第十六章
燃え盛る暖炉の炎の前で、フランツは宿の主人の妻ロッテが渡してくれた小さな手鏡を覗き込んだ。そして、満足気に微笑んだ。頬が、自然に紅潮してくる。
宿の主人のヨハン同様、人好きのする恰幅の良いロッテは、娘時代に着ていたというワンピースをフランツにくれた。あちこち擦り切れ、あて布だらけの古い品だったが、それは持ち主の愛着を示すように清潔で、着心地の良いものだった。ロッテはさらに「寒いだろうから」と余り毛糸で編んだ肩掛けも添えてくれた。
ロッテがくれたそれらの服を着て、白い帽子で怪我をした頭部と短めの髪を隠すと、鏡の中のフランツは、どこから見ても若い農婦の姿になった。
そうフランツが言うと、傍らで旅の支度をしていたジークは苦笑した。
「そんな華奢な手をした農婦はおりませんよ」
「大丈夫だ。これから、私の手は逞しくなるのだから。君だって引っ張っていけるさ」
フランツが手を差し出すと、ジークはその手を取り、甲にそっと口付けた。フランツが驚いて目を瞠ると、ジークもまた自分の行為に当惑したようにフランツに背を向け、旅の支度を続けた。
ジークもまた、ヨハンからもらった服に着替えていた。粗末なシャツとズボンで、袖も丈もかなり短く、逆に腹回りは大きすぎたが、外套を羽織れば傍目には分からない。農夫らしからぬ長い黒髪は、惜しげもなくばっさりと首のあたりで切った。
これらの服は、ジークの軍服と交換したのだ。今や脱走兵であるジークにとって軍服はこっそりと処分したい厄介物だったが、ヨハンはそれをぜひ引き取りたいと申し出てくれた。
「藁人形にこれを着せて置いておけば、荒くれ客へのおどしに使えるからね」
悪戯っぽく笑って、ヨハンはそう言った。
その脇からロッテが口を挟んできた。
「本当に今晩発つのかい?お姫さまの体調は大丈夫なのかい?」
ロッテはフランツが気がかりらしい。男であることがばれないように、ジークは極力フランツを部屋から出さなかったこともあり、彼を深窓の姫君と信じ込んだ彼女は、今度は着古した臙脂色のマントを持って部屋にやってきた。
「騎士さまには分からないでしょうけどね、女に冷えは大敵なんだよ」
善良な彼女を騙すのは気が引けたが、ジークは恭しく感謝の言葉を述べてマントを受け取った。そしてジークはといえば、フランツが猟師から奪った熊のような大きな毛皮の外套を着た。
当初、ジークはその外套を羽織るのを躊躇っていた。フランツにとっては思い出したくもない男の着ていた物だ。だが外套を処分しようとするジークに、フランツは異を唱えた。
「それなら君は何を着るのだ?軍のコートでは、すぐに身元がばれてしまう。その毛皮は、汚いが温かいことだけは保障する。それに竜眼の剣をすっぽりと隠せるくらいには大きいから、役人から咎められることもないだろう」
「ですが、殿下、それでよろしいのですか…?」
複雑な表情でジークが問うと、フランツはわざと厳しい顔をして唇に指を当てて言った。
「違うぞ。私は、フリーダだ」
「これは大変失礼いたしました。フリーダ」
ジークが苦笑すると、フランツも笑顔を見せた。
「本当に、私のことなら気にしないでくれ。大丈夫だ。君がいれば、どんなことにだって耐えられる」
そう言って、フランツは猟師の外套を手にした。ふと思い出してそのポケットを探った。すると指が滑らかな冷たいものに触れた。
真珠の首飾りだ。
猟師の男がフランツから奪った後、無造作にポケットに突っ込んだ首飾りだ。薄い桃色を帯び、まるで朝焼けの海から生まれたような、大粒の真珠の首飾り。フランツはその首飾りをジークに差し出した。
「ジーク、この宿の主人であるヨハンとロッテに礼がしたい。この首飾りを差し上げようと思うのだが」
ジークは目を見張った。
「これは、立派な…」
「ああ、カイザーリンク公爵から姉上への贈り物だ」
「左様でございますか」
ジークはしばらく考え込んだが、意を決して口を開いた。「殿下…いえ、フリーダ、これだけ大粒で微妙な色彩の真珠とあれば、おそらく値もつけられぬほど貴重な品のはず。これから我々には宿代が必要になりますが、実は私の手持ちはそう多くはありません。確かに宿の主人たちには礼をしたいのですが、すべてを彼らに差し上げるより、この首飾りをバラバラにして路銀の足しにしたいと思うのですが、いかがでしょうか」
