第十八章
一歩、また一歩。
ジークは夜の闇の中、深い森の中を睨みをきかせながら慎重に歩を進めた。幸いにして雪明りが行く手を照らしている。片手は腰に差した竜眼の剣の柄に常に添え、何かことがあればすぐに対応できるように身構えていた。狼やねぐらを持たない熊などの猛獣たちの出没はもちろんだが、それ以上に恐れているのは、当然ながら追っ手だった。
人の気配は、いまだない。
ジークの後を、白馬のワルキューレに乗ったフランツがついていく。
最初はジークが手綱を引いていたが、利口なワルキューレはそのような指示がなくてもジークの後をついてきた。
ただ、時には立ち止まることもあった。
「ジーク」
フランツが小声で呼ぶ。「ワルキューレが足を止めた。そっちには行かない方がいいのではないか?」
ジークは振り返ると、耳を澄ます。
「…そうかもしれないですね。川音がしています。行き止まりかもしれない」
ワルキューレはやっと気付いたかとでも言いたげに、小さくいななくと、今度は自分が案内するかのように別の方向に歩き出した。
「ジーク、ワルキューレはこっちだと言っている」
フランツの言葉に、ジークは空を見上げた。凍てつく真っ黒な空の中に星がいくつか瞬いている。方角を示す北斗七星と北極星も、木々の枝の合間から見えた。
「なるほど、そちらに行くと少し東寄りになりますが、試してみる価値はありますね」
「そうだよ。ワルキューレは君の行方さえも教えてくれたのだから、信頼していい」
ジークがクスリと笑った。
「殿下も、ワルキューレの言葉が分かるようになったようですね」
フランツは恥ずかしそうに笑った。
「君ほどじゃない。それよりジーク、私はフリーダだ。殿下ではない」
「そうでしたね。ですが、私もヨハンです。お間違えなきよう」
二人はほのかな雪明りの中で笑顔を交し合った。
次第に、雪に映える青い闇の色が薄くなっていく。と同時に、冷え込みが突き刺さるようにさらに厳しくなってくる。夜明けが近付いてきたのだ。
「そろそろ、ねぐらを探しましょう」
ジークの言葉を聞いていたかのように、ワルキューレが再び先頭に立って歩き始めた。しばらく歩むと、突然一本の大きな杉の前で足を止め、小さくいなないた。
「何だ?ワルキューレ」
「ジーク、木の後ろに何か穴があるみたいだ」
ジークは木の背後に回ると、小さな穴に手をかけた。すると、雪と枯れ葉で覆われていた壁が崩れ、洞穴が見えた。
「洞穴だ。ワルキューレは本当に神の使いかもしれないな」
フランツが感嘆した。
「ここで寝ろ、ということか。熊などの先客がいなければいいが」
ジークは慎重に洞穴を覗き込んだ。それは、人が屈めば何とか入れる程度の狭い空間だった。ジークは匂いを嗅いだ。湿った草の匂いがするだけだ。野生動物の気配は無い。
「殿下、大丈夫そうです」
そう言うと、ジークは馬上のフランツへ腕を伸ばし、軽々と抱えて降ろした。
「ありがとう。だが、私はフリーダだ」
「失礼いたしました。フリーダ」
ジークは右頬に笑くぼをつくると、フランツの手をとったまま洞穴の中へと導いた。さすがに馬が入ることは難しく、ワルキューレ自身も入ろうとはしなかった。
フランツは袋から林檎を出すと、ワルキューレの鼻先に差し出した。ワルキューレは嬉しそうにパリパリと頬張る。
「ありがとう。一晩歩き通しで疲れただろう?」
ワルキューレは答えるように小さくいなないた。
フランツはワルキューレの鼻を撫でながら言った。
「申し訳ないが、お前はここで休んでおくれ。敵が来ないか見張っていてくれるとありがたい。けれど、君が自由にどこかに行ってしまったとしても、それはそれで良いのだよ」
今度はジークが二つ目の林檎をワルキューレに与え、労をねぎらった。
フランツは外で休むワルキューレの手綱をどこかに縛ろうとはしなかった。ワルキューレなら、繋ぐ必要はないだろうし、本当に、そのまま逃げてしまっても構わないと考えていた。自分たちに未来はないかもしれないのだから。
ジークも同じ思いなのだろう。無言のまま、フランツの肩を抱くと、洞穴の中に入るように促した。
