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王のカノン  作者: 秋主雅歌
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第十三章

 馬のいななきを聞いた気がして、ジークは体を起こした。

 彼がいるのは、北の果てノルデンシュタットへと向かう街道沿いにある小さな町バンベルクの宿屋の大部屋だった。寄せ集めの兵士たち二十人以上が雑魚寝している。寝返りを打つのも難しいほどの狭さだったが、冷たい隙間風の入り込む部屋の中では、それすらもありがたい。寝心地が良いとは決して言えなかったが、夜明けもまだ遠い宵ゆえに、誰もが高い鼾をかいていた。

 ジークは周囲を見渡した。新入りである彼は、入り口に近い最も寒い場所をあてがわれていたため、外の音は嫌でも耳につく。ジークはしばらく周囲を見回し、気配を探った。

(気のせいか)

 ジークは毛布をかぶると、再び目を閉じた。明日の行軍のために少しでも体力を回復させたかった。

 何日も降り続いていた激しい雪は今朝、やっと収まった。彼のいる小隊は遅れを取り戻すため、今日は朝から深夜まで歩き通しの強行軍だった。そして今、束の間の休息をとっていたのだ。

 王お抱えの「竜眼の騎士」から傭兵たちと同じ一兵卒へと落とされたジークに、周囲の兵士たちは当初、興味津々だった。「どんな失敗をしたのだ」とからかい、勝手な想像の噂を流す者もいたが、ジークの寡黙な威圧感におされて、彼らはすぐに大人しくなった。その後、兵士たちは彼の存在を気にかけつつも、ただ無視するようになった。

 また、馬のいななく声がした。

(やはりそうだ)

 ジークは今度こそ頭を上げた。男たちの鼾をよけるように、じっと耳を澄ます。キュッ、キュッという雪を踏み固める音がした。宿のすぐ側を、馬か何かが歩いている気配がする。

(こんな夜更けに?)

 不審に思ったジークは衣服を整え、外套を纏うと、誰も起こさないようにそっと宿屋を出た。

 外は星の光までも凍てつくような寒さだった。冷たい空気は、ガラスの破片のようにジークの体に突き刺さる。

 ジークはブルッと身震いした後、眉を寄せた。見張りがいない。

 あまりの寒さに、宿に籠もったのだろう。宿屋の周囲や街道には人っ子一人見当たらない。バンベルクは小さな平穏な町で、見張りがいなくても大したことはないとは思うが、国境に近く、オーストリアとの仲は今、決して良好ではない。

 用心に越したことはない、とジークは考え、宿の周囲を見回ることにした。どうせ眠れるはずなどないのだから。

 残してきたフランツのことが、気がかりだった。父王から情け容赦なく竜眼の剣で殴られ、失神した王太子。その姿を思い出すたびに、心が痛んだ。あの華奢な体で、あの傷に耐えられるだろうか。体だけでなく心も。

 そして、それ以上に頭を離れなかったのが、竜眼の剣だった。あの剣の石に触れるたびに、どこか遠くから頭の中に響いてくる、あの歌。

(あの歌が聞こえるのは、私と殿下だけだ。グラーツには、あの卑怯者には、あの石は歌うまい。だから、あの剣の持つべき人物は奴ではなくて…)

 私なのだ、と思った瞬間、ジークは首を振った。

(何を馬鹿なことを。あの剣は王の物。ジークフリートよ、お前はなんと不遜なのだ。そんなお前だから、ノルデンシュタットへ流されるのだ)

 ジークはぼんやりと街道を見た。降り続いた雪のため、道はぼんやりと青く発光している。

 ふと、ジークは足元に目を凝らした。雪の上に点のように続く、何かの足跡がある。

 屈み込んで、その跡を凝視した。

(やはり馬だ。一頭の馬が、つい先ほどここを通った)

 ジークは音を立てずにその跡を追った。

 辻を二つ曲がったところで、ジークはその馬に追いついた。それは、雪に溶けてしまいそうな真っ白な馬だった。馬上には人影が見えた。

(…女?)

 よく見ようと、ジークは目を眇めた。馬上の人物は熊のような大きな外套を纏っているが小柄で、その下からは淡い色のレースのスカートの端が見えた。

(こんな夜にただ一人で?もしや、魔女か?)