「あ、ああ、そうか」
フランツは頷いた。そして、逃避行に金が必要であることを、失念していた世間知らずの自分を恥じた。「そうだな。そうするのが良いだろうな」
「それでは失礼いたします」
ジークはナイフを取り出すと、首飾りの紐を切った。バラバラと零れる真珠は数えると二十個あった。その中の一つを取り、残りは小さな袋に入れてフランツの掌に載せた。
「ロッテに一つ差し上げて参ります。残りはフリーダ、貴方が持っていてください。本当は、この首飾りは貴方さまが一番似合うのですが」
そう言うと、ジークはフランツの額に軽く口付けた。まるで恋人にするように、あまりに自然な口付けだった。
「ジーク…、あの…」
フランツは何と言っていいのか分からなかった。もしかしたら、女性の格好をしているから自然に口づけが出来るのだろうか。鼓動が高鳴る。「…あの、君は…」
「失礼いたしました」
フランツの問いを遮るように、ジークは部屋を出て階下へと降りていった。
とっぷりと夜が更けると、ジークとフランツは宿を後にした。農夫「ヨハン」とその妻「フリーダ」として。
真っ白な愛馬ワルキューレ号の背には、フランツが乗り、ジークが引き綱を引く。
「ジーク、君も乗れるから…」
「いいえ、ワルキューレが疲れます。フリーダ、あなたはしっかり掴まっていてください」
そう言うと、雪明かりが微かに照らす暗い街道を歩き出した。
空には星が凍てついたように輝き、寒さがギシギシと骨に食い込んでくる。フランツはワルキューレの首に顔を寄せた。そこから温かさがじんわりと伝わるのが救いだ。
宿場町から遠ざかり、道が山の中に入ると、ジークはフランツが着ていた、血がついたドレスを街道から離れた雪の中に埋めた。
「これなら、春になるまで分からないでしょう」
そう言って戻ってきたジークを、フランツは馬から降りて迎えた。
「すまない、何から何まで君にさせてしまって…」
「大したことではありません。さあ、また馬にお乗りください。足元から冷えていきますよ」
「ジーク、私たちはどこへ行くのだ?」
「まずは国境を越え、オーストリアに入りましょう。敵国ではありますが、さらに東へ進むと、別の神が治める地に行き着くはず。そこまでは追っ手は来ないでしょう。それでよろしいでしょうか」
「勿論だ。むしろ楽しみで仕方がないくらいだ」
フランツがそう答えると、ジークもまた穏やかに笑った。
「頼もしい限りですね」
ジークはおもむろにフランツのマントを頭からすっぽりかぶせ、そのまま横抱きにしてワルキューレの背に乗せた。「さあ、それならもう少し進みましょう。まだ夜明けには間がある。朝が来る前に、次の宿場町までたどり着かなければ」
そう言って、励ますようにフランツの手をそっと叩いた。
「陛下、恐れながらお耳に入れたいことが…」
宮殿のヴィルヘルム王の私室を訪れたのは将軍のレーベンだった。
ヴィルヘルムはワインの杯を卓に置いて大儀そうに立ち上がると、声の方を睨んだ。
「何だ、レーベン。やっとあの馬鹿息子が見付かったのか?」
フランツの失踪から、既に三日が過ぎていた。
「い、いえ。それが…」
「死体でも構わんぞ」
王は冗談とも本気ともつかぬ口調で、片頬で笑った。
「い、いえ、フランツ殿下におかれましては、杳として行方はつかめず…」
「では何だ?」
「先の竜眼の騎士であったヴァルデンナハトのことにございます」
途端に、王は口をへの字にした。
「そのような者の名なぞ聞きたくもないわ。ノルデンシュタットで朽ち果てれば良い」
「それが、ヴァルデンナハトがノルデンシュタットに向かう途中で脱走したとの知らせが入りました」
「脱走?」
王は大きな目でギロリとレーベンを睨むと、次の瞬間、杯を床に思い切り叩きつけた。赤いワインが、血のように床の絨毯に広がっていく。
「竜眼の騎士が脱走だと?」
レーベンはこれ見よがしに嘆いて見せた。
「はい、耳を疑うことにございます。まったく、何という情けないことでございましょう。たとえ任を解かれたとはいえ、かつて竜眼の騎士であった者が軍から脱走するとは、恥を知らないのでしょうか。恩を仇で返す、万死に値する所業にございま…」
「…フランツだな」