洞穴の中は、真っ暗で狭かったが、意外に奥まで空間があった。
少し目が慣れてくると、ジークは熊のような自らの外套を脱ぎ、その上にフランツを座らせた。そして枯れ枝や枯葉を集め、火打石で火をつけた。
朱色の炎が目の前で立ち上がるのと同時に、暗闇が遠のく。お互いの顔が炎に浮かび上がった途端、二人とも安心して綻ぶように笑顔を浮かべた。
「それでは、私たちも食事にしましょうか」
ジークは小さな鍋に雪を溶かして湯を沸かし、持ってきたワインを加えてフランツに渡した。二人は一口ずつ回し飲んだ。一方で、小さなジャガイモを枝に串刺しにして火にかけ、焼けたイモをジークは器用に皮を剥いてフランツに渡した。
「おいしい」
熱いイモは、小さいけれどホクホクとしていて、フランツの口の中で甘く広がった。湯で割った赤いワインとともに臓腑に熱が広がっていく。
「殿下…いえ、フリーダはイモが本当にお好きですね」
ジークは嬉しそうに言うと、もう一つイモを渡した。
「それは、…ヨハン、君が食べてくれ」
「大丈夫です。昨夜の宿の主人のゲオルグが、結構な量を持たせてくれましたから」
「そうか。それでも、君と分け合いたいんだ。どんなことでも」
「…それでは、お言葉に甘えて」
ジークは頷くと、イモを口に運んだ。その口元には無精髭が伸びている。
フランツは小さく笑った。
「髭のある君の顔を、初めて見る気がする」
「髭?」
ジークは目を丸くして顎や口の辺りを触った。「ああ、見苦しいものをお見せして申し訳ありません。どうぞ、お許しを。さすがに髭を整えるのはここでは難しいですね」
「いや、咎めているのではないんだ。それも…そんな君も、逞しくて…その、いい。いい感じだ」
言った後で、フランツは真っ赤になって俯いた。
ジークは微かに笑う。「殿下もそろそろ髭が伸びてはおりませんか?」
その言葉に、フランツはキッと睨んだ。なぜか悲しく、怒りが湧いた。
「乙女のフリーダに、髭なんぞない」
「左様ですか?」
フランツの気持ちを知らずに、ジークはおかしそうに笑う。
「何なら触ってみるがいい」
フランツは手を伸ばしてジークの手を取ると、自分の口元に、顎に触れさせた。「まだ、まだ、私に髭なんかないだろう?」
フランツは泣きたくなった。自分はまだ、「乙女のフリーダ」でいたい。ジークが愛してくれるような乙女でありたい。それはもうすぐ時間切れになるのだけれど。
「ええ、とても柔らかくて、滑らかです」
そう言うと、ジークは触れていた手でフランツの頭をポンポンと撫でるように叩いた。「フリーダは、美しい肌をしています」
「私が…年を重ねて大人の男になって、君みたいな髭をたくわえたとしても、君は私を『フリーダ』と呼んでくれるだろうか」
フランツの声が、震えた。どうして震えるのか自分でも分からない。甘い痛みが胸の奥から湧いてくる。今はこんなことを気にする時ではないのに。
ジークは何かを考えるように一拍置いてから言った。
「勿論です、フリーダ」
ジークの黒い瞳が、こちらをひたと見詰めた。強い力を持つ、美しい闇のような瞳。「貴方はどんな姿になろうとも、私にとって永遠に美しい乙女です」
まさにその言葉が欲しかったはずなのに、いざ面と向かって言われると、フランツは動揺した。視線を逸らすと、わざと明るく言った。
「そのころ、私たちはどこで、何をしているのかな」
「そうですね」
ジークの目が楽しそうに細められた。「きっと、この世の果てのようなところで、イモを作っているでしょう」
「イモか!」
フランツも笑った。「それはいい!大好きなイモを、君と作る。最高の人生だ」
「ですが、ご存知ですか?畑を作ることは大変なのですよ。贅沢もできません。きっとパンすら食べられないかもしれない」
「そんなものはいらない。君とイモがあればいい」
「私はイモと一緒ですか」
ジークが笑うと、フランツもホッとした。
「楽しいだろうな、そんな日々は」
「楽しいでしょうね」
