第十五章
暗い。真っ暗だ。闇がぬめりと押し寄せてきて、息が出来ない。
その闇の塊を、フランツは両手で払いのけようとした。けれど、何か強い力が体全体を包むように押し寄せてきて、身動きがとれない。
…誰か!…
叫ぼうとしたが、声が出ない。
目は開いているはずなのに、何も見えない。
…私は、死んだのか?…
どこか遠くから笑い声が響いてきた。
…誰?…
声は、まだ笑い続ける。それは、フランツを嘲り嗤う声だった。
…やめろ…
声が近付いてくる。すぐ目の前まで来た。そしてフランツの腕をギリリと掴む。
…痛い!…
(痛い?おやおや、痛いのは私ですよ)
すると、目の前にぬうっと血だらけの男の顔が現れた。金髪は血に染まり、目は焦点が合っていない。
…グラーツ!…
フランツは叫んだ。だが、声にならない。
(その通り。貴方が殺した竜眼の騎士ですよ)
フランツの腕を掴んでいたのは、死んだはずのグラーツだった。血にまみれ、ぬるぬるとした手だ。グラーツの瞬きを忘れた焦点の合わない目が、フランツの顔に近付く。
…離れろ!…
(それは無理ですよ。貴方が殺したのですから。私は貴方から離れられない)
…やめろ!…
これは夢だ。フランツは知っていた。もうグラーツは死んだ。すべて夢だ。フランツは思い切り、死んだはずのグラーツの手を払おうとした。
一瞬、手が外れた。が、安心した次の瞬間、また違う力がフランツの手首を押さえてきた。
グラーツの顔は、もう消えていた。
代わりに、大きな影が覆いかぶさってきた。
…やめろ!…
(お前こそ、何をしてる。この盗人が!)
大きな影が怒鳴る。
それは、熊のような真っ黒な毛皮の外套を羽織った猟師だった。
フランツの夢は、今度はジークを尋ねて迷い込んだ炭焼き小屋に飛んだ。
宮殿を抜け出し、一晩中ワルキューレに乗って走り続けたあの日。疲れ果てて足を踏み入れた無人の炭焼き小屋で、倒れ込むように藁の中で眠りを貪っていたあの日。
若い猟師が突然現われ、大声とともに乱暴にフランツを藁の中から引っ張り出した。男の手には、獣をさばく大きな刀が握られている。
刀が鈍く光る。
(どこの貴族様か知らんが、俺の小屋に勝手に入るな!)
フランツは恐怖で体を竦ませた。
フランツのコートの裾から見えるドレスに、男は気付いた。
(女か?女がこんなところで何をしている!)
フランツは必死で懇願した。
…申し訳ございません。勝手に入り込んでしまったこと、お詫び申し上げます。すみませんが、事情がございまして、お見逃しいただけますと…
男はニヤリ、と笑うと、フランツの姿を上から下まで舐めるように見た。
(どこのお姫さんか知らないが、そんなのは、こっちの知ったことじゃないな。人に頼むからには、何かそれなりの礼ってものが必要だろ?)
…礼?…
(まさか、ただで済むと思っちゃいないだろうな)
…え?ああ、少しお待ちください…
フランツはコートのポケットを探った。宮殿を慌てて逃げ出したから、めぼしいものは持ち出してはいない。価値のありそうなものといえば、首にしていた真珠の首飾りくらいだろうか。フランツはそれを外すと、男に手渡した。
男は、フン、と鼻を鳴らすと、価値も分からぬまま外套のポケットに無造作にねじ込んだ。
(それじゃあ、この首飾りが勝手に俺の小屋に踏み込んで寝込んでた分のお代だ。あとはお役人への口止め料ってのもいるよな)
…でも、他には何も…
(そのドレスもいただこうか)
…そんな…
男の顔がにんまりと崩れる。
(いいんだぜ、こっちはすぐにお役人にお知らせ申し上げたってよ)
フランツの体が硬直する。今、引き渡されるわけにはいかない。
(照れてんのか?なんなら脱ぐのを、手伝ってやろうか)
男はいやらしげに言うと、外套を脱ぎ捨て、フランツのコートに手をかけた。コートの釦が引きちぎられる。
…無礼者!…
フランツは男を突き飛ばした。
男は一瞬呆然としたが、すぐに怒りで顔を真っ赤になった。
(ああ、俺はどうせ無礼者だ。だがな、貴族様だからって、いつでも偉そうな顔ができると思うなよ!)
