第十四章
夜を徹して、フランツとジークを乗せた馬は歩き続けた。
冬の遅い夜明けが訪れ、白く曇った空がじんわりと明るくなり始めたころ、フランツたちは小さな宿場町に着いた。ジークはなるべく人目に付かない質素な宿を選んで戸を叩き、部屋を取った。
早く遠くへ逃げなければならないことは分かっていた。王宮では今ごろ、王太子の失踪とグラーツの死に大騒ぎになっていることだろう。そしてジーク自身もまた、軍隊からの逃亡がそろそろ発覚するころだろう。
けれど、馬を、ワルキューレを休ませねばならない。昼日中に表を歩くのも危険だし、何よりジークはフランツの体調が気になった。死人のように冷たかった体が、今は熱い。熱が出ているようだ。
案の定、馬から下りたフランツは満足に歩くことすら出来なかった。ジークはフランツを横抱きにしてあてがわれた二階の部屋へと連れていき、暖炉の側に座らせた。だが、まだ火を入れて間もない部屋は氷のように寒い。フランツはガチガチと青紫色になった唇を震わせている。
ジークは階下に下りると、太鼓腹の気の良さそうな宿の主人に声を掛けた。
「すまないが、温かなスープか何かをもらえぬだろうか」
「お安い御用でございやすよ。私らがいつも口にしているような粗末なものしかありゃしませんが、今、ご用意いたしましょう」
「かたじけない。世話になりついでに頼みたいのだが、熱い湯と体を拭く布、そして着替えをもらえないだろうか。連れの服がすっかり雪で濡れてしまったのだ。このままでは風邪を引いてしまう」
「ああ、そりゃ大変だ。けど、いいんですかい?私らのみすぼらしい服しかありませんぜ」
「十分すぎるくらいだ」
「分かりやした」
奥に行きかけて、主人はジークの方にニヤッと笑って振り返った。「旦那、駆け落ちでございますね」
ジークは返答に詰まった。すると、主人は訳知り顔で手を振った。
「ああ、いいんですよ。無理にお答えにならなくても。よーく、分かっております。実を申しますとね、結構多いんですよ、この宿にはそういうワケアリのお客人が。小路の奥でございますからね」
「わ、私は…」
「見たところ、お連れさまは貴族のお姫様だ。そうでしょう?」
「姫…」
言いながら、ジークは正直ホッとした。良かった。フランツだとバレてはいない。確かにドレスを着たフランツを、誰も王太子とは思わないだろう。
「ご主人、その通りだ。実は、姫は意に染まぬ結婚をさせられそうになってな」
ジークは襟元を緩め、これみよがしに大きな溜め息をついて作り話を始めた。「かわいそうに、相手は金持ちで身分も高いが、父親よりも年上で、乱暴で短気な男だ。それで思い余って逃げておられるのだ。誰にも気付かれずに、異国にいるご親戚にお届けせねばならぬ。すまないが、世話になる。礼は十分にする」
宿の主人はなるほど、という顔で頷いた。
「さしずめ、旦那はお姫様の騎士ですかい?」
「ただの護衛だ」
「でも今はお姫様のいい人でございましょう?」
「わ、私は…」
ジークが口ごもると、宿の主人は楽しそうに笑った。
「いいんですよ、あたしゃこんな仕事をしてますからね、話は分かる方だ。旦那たちみたいなお客人は金払いがいいから、あたしらも嬉しいですしね。運命の恋に落ちちまったら、後先なんざ考えられない。人生がとんでもない方向に転がろうとも、そこまで愛しいと思える人に出会えた人間は幸せだ。旦那たちの幸運を祈ってますよ」
ジークは苦笑した。
「かたじけない、ご主人」
「ヨハンで結構ですよ」
そう言うと、ヨハンは浮き浮きとした様子で奥へと消えていった。
「殿下、お加減はいかがですか?」
ジークは湯を張った盥を手に、部屋に入った。だが、返事がない。覗くと、フランツは暖炉の脇に座ったままうつらうつらと舟を漕いでいた。
