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王のカノン  作者: 秋主雅歌
18/25

第十七章

 冬の遅い夜明けが訪れるころ、フランツとジークフリートは小さな町に着いた。フライベルクというその町は、かつては東西の交通の要所であり、宿場町として賑わったのだが、今は主要な交易ルートから外れてしまったため、すっかり寂れていた。

「この町で宿を取りましょう」

 ジークは白馬ワルキューレの顔を撫でながら言った。嬉しそうにワルキューレが鼻を鳴らす。

「でもジーク、まだ夜は明け切ってはいない。もう少し先まで行けるのではないか?」

「いえ、ワルキューレが疲れているのですよ」

 あ、とフランツは小さく言うと、慌ててワルキューレの背から降りた。「すまない、ワルキューレ」

 ワルキューレはやっと分かってくれたかとばかりに小さくいなないた。

「すごいな、ジークは。ワルキューレと言葉が通じ合っているようだ」

「じき、殿下も分かるようになります。ワルキューレは賢い馬ですから」

「自信はないな。だが、ジーク、私は『殿下』ではないぞ。今はフリーダだ」

「これは失礼いたしました。フリーダ。ですが私も今はヨハンですよ」

 ジークは苦笑し、一軒の宿屋のドアを叩いた。

 宿の主人が出てくる前に、ジークはフランツの肩を抱いた。

「私たちは夫婦なのですからね」

 悪戯っぽく言うジークに、フランツも軽口で答えようとした。だが、肩を抱き寄せられた途端に、フランツの鼓動は急におかしくなったように早くなってしまった。

「そ、そ、そう、だね」

 舌は硬直したように曖昧な相槌を打つのみで、気の効いた言葉の一つも出てこない。フランツは真っ赤になって俯くしかできなかった。


 宿の主人は年老いた、痩せて背の高い男で、白い長い髭が顎を覆っていた。主人は、ジークの作り話に無言で頷くと、入るようにやはり無言で手招いた。

 宿にはちょうど旅立つために朝食をかきこんでいる旅人が二組いた。彼らは一斉に顔を上げてフランツたちを見た。

「おや、こんな時間に宿入りかい?」

「こりゃまた随分な別嬪さんを連れてるじゃないか。ワケありか?」

 ジークはフランツを彼らの視線から隠すように体の脇に抱き寄せた。一方で旅人たちに怪訝に思われぬよう、珍しく笑顔を浮かべて答える。

「残念だが、そんな楽しいもんじゃねえんだよ。家内の親父さんが危篤だって知らせが来てね。夜通し歩いて来たんだが、家内まで具合が悪くなっちまってね」

「そりゃ大変だ。奥方は大事にしなきゃな」

 客の一人が、パンを頬張りながら言う。

「ああ。そっちも道中、気をつけてな」

 ジークはまるで農民仲間のような口調で笑い、手を振った。

 二人は主人にあてがわれた小さな部屋に入り、扉を閉めた。途端にフランツはプッと吹きだした。

「ジーク、君は本当にいろいろなことを思いつくんだな」

「ヨハンですよ、今は」

 ジークは右頬に笑くぼをつくった。「そしてフリーダ、貴方もなかなかの演技でしたよ。病気の父が心配で、身も世もあらぬ若妻としては合格点です」

 二人は顔を見合わせて、笑った。

「では私は奥方のために食事をもらってきましょう」

 ジークが階下へ降りると、フランツは慣れない手つきで暖炉に火をくべ、濡れた外套を椅子の背に掛けて乾かした。少しでもジークの役に立ちたい。足手まといにはなりたくない。

 間もなく、ジークはスープとパンとワインを盆に置いて持ってきた。

「フリーダ、休んでいてくださって良かったのに」

「そんなわけにはいかない」

 生真面目にフランツは答える。「私は君の…『妻』なのだから」

 言った途端に、フランツの頬がボッと紅潮した。さりげなく言おうと思ったのに、妙な沈黙が生まれてしまった。ジークは無言で、そっとフランツの頭を撫でた。それが、フランツにとっては泣きたいほど嬉しかった。

 二人はぎこちないまま椅子に座り、ワインを一口飲んだ。途端に空腹だったことを思い出し、顔を見合わせ、一緒に微笑んだ。

「それではフリーダ、いただきましょうか。主への祈りは省略しましょう」

 決して贅沢な食事ではなかったが、温かなスープは二人の冷えた体に染みていった。

「お元気になられたようですね。それだけ食欲があればもう大丈夫です」

 ジークが満足そうに言った。確かに、食の細いフランツには珍しくパンもスープも、ジークと同じくらいの量を平らげていた。

「この食事は美味だな」

「殿下…いえ、フリーダは、ジャガイモがお好きなようですね」

「ああ。この間の宿でも食べたが、本当においしい」

「では、しっかりお召し上がりください。旅はまだ続くのですから」

 そう言うと、ジークは自分の皿にあったジャガイモを一つ、フランツの皿に移した。

「いいよ、君こそ歩き通しなのだから…」

 そう言いつつ、フランツはジークがくれたひとかけらのイモを口に運んだ。旅はまだ続く、と言ったジークの言葉が嬉しかった。どうか、永遠に続いてほしい。罪が自分たちに追いつく日など、来ないように。