男が刀を振りかざした。フランツは必死で逃げる。男の動きは決して俊敏ではなかったが、重い刃が風圧とともにフランツの体をかすめていく。まともにくらっては無事ではいられまい。
何とかかわしてきたフランツだが、ドレスに足をとられ、藁の中に倒れ込んだ。男はその機会を逃さず、体当たりをするようにフランツをどうと組み伏せた。
フランツはもがき、叫ぼうとした。だが、男の手に口を押さえられ、声が出ない。その間にもう一方の男の手が乱暴にドレスの裾から入ってきた。脚に触れ、そのまま下着を引き裂く。
男の手が止まった。
(こりゃ、驚きだ。お姫さんは男だったのか)
一瞬、戸惑うような沈黙があったが、すぐに男は野卑な嗤い声を上げた。
(まあ、大したことじゃないさ)
男の指が、フランツの体の中心に無遠慮に突き刺さる。フランツの体が引き攣った。フランツは痛みと恐怖でもがくが、二倍もありそうな男の重い体を跳ね除けることができない。
(おおっと、あんまり動くなよ)
男は刀をフランツの喉元に当てた。チリリと皮膚が切れる。
フランツの腕が藁を掴む。けれど、何もすがる物は無い。フランツは目を閉じ、心の中で叫んだ。
…助けて!助けて、ジーク!…
その時、フランツの指が、藁の山の奥で冷たい何かに触れた。
ハッとフランツは目を見開いた。眠る前に隠しておいた竜眼の剣だ。
フランツは男に気付かれぬように手を藁の中に伸ばした。男はフランツの中に何とかして入ろうと夢中になっていて、フランツの動きには気付かない。グッと手を藁の中に入れると、剣の柄がまるで吸い寄せられるように手の中に納まってきた。
フランツは声にならない叫び声を上げ、その剣を振り上げ、男に叩き付けた。ふいをつかれた男がよろけた隙に、フランツは鞘を抜き払う。
その瞬間、剣の柄に飾られた緑の石が、鈍く光るのをフランツは見た。
そして、地底から響くような無数の声がフランツの頭の中に響く。
……叩き潰せ……
……殺せ……
……お前を踏みつける者すべてを……
それは、竜眼の剣から響いてくる叫びだとフランツは悟った。初めて持った時に感じたのと同じ、真っ赤な血の奔流のような叫び。
そして剣は、自らの意志のように、男の脳天へと振り下ろされた。
「殿下、お目覚めですか?」
柔らかな声が髪に触れた気がして、フランツは瞼をゆるゆると開けた。触れられるほど目の前に、ジークの心配そうな黒い瞳が見えた。
暖かい。それは、ジークが赤子にするかのように自分を抱き締めているからだった。
「…私は、もう死んだのか?」
そうでなければ、今、ここにこの人がいるはずがない。
「殿下は、まだ寝ぼけておいでですか?」
頬を軽く叩く手に、フランツは目をしばたかせた。突き放すような率直な物言いも、ジークその人だった。
「ジーク…?本物なのか?」
「私の偽者なんぞいるわけがないでしょう。お加減はいかがですか?痛むところは?」
ぼんやりとしているフランツを尻目に、ジークはフランツの額に手を当てた。「熱は下がられたようですね。それでは、何か召し上がるものを持って参ります」
「いや、私は…」
「殿下はずっと眠っておられたのですよ。少しでも食べて、体力をつけなくては」
ジークはそう言うと、階下へと降りていった。
フランツは寝台に座ると、ぼんやりと周囲を見回した。旅の宿のようだった。藁布団の粗末な寝台と小さな机があるだけの狭くて質素な部屋だ。だが、暖炉には赤々と炎が燃えて、暖かい。みすぼらしいけれど、心が落ち着く部屋だった。
窓の外からは赤い夕陽が差し込んでいた。その日に照らされて、部屋の隅でキラリと何かが光った。
竜眼の剣に埋め込まれた、緑の石だった。人間の瞳にも似た緑の石が、夕陽を浴びて光っている。
途端に、フランツの脳裏に記憶が悪夢のように蘇ってくる。緑の石を染めた、真っ赤な血潮。息絶えたグラーツの焦点の定まらぬ目、見知らぬ男のかち割られた頭…。
…私が、殺したのだ…
フランツの全身がワナワナと震える。
その時、ジークが現れた。
「殿下、スープをお持ちいたしました」
「あ、ああ…」