 ジークは腰の剣に手を掛けた。傭兵たちに支給される剣はやたらに重く、切れ味も鈍い。かつて彼が携えていた竜眼の剣とは比較にならない鈍重さだ。しっくりこない剣に小さく舌打ちをした後、ジークは息を殺し、少しずつ間合いを詰めていった。

 すぐ後ろまで来たところで、ジークが叫んだ。

「待て!そこの女!」

 その声に、馬が止まった。ゆっくりと、馬上の女が振り返る。

「…ジークなのか…?」

 掠れた声が、女の口から漏れた。

 ジークは言葉を失った。雪明りに照らされて、浮かび上がるその姿は。

(なぜ、この人がここにいるのだ?)

「…殿下…?」

 だが、なんという異様な姿なのか。ジークはあらためてフランツを見た。

 貧しい農夫が着るような汚れた大きな外套をまとい、その下から見えるのは淡い色のレースのドレス。だがそれも雪に濡れ、あちこちが破れている。頭を覆ったスカーフは雪で凍りついている。その様子は気がふれた魔女としか思えず、王太子と気付く者はまずいないだろう。

「…殿下、なぜ、ここに…?」

 ジークは喉の奥から声を絞り出すと、馬の元へと駆け寄った。馬も…ワルキューレ号もまた、ジークを認め、鼻を鳴らす。

「ジーク…!」

 フランツは再び、細く掠れた声を出した。その瞬間、張り詰めていた糸が切れたかのようにフランツの体が馬上から崩れ落ちる。

 慌ててジークが駆け寄り、フランツの細い体が地上に落ちる前にしっかりと抱きとめた。

 その瞬間、ジークは蒼白になった。フランツの体が、氷のように冷たい。急いで自分の手袋をとり、フランツの顔に触れた。まるで死人のように固く、冷え切っている。

「殿下!こんなにお体が凍えて…!一体、なぜここに…」

 ジークは必死でフランツの体を擦り、温めようとする。

「…ジーク、会えて良かった…」

 フランツはジークの腕の中で、吐息よりも小さな声で答えた。その面差しは青ざめ、げっそりと痩せこけ、目ばかりが光って見えた。

「お気を確かに、殿下。今すぐに宿を用意させます」

「…やめろ、ジーク」

 弱々しい声だが、きっぱりとフランツは言った。「…私はもう、戻らない。もう私は王太子などではない。私は、ただの…罪人だ」

「殿下?どういうことですか?」

 フランツは外套の中に抱えていた一振りの剣を、ジークにそっと手渡した。それは緑に輝く石をはめ込んだ、あの、竜眼の剣。

「君の、剣だ」

 ジークは受け取ると、食い入るように剣を見詰めた。その柄には、あの深い緑色をした石が埋め込まれている。間違いなく竜眼の剣だ。ジークはその石に触れた。冷たい石なのに、微かに温もりが感じられる。それはフランツの温もりのためだったが、なぜかジークには石自体の喜びの吐息のようにも感じられた。

(ああ、私の剣。やっと戻ってきたのだな)

 押し寄せる歓喜。だが同時に、ジークの背中に冷たい汗が流れた。

「殿下、どうして、この剣がここにあるのです?」

 持ち主のグラーツは?王から賜った剣を、奴が手離すはずがない。フランツは一体、どうやってこの剣を取り戻したのか。

 ジークは剣を鞘から抜き、その刃を見詰めた。

 刃こぼれが、ある。そして刃の表面には脂の曇り。数えきれぬほどの戦を経て、あまたの命を吸ってきた剣ではある。だが、自分は手入れをしてきた。刃こぼれも、脂も、そんなものは今まで無かった。

 恐ろしい想像が、ジークの胸に湧き上がる。

「…殿下、もしや…あなたはグラーツを…」

「だって、この剣は君の物だもの。君、大切にしていたじゃないか」

 フランツは泣きそうな顔でジークを見詰めた。

 ジークは、それですべてを理解した。

(…この方は、ご自分の手を血で汚したのか?…私のために)