ジークはホッとすると、そっとフランツの体を抱えて寝台へと移した。フランツは眠りから覚める気配もない。
ジークは、このまま眠らせた方が良いかとも思ったが、せっかく手に入れた湯だ。傷も洗った方が良いだろうと考え、冷めぬうちに固く絞った布で眠ったフランツの汚れた顔や髪を丁寧に拭いた。
フランツは眠ったまま、されるがままになっている。
スカーフを取ると、父王に剣で殴られた頭の傷の包帯が見えた。だが、ここ数日取り替えていなかったのだろう、血が固まってこびり付いている。はがす時に、フランツは小さな声を上げたが、またすぐに眠りに落ちた。
眠りというよりも、意識を失っているようだ。ジークは眉を寄せた。
(こんなに衰弱してしまうくらい、冷たい夜の闇を走ってきたのか。たった一人で。私に剣を手渡すためだけに)
そう思うと、ジークの胸の奥から、どうしようもない切なさにも似た何かがこみ上げてきた。
幸い、フランツの頭の傷はそれほど深くはなかった。宿のヨハンからもらった軟膏を傷に塗り、油紙を敷いて清潔な布で押さえた後、包帯で丁寧に巻いた。逃亡の苦難を語るかのようにフランツの両手には重い霜焼けもできていて、ジークはそれにも軟膏を塗った。
それでもフランツは目覚めない。ジークは少し躊躇ったが、このままの姿で眠らせては風邪を引くと決断し、フランツの服を脱がせにかかった。
どこから手に入れたのか、農夫が着るような熊に似た大きな外套をはだけると、その下にはちらちらと見えていた薄紅色のドレス。
が、ジークの眉間の皺がさらに深くなった。
確かに、かつてフランツが着ていたドレスだった。ふわふわとした、レースをふんだんに使った繊細な美しいドレス。だが、今それはあちこちが無残に引き裂かれ、血が飛び散っている。
(どういうことだ?)
注意深く、ジークはフランツのドレスを脱がせ、その肌を湯に浸した布で拭いていった。
ジークの目が驚きで見開かれる。
フランツの体は、傷だらけだった。父王に殴られたであろう打撲だけではない。あちこちに擦り傷や切り傷がある。
(まるでこのドレスで壮絶な格闘をしたかのようだ)
いや、恐らくそうなのだろう。一体、何が起きたのか。
傷は腕や首だけではなかった。下着を脱がせると、太股や臀部にまで、無数の擦過傷があった。
(これは、まさか…)
ジークは震える手を押さえながら、丁寧にフランツの傷を洗い、体を拭いた。すべてが終わるころには朝の光も窓越しから差し込み、部屋は明るくなっていたが、フランツは昏々と眠ったままだ。
ジークはフランツの体を清潔なシーツで包むと、温かな毛布と布団を掛けた。だが、それでもフランツはまるで死んだように固く目を閉じ、反応が無い。
本当に生きているのか不安になり、ジークは顔を近づけた。すぐ側まで寄って初めて、微かな寝息が頬に触れた。ジークは安堵した。と同時に、ジークの黒い瞳から涙が溢れてきた。
(こんな思いをしてまで、この方は…)
ジークは顔を振って涙を堪えると、シーツから出ていたフランツの指を、毛布の中に入れようとした。
その時、雪で造ったように冷たい指が微かに動き、ジークの手を握った。
「…ジーク…」
「殿下?」
フランツは答えない。まだ眠りの中にいるのだ。
その指を振り払うことなど、ジークには出来なかった。
「殿下、これからはこのジークフリートが貴方さまをお守り申し上げます。もう、もう二度と、貴方さまを傷つけるような者たちは近寄らせません」
手をしっかりと握ったまま、ジークは呟いた。
目を覚まさないフランツの額にそっと口付けると、ジークはそのフランツの傍らに自分の身を横たえ、フランツの体を毛布ごと繭のように抱き締めた。
この世のあらゆる邪悪なものから、その身を呈して守るかのように、ジークはフランツをしっかりと抱き締めた。フランツの微かな呼吸の音を聞きながら、ジークもまた深い眠りについた。