慌ててフランツは笑顔を取り繕うが、頬が強張る。
「まだお顔の色がお悪いですね」
眉を寄せて、ジークが言った。
「…大丈夫だ」
フランツは目を逸らすが、ジークは構わずに傍らに座ると、スープ皿が乗った盆をフランツの膝の上に置いた。見ると、芋と野菜の切れ端が浮いたスープだった。
「粗末なものではございますが、宿の主人の心づくしでございます」
「…私は、いい。君が食べてくれ」
「食欲が無いでしょうが、召し上がってください。でなければ、出発できません」
「…出発?」
フランツは悲しげに笑った。「ジーク、君は本気で言っているのか?私がどこへ行けるというのだ?」
「どこへなりとも、殿下が望むところに。昨夜も、私はそう申し上げました。お忘れですか?」
きっぱりと、自信に満ちた口調でジークは言った。「だからこそ、召し上がってください。いかな私でも、貴方さまを背負って旅をするのは無理ですので」
ジークはフランツにスープ皿を手渡した。仕方なく、フランツは匙ですくおうとするが、先ほどからの手の震えが収まらず、うまく使えない。そう簡単に、このわななきは消えるはずはない。
フランツは目を伏せた。
「…ジーク、君は私と一緒にいてはいけない」
「なぜですか?」
「私は罪人なのだ。…人を殺めたのだから」
「存じております」
間髪を置かず、ジークは答えた。フランツは驚いてその顔を見上げる。
「なぜ、それを…」
「竜眼の剣を見れば分かることです」
フランツは目を伏せた。
「…そうか、君はすべて知っているのだな。私がしたことを」
「おそらく、大方のことは」
「それでも、君は…」
「殿下、まずはさっさと召し上がってください。スープが冷めてしまいます」
ジークはわざと突き放すように言った。それでもフランツは手を動かさない。
するとジークは焦れたように匙を奪った。「失礼いたします」と言い捨て、フランツの唇に寄せる。フランツがそっと口を開くと、ゆっくりとスープを流し込んだ。
素朴なスープだが、フランツの喉を撫でるように温かく潤していく。
「…おいしい」
「そうでございましょう」
ジークの右頬に笑くぼが浮かび、穏やかに頷く。もうひと匙、ジークがフランツの唇に寄せた。フランツは再び、そのスープを飲み込んだ。体の奥のさらに奥に、恵みの雨のごとく染み込んでいく。まるで押し出されるように、フランツの目から涙があふれた。
「…ジーク、私はもう、王太子ではなくただの罪人だ。私の側にいても、何の益も無い」
「殿下、私とても今は軍隊から逃亡した罪人です」
「私はもう、『殿下』と言われるような人間ではない」
「必ずしも、それには同意しませんが」
もうひと匙、ジークはスープをすくって言った。「確かに、殿下とはもう呼ばない方がよろしいでしょう。宿の主人は、貴方さまを深窓の姫君と信じております。いっそ、これからは王太子とその部下ではなく、駆け落ちの男女二人連れとなるのはいかがでしょう。それなら、追っ手の目も欺けるかと」
大真面目に言うジークに、フランツは吹き出した。
「駆け落ちの男女か。それはいいな。それなら私は名前も変えなくては」
「フラ…、ああ、フリーダ、ではいかがでしょう」
ジークの提案に、フランツは大きく頷いた。
「フリーダ。それは、いいな。私は今日からフリーダ。フリーダ、フリーダ」
その名を口に出した途端、体が解放されていくような気持ちにフランツはなった。ジークと駆け落ちするフリーダ。何という甘美な響きなのか。自分はこれからフリーダとして、ジークの恋人として生きるのだと思うと、それだけで力が湧いてくる。
見上げると、ジークも満足そうに微笑んでいた。
「それでは、フリーダ。しっかり食べて、少しお休みください。暗くなったら、ここを発ちます」
「暗くなったら?」
「はい。昼の移動は人目につきますから。不安でしょうが、大丈夫です。私がおります」
「何一つ不安などはないよ、ジーク」
フランツは、今にもジークに抱きつきたい気持ちを必死で抑えた。罪を犯しての逃避行なのに、冒険の旅に出るように気持ちが沸き立つのを、フランツは抑えられなかった。