ジークも頷いた。その目はフランツに注がれているのに、どこか遠くを見ているようにも感じられた。そんな日が来る可能性はほとんど無いことを、お互いに分かっているからだろうか。
「フリーダ、そろそろ休みましょう」
そう言うと、ジークはフランツの方に手を伸ばした。「火が消えると寒くなります。おそれながら体を寄せることをお許しください」
「もちろんだ」
フランツはジークの腕の中にもぐりこんだ。ジークは親熊のようにフランツを懐の中に抱き締め、その上から自分の熊のような外套を羽織った。
ジークの匂いがフランツの鼻先を掠める。潮のような、それでいて、どこか涼やかな南国の果実にも似た匂い。ちくちくとするジークの髭が、フランツの生え際のあたりに当たる。全身から伝わる温もりを感じながら、フランツは自分の鼓動がどんどん高まっていくのを感じた。
もっと抱き締められたい。壊れるほど抱かれたい。そんな気持ちを気付いてほしいのか、知らないでいてほしいのか、フランツにはよく分からなかった。
追っ手が迫るという不安は、甘く高まる胸の鼓動にかき消され、いつしか頭の中から消えていった。
そのころ、ジークたちが最初に泊まった小さな宿場町に大勢の軍が押し寄せていた。
王命を受けて、フランツと脱走したジークを探す一隊だった。彼らは町内の宿一つ一つに押し入ると、虱潰しに中を調べ、主人や客たちを剣で脅して連行した。
町のはずれにある、小さな宿も見逃してはもらえなかった。衛兵たちはそこで主人の衣装箱から軍服を見つけた。それはジークが宿の主人ヨハンに渡したものだった。
「おい、これは何だ!」
衛兵の声に、ヨハンは縮み上がった。
「こ、これは、お客人が忘れていったもので…」
「その客人とやらについて、話してもらおうか!」
衛兵はヨハンを引っ立て、町で最も大きな宿屋に連れていった。その居間には、軍の司令官と思しき将校たちが暖炉の炎にあたっていた。一人は長身の中年の男。かつてジークが所属していた長身部隊の隊長マイヤーだった。もう一人、フード付きのコートを着た人物がいた。座ったまま、暖炉の炎に当たっている。
「マイヤー隊長!ヴァルデンナハトの物と思しき軍服を見つけました!この男の宿にございました!おい、とっとと入れ!」
衛兵は乱暴にヨハンを突き飛ばした。ヨハンはよろよろと絨毯の上に倒れこむ。
「衛兵、乱暴なまねは慎みなさい」
マイヤーは忌々しげに眉を寄せて、倒れ込んだヨハンの手を取った。「すまぬな、主人。この軍服を着ていた男について、教えてくれぬか?背が高く、長い黒髪だったはずだ」
「あ…」
ヨハンはガタガタと震えた。「た、確かに、そのような風貌でございました。こ、この軍服を置いて、わ、私の服を盗んでいったのでございます」
「その男は、一人だったか?」
「は、はい!お一人でした!」
「どこに向かうと言っていた?」
「さ、さあ…。あ、そういえば、寒いので南の方に行きたいとか…」
「南?確かにそう言ったのだな?それでは兵を南へ…」
その時、フード付きのコートを着ていた人物が背を向けたまま口を開いた。
「そこの者に、家族はいるか?」
低いが、女の声だった。
「おかみがおります」
衛兵が答えた
「連れてくるがいい」
ほどなくして、ヨハンの妻の、恰幅の良いロッテが衛兵に連れられてきた。
「た、確かに、軍人さんはお一人でした…」
恐々とロッテが言ったその時、フード付きのコートの女がスッと立ち上がり、向き直った。
「そこの女、その首飾りは?」
ロッテは、ハッとして首を手で覆った。フランツがくれた美しい薄紅色を帯びた真珠。一粒ではあったが、十分に存在感のあるその真珠を、ロッテは大事に取っておいた艶やかなリボンに通して首に掛けていたのだ。
「こ、これは母親の形見でして…」
ロッテの説明に、女は甲高い声をあげて笑った。
「その真珠は、お前のような下賎の者が手にできるような物ではない」
女はゆっくりとフードを払った。現れたのは、プラチナブロンドの髪を結い上げた、フランツとよく似た面差しの若い女性。フランツの姉ゾフィーだった。
ロッテは目を丸くした。
「あなた、戻ってきたの?」