「それでは、君にお返しを」

 そう言って、フランツは自分のソーセージを渡した。ジークは微苦笑とともに、そのソーセージを口にする。

「まるで、本当の夫婦のようですね」

 ジークの言葉にフランツはまた真っ赤になり、そして俯いた。その素振りに、ジークが慌てる。

「これは失礼いたしました。調子に乗って無礼なことを申し上げました。ご不快に思わないでください」

「違う、違うんだ」

 フランツは首を振った。「そんなんじゃない…。ただ、君に申し訳なくて…」

「申し訳ない?」

「本当なら、君は今ごろ、マイヤー隊長のご令嬢と夫婦になっていたはずなのに…。私が愚かなばかりに…」

 フランツは唇を噛んだ。優しく美しい妻と洋々たる未来。そんな幸福がジークには待っていたはずなのに、自分が、すべてをご破算にしてしまったのだ。

 だが、ジークはゆっくりと頭を振った。

「お気になさいますな。どうぞお顔をお上げください。正直、私は今まですっかり忘れておりました」

「忘れていた?」

 フランツが顔を上げる。ジークはその目を見て頷いた。

「はい、忘れておりました。結婚といっても、それはマイヤー隊長が望んでいただけのこと。隊長のご令嬢には、私なんぞよりももっといい婿が現れるでしょう」

「でも、君なら良き夫となれたろう。温かな家庭も築けたはずなのに…」

「私には今、フリーダという妻がおります」

 ジークはフランツの手に手を重ね、強く握り締めた。「美しく、賢く、大変に勇敢で、そして誰よりも優しい妻がおります。これほどの妻は、この世にほかにはいないでしょう」

 フランツは口をへの字に曲げた。

「ジーク、ふざけないでくれ」

「ふざけてなどおりません」

「では君は…私がもし、女だったら…君の妻にしてくれるのか?」

「ええ、間違いなく」

 ジークの黒い瞳が、フランツをまっすぐに見詰めた。「ただ身分が違いすぎて、許されないかもしれませんが。女性だったとしても、結局、今と同じように逃げていたかもしれませんね」

 そう言って、ジークはフランツの額にそっと口付けた。「さあ、召し上がったら、傷の治療をしましょう。その後はお休みになってください。少しでも体力を回復させなければ」


 狭い寝台に一緒に身を横たえると、ジークはすぐに泥のような眠りに入った。表には出さないが、ずっと夜通し雪道を歩いて、さすがに疲れていたのだろう。フランツもまた疲れてはいたが、馬上だったため体は楽だった。逆に頭は冴えて、なかなか眠りにつくことはできなかった。窓を閉め切って昼の光は遠ざけたが、階下から人々が活動を始めた物音が自然に耳に入ってくる。

 一方、自分の傍らで、大きな体を折りたたむようにしてジークは眠っている。

 フランツは、その顔をじっと見詰めた。微かな寝息が、整った口元から漏れる。

 フランツはジークの黒髪にそっと触れてみた。昨夜、出発前に乱雑に切った髪の毛が、顔に垂れてくる。髪が眠りの邪魔にならぬよう、フランツは指でそっと払いのけた。

「フリーダ…」

 小さな声でフランツは呟いた。

(本当に私がフリーダだったなら。この人の妻だったなら、どんなに幸せだろう)

 フランツは願い、そして、ジークの額に祈るように唇を寄せた。

 その時、ジークが寝返りを打ち、裸の肩があらわになった。

 暖炉の炎で暖まったとはいえ、部屋の空気は冷たく、体が冷えてしまう。フランツはジークを起こさぬように、その肩に毛布をかけた。

(すべては夢物語だ)

 フランツは目を閉じた。

(分かっている。いつかは覚める。けれど、今日であってほしくはない。まだ、この物語を終わらせたくはない)

 フランツはジークの胸に顔を寄せた。先ほど体を湯で拭いていたが、かすかに汗の匂いがする。けれど、それは愛しい匂いだった。このまま、息絶えてしまえたら、どんなに幸せだろう。

(今だけは、この人は私の夫だ)