「…この剣は、私の物ではなく、お父君の、陛下の物なのですよ」

「…違う。この剣は、君の物だ」

 ジークは何かを言いかけたが、言葉にできずに目を閉じた。

 フランツの顔が泣きそうに歪んだ。ジークは喜んではくれない。冷静に考えてみると、それは当たり前のことだった。その事実に、フランツは自分がいかに愚かだったかに初めて気付いた。

「ジーク…ごめんなさい。勝手に馬鹿なことをして。本当にごめんなさい。でも、どうしても、君に渡したくて…」

 喜んでくれると思った。どうしても、君に会いたかった。ただそれだけしか考えられなかったんだ。フランツは唇を噛んだ。

「…ごめんなさい…」

「殿下…」

 ジークは目を開けた。そして、剣を再び鞘に納めると、剣ごとフランツを力の限り抱き締めた。「殿下は、何と馬鹿なことを…」

「…ごめんなさい」

 フランツの髪から血の匂いがするのを、ジークは感じた。父王から殴られた頭の傷のためなのか、それとも、フランツが犯した罪のためなのか。

 そして、ジークには分かっていた。あの竜眼の剣の刃こぼれの状態では、フランツが手にかけたのはグラーツ一人ではないだろう、と。

 ジークは一層フランツの体を強く抱き締めた。そして、自分を恥じた。フランツよりも竜眼の剣を案じていた浅ましい己を。それほどに大事だった。だが、そのためにフランツを追い詰めてしまったのだ。

「殿下は、…愚かです」

「…ああ」

「私ごときに、そんなことまで…」

「…でも、私の独りよがりだった。君には…君には、迷惑だったんだよね…」

 フランツが悲しそうに笑った。

 ジークは頭を振った。

「光栄に…この上なく光栄にございます」

 フランツは無言で頷く。

「ですが殿下、これからどうするおつもりですか?」

「どうもしないよ。このまま放っておいてくれ。大丈夫だから」

「何を馬鹿な…」

 もうフランツは王宮には戻れないだろう。王お抱えの竜眼の騎士グラーツを手にかけたのだ。罪人として幽閉されるなら、まだましだ。逆上にしたヴィルヘルム王に殺されるかもしれない。いや、その可能性こそ高いだろう。

「殿下、参りましょう」

 ジークはフランツから体を離すと、しっかり目を見詰めて言った。フランツは当惑して目を伏せる。

「…私はもう戻れないのだ。君は気にせずに、私をその辺りに捨て置けばいい」

「この地で冷たくなるのが本望、とでも言うおつもりですか?」

「…だって、それしかもう…」

「殿下、私は憤慨しております。そんなことを、この私がするとでも思ったのですか?」

 ジークの厳しい叱責に、フランツは目を伏せた。すると、さらにジークは言い募る。「殿下、人と話をする時はしっかりと目をご覧になりなさい。そう、お教えしたではありませんか!」

 フランツは慌てて顔を上げた。

「…ご、ごめんなさい。でも、もう駄目なんだ。私は、もう王宮には…」

「王宮には戻りません。殿下を捨て置いたりなぞもいたしません」

 ジークはきっぱりと言った。その黒い目が、ひたとフランツを見詰める。「殿下さえ諦めなければ、道はまだ無数にございます。地の果てまでも、ご一緒に参りましょう」

 フランツの水色の瞳は大きく見開かれ、次の瞬間、涙が湧き上がった。頬には薔薇色の生気が蘇る。

「ジーク、そんな…。それで良いのか?こんな私を…」

 ジークは頷くと、微かに笑った。右頬に笑くぼができていた。

「このワルキューレ号とともに、どこまでもお供いたします。殿下がお望みであるならば」

 フランツは言葉にできず、ジークに抱きついた。

 ジークはフランツを再びワルキューレ号の馬上に乗せると、今度は自分も後ろに座り、しっかりとフランツの体を抱え込んだ。

 ジークは馬の腹を軽く蹴った。ワルキューレ号は寒空での二人の男という荷物に、最初はさすがに気が進まぬ風情で頭を振った。

「申し訳ないが、頼むぞ、ワルキューレ。お前だけが頼りだ」

 そう言ってジークがたてがみを撫でると、ワルキューレ号はその言葉が分かるかのように、渋々といった様子で、再び雪の街道を歩み始めた。


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