その言葉が口から出た途端、ロッテはしまったという顔をして、自らの過ちに気付いた。
確かにフランツとゾフィーは背格好といい、顔立ちといい、一見よく似ていた。が、ゾフィーの青い瞳には人を見下す傲慢な光が漲っていて、湖のように静かで物憂げなフランツとはまったく違っていた。
ニヤリ、とゾフィーは笑った。
「今の言葉は、どういう意味かしら?」
ロッテはしきりに首を振る。
「ああ、いえ、いえ、私は何も…」
ゾフィーは酷薄そうな笑顔を浮かべた。
「マイヤー隊長、やはりフランツは…わが弟は、ヴァルデンナハトと一緒のようですわね。さあ、女、答えなさい。それで、本当は奴らはどっちへ行ったの?」
「す、すみません!すみません!分かりません!」
「分からないわけはないでしょう!」
ゾフィーは持っていた鞭でビシリと机を叩いた。
「でも、でも、本当に分からないのです!」
「お前たちが、そんな態度なら、私にだって考えがある。衛兵、この女を宿に戻しなさい。主人に聞くわ」
「はっ」
衛兵はロッテを引っ立てて、彼らの宿に戻した。ゾフィーはゆったりと居間を歩き始めると、跪いたままのヨハンの前で足を止めた。
「もう一度聞くわ。それで、奴らは本当はいつ、どこへ向かったの?」
「か、かれこれ、3日前でございます。た、確かに南へと…」
ヨハンが必死で言うが、ゾフィーは意にも介さず、鞭で再び机を叩いた。
「衛兵!」
ゾフィーの足元に、衛兵が駆け寄る。
「お呼びでしょうか、ゾフィー殿下」
「さっきの女が戻った宿に鍵をかけ、火をつけなさい」
「何だって!」
「何ですと!」
ヨハンとマイヤーが同時に叫んだ。
マイヤーが詰め寄った。
「ゾフィー殿下、正気でございますか?そのようなことをしては…」
「そうでもしなければ、ここの連中は何も話さないのでしょう。さあ、衛兵、さっさとしなさい!」
「はっ!」
衛兵はすぐさま仲間たちと宿へ戻り、戸に板を打ちつけ、油をかけて火を放った。
火と煙が立ち上がる様が、ゾフィーとヨハンたちがいる宿からも見える。
「お、おやめください!妻が、ロッテが…!」
「だから、早くおっしゃい!」
ヨハンは唇を噛み、絞り出すように言った。
「あの御仁は、…こ…国境を越えると…。オーストリアへ向かうとおっしゃっておりました」
「そう、やはりね。マイヤー!オーストリアに向かう街道筋を全部調べさせなさい」
「はっ!」
「お、お姫さま!わ、私が知っているのは、本当にそれだけです!は、早く火を消してくださいませ!」
ヨハンはゾフィーのスカートの裾に手をかけた。
「無礼な!」
ゾフィーはヨハンの頭を蹴った。「汚らわしい手で触れないで頂戴。そもそも、お前たちが逆らうから、こんなことになるのよ」
「で、ですが…」
「これはお前たちのせいなのよ。この火刑もね」
ゾフィーは再び暖炉の前の椅子に優雅に腰を下ろした。
窓から、宿が燃える煙がどんどん濃くなっていくのが見える。閉じ込められたロッテのものらしい悲鳴が、風に乗ってくる。
「お、お姫様!」
ヨハンが血を吐くように叫ぶ。だがゾフィーは顔色一つ変えない。
「衛兵、この男を連れていきなさい。うるさいから、どこかに縛っておいて頂戴」
「ゾ、ゾフィー殿下!」
さすがにマイヤーがゾフィーに向かって声を荒げた。「差し出がましいことではございますが、この者たちには何の罪咎もありますまい!」
「本当に差し出がましいことですこと」
ゾフィーは顔色一つ変えずに言った。「卑しい宿屋の女の分際で、私の真珠を身につけていたのよ。己の身分を弁えぬ、何と言う図々しさ、愚かさでしょう」
「あの真珠がゾフィー殿下の物かどうかは分かりませぬが、宿ごと女を焼いてしまっては、殿下の真珠もお手元に戻らなくなるのですよ」
「あら、下賎な者が身に付けた宝石などいらないわ」
ゾフィーはそう言うと、ゆったりと笑い、暖炉の前で小さく欠伸をした。ロッテの悲鳴と、ヨハンの叫びは、まったく耳に入らないようだった。
「マイヤー、分かっているでしょう?二人を捕まえるのは、お父様の命令なのよ。厳しくことに当たらなければ、王の期待に沿えないわ」