 フランツは胸いっぱいにその匂いを吸い込んで、ジークの喉仏に口付けた。

 ジークが小さく呻き、フランツはビクリとした。

「…殿下?」

 半分眠った声で、ジークが問う。

「…違うよ、フリーダだ」

「フリーダ…」

 ジークは眠ったまま、腕を再び毛布から出し、フランツの体を枕のように抱き締めた。

 無意識の行為なのだろう。けれど、フランツは泣きたくなった。ジークの匂いに包まれて、フランツは目を閉じた。このまま、世界が終わることを祈りながら。


 先に目覚めたのは、ジークの方だった。日は既に傾き始めていて、そろそろ出立の準備をしなければならない。

 厩でワルキューレの様子を見に行くと、宿の主人がやって来た。

「随分、立派な馬をお持ちですな、お客人…ヨハン殿、と申されましたか」

 ジークは無言で振り返った。確かに、フランツを運んできた馬ワルキューレは、雪のように真っ白で、手入れも行き届き、農夫には不似合いな馬だ。だが、ジークは平静を装って答えた。

「そうなんだよ。もともとはご領主さまの馬だったんだが、気性が荒くてね。この間、ご領主さまを振り落としちまったもんだから、殺しちまえってことになってね。だけど、奥方さまがかわいそうだって、止めに入って、結局、俺がもらって面倒みることになったってわけさ」

「そうですか。利発そうな馬に見えますがね」

 宿の主人は何かを言いたげにジークを見る。

「見かけによらないもんだよ、人も馬も。ええっと…」

「私なら、ゲオルグですよ、ヨハン殿」

「ゲオルグじいさんか」

「ヨハン殿は、これからご出発ですか?日も落ちようというのに」

「ああ。家内の調子が良くなったからな。世話になったな、ゲオルグじいさん」

 ジークはさりげなくゲオルグに背を向けて、ワルキューレの鞍の準備を始めた。だがゲオルグに立ち去る気配はない。何か思案をしているようだった。

「…ヨハン殿、これからどちらに行かれるご予定で?」

「ボーデンまでだ。家内の実家があるもんでね」

「オーストリアとの国境には、近付かない方がよろしいかと」

 ゲオルグの言葉に、ジークの手が止まった。

「おいおい、国境なんて行かないよ」

「そうですか、ならいいのですが。オーストリアとの国境に兵がどんどん集まっています。厄介なことに巻き込まれなければ、と思いましてね」

「国境に兵が?」

「そうです。今朝から急に」

 丁度、自分たちが宿に入ったころだ。眠っている間に、兵が増えているというのか。

「ゲオルグじいさん、その兵たちは…」

「その兵たちは」

 ジークの言葉を待たずに、ゲオルグは言った。「男二人連れを探しております。一人は少年で、薄い色の金髪に水色の瞳。もう一人は軍人で、大柄で長い黒髪、黒い目をしている、と。ヨハン殿、あなたも黒髪で黒い目をしておりますね」

 ジークとゲオルグは、しばらく無言で睨みあっていた。だが、ジークは乾いた笑い声を立て、ワルキューレの蹄の調子を見る。

「黒髪に黒い目の大男なんざ、吐いて捨てるほどいるぞ」

「奥方も、確か水色の瞳だったはず。髪の色までは帽子で分かりませんでしたが」

「そもそも俺の女房は女だぞ、馬鹿馬鹿しい」

「左様ですね」

 ゲオルグはまだ、去らない。「ある兵によると、少年はさる高貴なお方で、軍人の男に誘拐されたとのことです。もしそうなら、私は通報しなければならない」

 ジークは黙って顔を上げた。ゲオルグはこちらをひた、と見詰めている。二人はじっと睨みあった。

 諦めたようにジークが口を開いた。

「…それは、それだけは違う。神の名にかけて」

 ゲオルグは暫く黙ってジークを見ていたが、やがて大きな溜め息をついた。

「分かりました。ただし、ヨハン殿、お気をつけなされ。男二人を見つけた者には、王から大金がもらえるそうです。オーストリアとの国境付近には近付かない方がいい。いいえ、街道自体、外れた方がいい」

 ジークはゲオルグの目を見た。老人の顔は白い髭に覆われて、表情がよく読み取れなかったが、とび色の目の奥に嘘偽りがあるようにはジークには見えなかった。

「…そうか。ありがとう、ゲオルグじいさん。だが、なぜ私たちを助けようとしてくれるのだ?」

「この馬は、いい馬ですからな」

 ゲオルグはワルキューレの顔を撫でながら言った。「利口で、優しい。こんな馬の持ち主ならば、きっと良い方たちなのだろうと思いましてね。たとえ、どんな事情がおありだとしても」

「かたじけない」

 軍人の口調に戻り、ジークは騎士のように片膝をついてゲオルグに礼をした。


 ジークは部屋に戻ると、まだ眠っていたフランツの肩をそっと揺すった。フランツはすぐに目を覚ました。

「旅立つ時間か?」

「はい。申し訳ございませんが、ルートを変えて北へ向かいます。ガーランド山脈を越えて、ノルデンシュタットよりもさらに北へ向かいます。過酷な道になりますが、お許しください」

 フランツはニッコリと笑った。

「君となら、どこにでもついていく」




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