臣下の眼前で窓から落ちるなど、何たる失態!陛下のお耳に入れば、このレーベンが叱られます!」

 自分がフランツの襟首をつるし上げたことなど忘れたように、レーベンはまくし立てる。

「…ご、ごめんなさい」

「殿下はいつも、そうですな!なぜ、もっと王太子らしく凛としていることが出来ぬのです?鋼のごとき偉大なるヴィルヘルム陛下の嫡子でありながら、気概というものがまったく感じられぬ!それとも、殿下は私を馬鹿にしておられるのか?」

「…そんな」

 フランツの声がますますか細くなっていく。

「これから剣の稽古を始めますぞ!私から一本奪うまでは休んでなぞは…」

 レーベンは突然、言葉を切った。ジークフリートの存在に気付いたのだ。「…これは、これは。竜眼の騎士ではないか」

 フランツは、ハッとした。レーベンの声に微妙な悪意が潜んでいることに気付いたからだ。

 マイヤーは何も気付かぬのか、得意げに言う。

「レーベン大佐、窓から落ちた殿下を受け止めたのが、このヴァルデンナハト少尉なのですよ」

「ほう…」

 レーベンの太い眉がピクリ、と動いた。「さすが、竜眼の騎士ともなれば違うな。まさに英雄。我々には及びもつかぬ。おお、そうだ!竜眼の騎士よ、明日の御前試合に殿下と立ち合われてはどうだ?」

「レ、レーベン!」

 フランツが叫ぶ。「そ、そのようなことは…」

「よろしいではないですか、殿下」

 レーベンは慇懃無礼な笑顔で言う。「殿下が勇者の誉高き竜眼の騎士と渡り合ったとあれば、陛下もお喜びになりましょう。良いな、竜眼の騎士。まさか殿下の相手では役不足だとは申すまいな」

 ジークフリートが答える前に、マイヤーが天真爛漫に言った。

「それは、光栄なこと。もちろんお受けさせていただきましょう。良いな、ジークフリート」

 ジークフリートは、無言で頭を下げた。憮然とした表情のまま。

 フランツは溜め息をついた。消えてしまいたいと思った。御前試合は、王や王子らを勝たせるべく筋書きは暗黙のうちに決まっている。

(私を勝たせるための猿芝居を、あの『竜眼の騎士』にさせるだなんて…)

「それでは、殿下。試合に向け、鍛錬いたしましょう。すぐにお着替えを。私はここでお待ちしております」

 レーベンが、なぜか浮き浮きと楽しそうに言う。フランツは小さな声で、「はい」と頷くしかなかった。


 フランツと長身部隊の大半が消えた宮殿の前庭で、レーベンはニヤニヤしながら剣を振っていた。すると、その背後に金髪の若者がスッと近付いた。先ほどの長身部隊の一人だった。

「レーベン殿、なぜヴァルデンナハトにそのような大役を…」

「グラーツか」

 レーベンは振り向かずに金髪の若者に言った。「あの、成り上がり者に目にもの見せてやろうと思ってな」

「それなら、なぜ…」と、グラーツと呼ばれた金髪の若者は憮然として問う。

 レーベンはまた、にやにや笑いを浮かべて答えた。

「御前試合だ、王子には花を持たせねばならぬ。だが、あの王子に負けたとあっては、竜眼の剣を持つには値わないのではないか?おぬしもそう思っておろう?何と言ってもあの王子は、『歪んだ真珠』だからな」

「確かにそうですが…」

「それに陛下は、あの王子をお嫌いだ。王子におもねるような真似を自らの剣を委ねた『竜眼の騎士』がしたとなれば、面白く思わないだろうよ。そうなれば、竜眼の剣は別の者に、ということもありえるのではないか?たとえばグラーツ、お前とか、もしかしたら、私とか」

「分かりませんよ。ヴァルデンナハトは平民の田舎者です。王宮のルールなぞ知らずに、王太子をこてんぱんにしてしまうかもしれません」

「そうなれば、あの王子が怖い目を見るだけのこと。それはそれで陛下が喜ばれる余興となるだろう」

 レーベンは、自分の思いつきに酔いしれるようにニヤリと笑うと、剣を振ってグラーツの喉に当てた。「どうだ?そうは思わぬか?」

「お、お戯れはおやめください、叔父上殿」

 グラーツは笑いながら、叔父であるレーベンに向かい、両手を挙げた。「まあ、どう転んでも、面白い見世物にはなりそうですね」




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