レーベンが言い終わらぬうちにヴィルヘルムは呟いた。そしてカッと虚空を睨むと、卓を拳で叩いた。「フランツの、あの気違いの仕業だ!」
「い、いえ、陛下。王太子殿下は関係なく…」
「関係ないものか!すべて、フランツが企てたことに相違ない。今ごろ、ヴァルデンナハトとどこかで落ち合い、我らが宿敵のオーストリアにでも向かっていることだろう!」
「で、ですが、王太子殿下にそんなお考えがあったとは…」
「いいや、奴は考えていた。フランツは心の底では私を憎んでおるからな。私を亡き者にしたいのだろう。奴は、何をやらかすか分からぬ。そう、ルドルフ兄上とそっくりだ!」
吐き捨てるように王は言った。「ワインを持ってこい!不愉快だ!」
王は大声で叫ぶと、どっかりと乱暴に椅子に腰を下ろした。腹立たしいことばかりが続く。
実は先刻、カイザーリンク公爵の使者が王の私室に内密でやって来たのだ。王女ゾフィーとの結婚の許可を求めてのことだった。王にとって、裕福なカイザーリンク公爵との縁組は歓迎したいが、その言い草が気に食わなかった。
「先にお贈りした、カイザーリンクの家宝の真珠の首飾りは、ゾフィー殿下のお気に召したでしょうか。我らが主人はとても気を揉んでおりまして。なんといっても母上から引き継いだ首飾りであり、薔薇色の真珠の風合いから、『暁の海』とも呼ばれる逸品でして…」
首飾り一つでぐだぐだ言うなど、度量の狭い男だと王は思ったが、そのまま放置するわけにもいかぬ。使者が帰った後、ゾフィーを呼び出して問うが、「首飾りはフランツが欲しがっていたので渡した」との答えで、埒が明かなかった。ゾフィーも結婚には乗り気ではないようだ。
(しかし、なぜフランツはそんなものを欲しがるのか。なんと歪んだ性根をしているのだ、あの男は)
一方、レーベンは王の怒りが静まるのを待っていた。その間、ずっと彼は考えていた。これはヴァルデンナハトを葬り去るチャンスだ、と。ヴァルデンナハトは追放されたとはいえ、もともと王の覚えめでたき騎士だ。いつまた王の気が変わり、彼を取り立てるかも分からない。その時は、自分は取って代わられるに違いない…。
レーベンは駆けつけた召使いからワインの瓶を奪うと、恭しく王に差し出した。そしてわざと重々しく口を開いた。
「陛下、私が思いますに、今回の王太子殿下失踪と我が甥グラーツ殺害は、すべてあの男、ヴァルデンナハトが仕組んだのではないかと…」
「そんな馬鹿なことがあるか。奴は宮殿を早々に離れ、フランツが消えたころにはノルデンシュタットに向かっていたのだぞ。そもそも、そんなことをしてヴァルデンナハトに何の益がある?」
王は鼻で笑って杯を飲み干した。その通りなのだが、レーベンは食い下がる。
「で、ですから、宮殿内に…そうですね、誰か、ヴァルデンナハトと通じていた者がいたのだと思います。ヴァルデンナハトは、おそらくオーストリアの差し金で王太子殿下をさらい、殿下を守ろうとした我が甥グラーツを殺害したのではないかと…」
「…確かに、あの軟弱者のフランツにグラーツが殺せるとは思えぬからな」
王は嘲るように言った。レーベンは大いに頷く。
「そうです。何より、グラーツの遺体の側には、陛下から賜った竜眼の剣がありませんでした。何者かがグラーツを殺害した後、あの剣を持ち去ったのです。そして、あの剣に執着していた男といえば、ヴァルデンナハト以外考えられませぬ」
レーベンの作り話に過ぎないが、それは口に出してみると、予想外に説得力があった。
「そうか…。そうやってヴァルデンナハトは我が竜眼の剣を手に入れたのかもしれぬ…」
ヴィルヘルム王はギリギリと歯軋りをした。
しめた、とレーベンは思った。思い通りに王が口車に乗ってくれた。
「そうです!王よ!王の剣を、です」
「…ヴァルデンナハトめ、よくも…!今まで取り立ててやった恩を仇で返すような真似をしてくれたな」
「そうです!その通りです!王よ!」
レーベンは王を追い込むように囃し立てる。その熱い口調に押されるように王は立ち上がると、宮殿中に響き渡るような大声で叫んだ。
「国を守るすべての兵に伝えよ!ジークフリート・ヴァルデンナハトをただちに捕らえよ!王太子誘拐の大罪だ!王太子もろとも、殺してしまっても構わぬ!レーベン、お前はただちに兵を率いてオーストリアとの国境に向かえ!絶対に奴らを捕まえろ!」




